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第07課 恵み

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작성자 나도람 작성일09-05-15 10:21 조회3,460회 댓글0건

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第07課 恵み

暗唱聖句
【口語訳】 ロマ 5:8 しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。
【新共同訳】 ロマ 5:8 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
【新改訳改訂第3版】 ロマ 5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
【リビング・バイブル】 ロマ 5:8 しかし、私たちがまだ罪人であった時に、神様はキリスト様を遣わしてくださいました。 そのキリスト様が私たちのために死んだことにより、神様は私たちに、大きな愛を示してくださったのです。 <NKJV> Rom 5:8 But God demonstrates His own love toward us, in that while we were still sinners, Christ died for us.
<KJV> Rom 5:8 But God commendeth his love toward us, in that, while we were yet sinners, Christ died for us. <NIV> Rom 5:8 But God demonstrates his own love for us in this: While we were still sinners, Christ died for us. <TEV> Rom 5:8 But God has shown us how much he loves us-it was while we were still sinners that Christ died for us!
J-ばいぶるGREEK 原書講読画面
Rom 5:8
suni,sthsin de. th.n e`autou/ avga,phn eivj h`ma/j o` qeo,j( o[ti e;ti a`martwlw/n o;ntwn h`mw/n Cristo.j u`pe.r h`mw/n avpe,qanenÅ
<文法解析ノート> Rom 5:8
@1# suni,sthmi suni,sthsin vipa--3s 動)直現能3単 いっしょに立つ、推薦する、示す
@2# de, de. ch 接)完等 さて、そして、次に、しかし
@3# o` th.n dafs 冠)対女複 冠詞(この、その)
@4# e`autou/ e`autou/ npgm3s 代)属男3単 彼自身、自分自身、
@5# avga,ph avga,phn n-af-s 名)対女単 愛
@6# eivj eivj pa 前)対 ~へ、まで、のために、に対して
@7# evgw, h`ma/j npa-1p 代)対1複 私、わたし
@8# o` o` dnms 冠)主男 冠詞(この、その)
@9# qeo,j qeo.j( n-nm-s 名)主男単 神
@10# o[ti o[ti abr/cs 関代)/接)従 ~と、なぜなら
@11# e;ti e;ti ab 副) まだ、なお、さらに
@12# a`martwlo,j a`martwlw/n a--gm-p 形)属男複 罪人
@13# eivmi, o;ntwn vppagm1p 分)現能属男1複 ある、~である、~です
@14# evgw, h`mw/n npg-1p 代)属1複 私、わたし
@15# Cristo,j Cristo.j n-nm-s 名)主男単 キリスト
@16# u`pe,r u`pe.r pg 前)属 のために
@17# evgw, h`mw/n npg-1p 代)属1複 私、わたし
@18# avpoqnh,|skw avpe,qanen) viaa--3s 動)直アオ能3単 死にかけている

安息日午後 今週のテーマ
参考   (聖書の達人2新キリスト教辞典)
■ひかくしゅうきょう 比較宗教
初代教会の時代から,*キリスト者はギリシヤやローマの諸宗教と出会い,対決を含めいろいろな影響を受けながら,神学を発展させ,*教会を組織・発展させ,*宣教の働きを担ってきた.この宣教の働きは,今日も世界の各地で継続している.歴史を支配し,人を含めすべての被造物を支配している唯一の神を信じるキリスト者にとって,キリスト教以外の*諸宗教をどのように理解すべきであろうか.この問が「比較宗教」の原点である.この問題は長い間,*一般啓示の問題として神学の領域の中で扱われてきた.19世紀後半になって*宗教学が科学の領域の中で扱われるようになると,*キリスト教も世界の諸宗教の一つとして,その類似点や相違点の比較研究の対象となってきた.神学の領域における比較宗教と,社会科学としての宗教学の領域における比較宗教の差異は,現代のパラダイム論において取り扱われているが,異なったパラダイムを比較する共通の土台となる領域が現在はまだ発展していない.従って現在のところ,諸宗教を比較しようとする場合,神学の領域における比較か,または社会科学の領域における比較かを明確にしておく必要がある. さて,社会科学の領域においては,F・マックス・ミュラー(1823―1900年)以来,宗教学に比較の手法が取り入れられた.この場合,比較宗教とは,(1)世界中の宗教(キリスト教を含む)を,自然科学的な原因―結果(因果律)を土台として研究し,(2)研究の対象としての諸宗教に関する諸事実(Facts)を解釈を加えず収集し,(3)共通する事実を土台として比較(comparison)を行い,(4)比較の結果,宗教の本質・起源・機能・目的などの解明を行う.この手法は,比較によって自分の信じている宗教や,他宗教及び宗教一般に関してもよりよく知ることができるという暗黙の了解に立っている.この比較の手法に関しては,社会科学者の中にも,(1)比較しようとする人の意図や目的によって影響されすぎないか,(2)比較対照する宗教の諸事実を,事実としてのみ収集できるのか(収集した宗教的事実は,宗教的信仰を持つ者と持たない者との間で同じ意味を持つのか),(3)宗教的事実を支える歴史的文化的状況をどこまで理解した時に,比較をする材料となり得るか,等の基本的な問が残る(参照「比較研究の反省」〔「理想」1978年4月号〕理想社).従って,ミュラーの手法の中に,キリスト教的*歴史観と*創造論に基づいた宗教観が内在していると見ることができる.一方,神学的領域から見た比較宗教とは,(1)世界中の宗教は神の創造のわざとしての*自然啓示であるとし,(2)研究の対象としての諸宗教を通しての神の語りかけの収集を行い,(3)収集した神からの語りかけを,特別啓示であるキリスト教を土台として比較し,(4)比較の結果として,神の共通の語りかけや語りかけの強弱・真偽などを判別し,*信仰を深めるのに役立たせる.この手法の前提となるのは,自然啓示を研究してそこから神への探究を始めることはよいことであり,諸宗教の比較により*特別啓示をよりよく理解でき,信仰を深めることができるという暗黙の了解である.この手法の問題点としては,(1)人間の営みとしての研究に伴う*罪や腐敗をどのように避けることができるか,(2)罪人の中に「*神の像(かたち)」が残されているにせよ,罪人が*偶像を求める宗教活動の中に,特別啓示を補うものが含まれるのか,(3)一般啓示としての宗教をどこまで理解した時に,特別啓示と比較し得るのか,などの問がある(参照「比較宗教」『神学辞典』聖書図書刊行会). 比較宗教を取り扱う時,神学の領域と社会科学の領域とが混乱すると,この混乱の結果として大きな問題が生じる.(1)社会科学における相対性をキリスト教に対する挑戦と見て,社会科学の営みを″罪″とするならば,これは社会科学の営みを神学の領域で扱おうとするがゆえの混乱であり,そこでは社会科学的比較は行い得ない.(2)キリスト教の唯一神信仰や絶対性,またその霊的な側面を,社会科学的な宗教的事実(Facts)として扱えないと考えるならば,これは宗教の営みを社会科学で割り切れる分野でのみ推し量ろうとするがゆえの混乱である.ここでも諸宗教の比較は行い得ない.従って,宗教としてのキリスト教と宗教としての種々の他宗教とをそのまま比較し得る新パラダイムはまだ形成されていないが,信仰者が,他宗教や社会科学の中にも神の創造のわざを認め,また社会科学者が,宗教としてのキリスト教や他宗教を丸ごと宗教的事実(Facts)として認める時,新しいパラダイムが生れる可能性はある.それまでは,神学の領域においても,社会科学の領域においても,それぞれの領域の主要目的(信仰の向上,宗教の知的把握と活用)に沿って比較宗教を行うことが望ましい.→諸宗教とキリスト教,宗教(神)学,啓示論.(金本 悟)
*不法の秘密
【口語訳】 二テサ 2:7 不法の秘密の力が、すでに働いているのである。ただそれは、いま阻止している者が取り除かれる時までのことである。
【新共同訳】 二テサ 2:7 不法の秘密の力は既に働いています。ただそれは、今のところ抑えている者が、取り除かれるまでのことです。
【新改訳改訂第3版】 Ⅱテサ 2:7 不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。

日曜日 神は救いを与えられる
問1
【口語訳】 創 22:8 アブラハムは言った、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」。こうしてふたりは一緒に行った。
【新共同訳】 創 22:8 アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。
【新改訳改訂第3版】 創 22:8 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。
【リビング・バイブル】 創 22:8 「だいじょうぶ、神様がちゃんと用意してくださるよ。」 二人はどんどん先へ進みます。 問2
【口語訳】 創 3:15 わたしは恨みをおく、/おまえと女とのあいだに、/おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、/おまえは彼のかかとを砕くであろう」。
【新共同訳】 創 3:15 お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」
【新改訳改訂第3版】 創 3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」
【リビング・バイブル】 創 3:15 以後おまえと女はかたき同士、おまえの子孫と女の子孫も同じだ。 女はおまえを恐れるだろう。 子孫同士も、互いに相手をこわがるようになる。 おまえは彼のかかとにかみついて傷を負わせるが、結局は彼に頭を踏み砕かれてしまうのだ。」 注解   (聖書の達人2聖書注解)
15節はユスティノス(160年頃)やエイレーナイオス(180年頃)以来,しばしば原福音(プロトエヴァンゲリウム,protoevangelium)と呼ばれ,聖書で最初のメシヤ預言であると見なされてきた.しかし文脈で見る限り,それほどはっきりしてはいない.誘惑者である蛇と被誘惑者である女との間には子々孫々に至るまで戦いがあり,女の子孫が蛇の子孫にではなく,蛇に致命傷を与えると言っているようである.女の子孫は単数形であるが,集合名詞にもなり,集団を表現し得る.女が「すべて生きているものの母」である(20)との表現から,まず「人類」を連想させるが,この〈子孫〉という語は,預言的な文脈においては集団の中の特定の一個人に焦点を絞る語でもある.例えばⅡサム7:12の「世継ぎの子」(直訳「あなたの後のあなたの子孫」)は,Ⅱサム7:13,Ⅰ列5:5,8:19‐20などからソロモンを指すと思われるが,彼の王国は確立されてとこしえまでも続く(Ⅱサム7:13)と言われ,ダビデがはるか先のことまで告げ知らされた(同7:19)と言っていることを考慮するなら,単にソロモンだけを指しているとは考えがたい.このいわゆるダビデ契約は詩89:19‐37にも出て来るが,そこでは同じ文脈において,同89:29のダビデの子孫を同89:30では「彼の息子たち」(詩89:29の「子孫」は創3:15の〈子孫〉と同じ語だが,詩89:30の「子孫」は別の語で複数「息子たち」)と言い換えており,同89:31,32ではそれを複数で受けている.ダビデの子孫は明らかにソロモンだけではなく,ソロモンも含むダビデの子孫の集合体を意味するようである.しかし同89:36までいくと再び創3:15での〈子孫〉と同じ語が現れ,非常にメシヤ的な響きのする,その中の特定個人を指すと思われる表現となる.ダビデ契約においてダビデの子孫が最終的にはキリストを指し示す語であることは,使2:30の使徒ペテロの言葉からわかる もし創3:15でも〈子孫〉が以上のような意味で用いられているとするなら,女の子孫は人類への言及であるが,最終的には人類の中の特定個人を指すことになる.従って,預言的な文脈の中ではメシヤであるキリストを指す可能性は充分にある.特に〈女の子孫〉がその背後に悪魔的黒幕の存在を感じざるを得ない蛇(黙12:9,20:2)と決定的な敵対関係にあることを考慮するならしかりである.それが新約の光により一層明らかになる(ロマ16:20,ガラ4:4).蛇への宣告の中に人類の救いが秘められているのは興味深い
【口語訳】 出 25:8 また、彼らにわたしのために聖所を造らせなさい。わたしが彼らのうちに住むためである。
【新共同訳】 出 25:8 わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう。
【新改訳改訂第3版】 出 25:8 彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。
【リビング・バイブル】 出 25:8 わたしがイスラエルに住めるよう、聖なる住まいを作ってほしい。 注解   (聖書の達人2聖書注解)
〈聖所〉(8)は〈幕屋〉(9)として造られる.そこはヤハウェが〈住む〉(8)場所である.イスラエルに対して近くにおられる神である.
【口語訳】 イザ [ 53 ]
53:1 だれがわれわれの聞いたことを/信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。 53:2 彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。 53:3 彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。 53:4 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。 53:5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。 53:6 われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。 53:7 彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。 53:8 彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。 53:9 彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。
53:10 しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。 53:11 彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。 53:12 それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に/物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。
【新共同訳】 イザ [ 53 ]
53:1 わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。 53:2 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。 53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。 53:4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。 53:5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。 53:6 わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。 53:7 苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。 53:8 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。 53:9 彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。 53:10 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。 53:11 彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。 53:12 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。
【新改訳改訂第3版】 イザ [ 53 ]
53:1 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。【主】の御腕は、だれに現れたのか。 53:2 彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。 53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。 53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。 53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、【主】は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。 53:7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。 53:8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。 53:9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。 53:10 しかし、彼を砕いて、痛めることは【主】のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、【主】のみこころは彼によって成し遂げられる。 53:11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。 53:12 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。
【リビング・バイブル】 イザ [ 53 ]
53:1 しかし、このことを信じる人はなんと少ないことでしょう。 いったいだれが、耳をすまして聞くでしょう。 神様はだれに、救いの力をお示しになるのでしょう。 53:2 神様の目から見れば彼は柔らかな若芽のようで、不毛の地の根から芽を吹き出したのです。 ところが私たちの目から見れば、人目をひくものは一つもなく、好意をいだかせるものも一つもありません。 53:3 私たちは彼をさげすみ、のけ者にしました。 彼は悲しみの人、人生の苦しみをなめ尽くした人でした。 私たちは彼に背き、そばを通ってもそっぽを向きました。 彼が侮られても、そ知らぬふりをしていました。 53:4 ところが、彼が背負い込んだのは、実は私たちの悲しみであり、彼を押しつぶしたのは、私たちの嘆きでした。 私たちは、彼がそんなに苦しむのは、罪を犯して神様に罰せられているからだと考えていました。 53:5 しかし実際は、私たちの罪のために傷つき、血を流したのです。 彼は私たちに平安を与えようとして、進んで懲らしめを受けました。 彼がむち打たれたので、私たちはいやされました。 53:6 私たちは神様の道を踏みはずし、羊のようにさまよい出て、自分勝手な道を歩いてきました。 ところが神様は、私たち一人一人の罪を彼に負わせたのです。 53:7 彼は痛めつけられ、苦しみ、悩みました。 それでも、ただのひと言も口にしませんでした。 子羊のようにおとなしく屠殺場へ引いて行かれ、毛を刈り取られる羊のように、非難をあびせかける者たちの前に黙って立ちました。 53:8 人々は彼を裁判にかけ、死刑場へ引き立てました。 はたして、彼が死ぬのは自分たちの罪のためであり、身代わりに刑罰を受けて苦しんでいることを知っていた者が、その当時いたでしょうか。 53:9 彼は罪人扱いを受け、金持ちの墓に葬られました。 しかし実際は、悪いことなど何一つしたわけでもなく、悪いことばを一度でも口にしたわけではありません。 53:10 彼を傷つけ、悲しみで押しつぶすのは、実は神様の計画だったのです。 罪が赦されるためのささげ物として、そのたましいをささげる時、彼は多くの子孫を見ることができます。 しかも彼は復活するので、神様の計画は彼の手によって陽の目を見ます。 53:11 彼は、自分のたましいが苦しみもだえた末、神様のみわざが実現するのを見て、すっかり満足します。 わたしの正しいしもべは、このような苦しみを経験して、多くの者を神様の前に無罪とする。 彼が人々の罪をいっさい負うからだ。 53:12 わたしは彼に、偉大な勝利者としての栄誉を与える。 彼は進んでいのちをささげたのだ。 彼は罪人の一人に数えられ、多くの者の罪を負い、罪人のために神にとりなした。
注解   (聖書の達人2聖書注解)
53章 その苦難のしもべを最もよく告げているのが53章である.〈私たち〉(1)との冒頭の表現は,イザヤ自身を含めたイスラエルの民を意識したもので,通常では想像も出来ないような特異な仕方で神の主権的御旨が啓示されたことを強調している.今まで誰にも知らされなかったような特別な方法で神はご自分の計画を啓示されるのである.究極的には,預言としてのメシヤによる贖罪の唯一性を意味している.新約的に言えば,キリストの十字架の代償死の絶対的唯一性とも言い得る.この「苦難のしもべ」は〈若枝のように芽生え〉(2)る.すなわちメシヤでありながら,その生れ育つ状況は苦難に満ちたものであり,決して人々があこがれるようなものではなかった.むしろ,人々からはあざけられ,のけ者にされ,疎外され,いじめられるような存在である.最後には,イザヤは自分をも含める表現で,〈私たちも彼を尊ばなかった〉(3)と言う
 苦難のしもべのそのような苦難は,彼自身に理由があるのではなく,他の人々のためのものであり,身代り的,代償的なものである.自分自身が何か悪事をなし,報いとして災いを受けるというのではなく,刑罰を受けるべき者たちの身代りとなって刑罰を受け,傷つけられ,苦しめられるのである.苦難のしもべは,〈私たち〉(5)に平和を与え,いやしを与えるために,身代りになった.イザヤは自分自身をも含めてこの「私たち」を反復する.注目すべきは,〈主は,私たちのすべての咎を彼に負わせた〉(6)という言葉である.この「苦難のしもべ」である「主のしもべ」は,まさにイエス・キリストの代償死としての十字架の苦難と,それに至るまでの主キリストご自身の生涯を預言していると言い得る 次の箇所(7‐9)は,「主のしもべ」がその苦難を「どのように」歩み,どのように生涯を終えるかを示している.すなわち彼は,人々の身代りとなるという目的の完成のために,極度のあざけりと暴力の中を忍耐と服従をもって歩み,人々の賞賛を受けようともせず,その生涯を終える.〈悪者ども〉は犯罪人や囚人を指し,〈富む者〉は不正をもって民衆を圧迫し,財を築いた者を指していると思われる(9).ピラトの庭からヴィア・ドロロサ(苦難の道)を通り,重い十字架をかつぎながらゴルゴタの丘へと,ひとり歩いて行かれるイエスの姿を見るようである 最後の部分(10‐12)において注目すべきは,6節の「主は,私たちのすべての咎を彼に負わせた」との言葉が,更に明瞭にされていることである.「主のしもべ」が苦難の道を歩み,代償死を遂げることは,〈主のみこころであった〉(10).また,繰り返すように〈主のみこころは彼によって成し遂げられる〉(10)とも述べられている.「主のしもべ」自身も,「主(神)のみこころ」を成し遂げることに最善の喜びと満足を覚える(11).この「主のしもべ」の苦難と死なくしては,神の救済のみわざは成し遂げられなかったと言い得る.メシヤとしてのキリストの十字架上の死が,敗北でなく,勝利の道であったことが,〈分捕り物としてわかちとる〉(12)という表現に見られる.また,その「主のしもべ」であればこそ,大祭司として〈多くの人の罪を負い,そむいた人たちのためにとりなしをする〉(12)ことの出来るメシヤたり得るのである.私たちの主,イエスこそ,その大祭司である(参照ヘブ4:14‐16)
*儀式の目的全体は・・・・。
【新共同訳】 ヘブル [ 8 ]
◆新しい、優れた約束の大祭司 8:1 今述べていることの要点は、わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、 8:2 人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられるということです。 8:3 すべて大祭司は、供え物といけにえとを献げるために、任命されています。それで、この方も、何か献げる物を持っておられなければなりません。 8:4 もし、地上におられるのだとすれば、律法に従って供え物を献げる祭司たちが現にいる以上、この方は決して祭司ではありえなかったでしょう。 8:5 この祭司たちは、天にあるものの写しであり影であるものに仕えており、そのことは、モーセが幕屋を建てようとしたときに、お告げを受けたとおりです。神は、「見よ、山で示された型どおりに、すべてのものを作れ」と言われたのです。 8:6 しかし、今、わたしたちの大祭司は、それよりはるかに優れた務めを得ておられます。更にまさった約束に基づいて制定された、更にまさった契約の仲介者になられたからです。 8:7 もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。 8:8 事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。「『見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、/新しい契約を結ぶ時が来る』と、/主は言われる。 8:9 『それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、/エジプトの地から導き出した日に、/彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、/わたしも彼らを顧みなかった』と、/主は言われる。 8:10 『それらの日の後、わたしが/イスラエルの家と結ぶ契約はこれである』と、/主は言われる。『すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、/彼らの心にそれを書きつけよう。わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となる。 8:11 彼らはそれぞれ自分の同胞に、/それぞれ自分の兄弟に、/「主を知れ」と言って教える必要はなくなる。小さな者から大きな者に至るまで/彼らはすべて、わたしを知るようになり、 8:12 わたしは、彼らの不義を赦し、/もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。』」 8:13 神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。
【新共同訳】 ヘブル [ 9 ]
◆地上の聖所と天の聖所 9:1 さて、最初の契約にも、礼拝の規定と地上の聖所とがありました。 9:2 すなわち、第一の幕屋が設けられ、その中には燭台、机、そして供え物のパンが置かれていました。この幕屋が聖所と呼ばれるものです。 9:3 また、第二の垂れ幕の後ろには、至聖所と呼ばれる幕屋がありました。 9:4 そこには金の香壇と、すっかり金で覆われた契約の箱とがあって、この中には、マンナの入っている金の壺、芽を出したアロンの杖、契約の石板があり、 9:5 また、箱の上では、栄光の姿のケルビムが償いの座を覆っていました。こういうことについては、今はいちいち語ることはできません。 9:6 以上のものがこのように設けられると、祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります。 9:7 しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます。 9:8 このことによって聖霊は、第一の幕屋がなお存続しているかぎり、聖所への道はまだ開かれていないことを示しておられます。 9:9 この幕屋とは、今という時の比喩です。すなわち、供え物といけにえが献げられても、礼拝をする者の良心を完全にすることができないのです。 9:10 これらは、ただ食べ物や飲み物や種々の洗い清めに関するもので、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎません。 9:11 けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、 9:12 雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。 9:13 なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、 9:14 まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。 9:15 こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。 9:16 遺言の場合には、遺言者が死んだという証明が必要です。 9:17 遺言は人が死んで初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間は効力がありません。 9:18 だから、最初の契約もまた、血が流されずに成立したのではありません。 9:19 というのは、モーセが律法に従ってすべての掟を民全体に告げたとき、水や緋色の羊毛やヒソプと共に若い雄牛と雄山羊の血を取って、契約の書自体と民全体とに振りかけ、 9:20 「これは、神があなたがたに対して定められた契約の血である」と言ったからです。 9:21 また彼は、幕屋と礼拝のために用いるあらゆる器具にも同様に血を振りかけました。 9:22 こうして、ほとんどすべてのものが、律法に従って血で清められており、血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです。 ◆罪を贖う唯一のいけにえ 9:23 このように、天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません。 9:24 なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。 9:25 また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。 9:26 もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。 9:27 また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、 9:28 キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。
*神は定められた時を持っておられる
【口語訳】 ガラ 4:4 しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった。
【新共同訳】 ガラ 4:4 しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。
【新改訳改訂第3版】 ガラ 4:4 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。

月曜日 象徴に表された恵みの奇跡
問3
【口語訳】 イザ 53:7 彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。
【新共同訳】 イザ 53:7 苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。
【新改訳改訂第3版】 イザ 53:7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
【リビング・バイブル】 イザ 53:7 彼は痛めつけられ、苦しみ、悩みました。 それでも、ただのひと言も口にしませんでした。 子羊のようにおとなしく屠殺場へ引いて行かれ、毛を刈り取られる羊のように、非難をあびせかける者たちの前に黙って立ちました。 【口語訳】 ヨハ 1:29 その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
【新共同訳】 ヨハ 1:29 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。
【新改訳改訂第3版】 ヨハ 1:29 その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
【リビング・バイブル】 ヨハ 1:29 翌日のことです。 ヨハネは、イエスが来られるのを見て、言いました。 「ご覧なさい! この方こそ、世の人々の罪を取り除く神の小羊だ。 注解   (聖書の達人2聖書注解)
〈見よ,世の罪を取り除く神の小羊〉(29).〈小羊〉〈ギ〉アムノスの新約の用例はすべてキリストに適用される(1:29,36,使8:32,Ⅰペテ1:19).ただし,称号的に用いられるのは本書においてのみ.終末的勝利者を小羊にたとえるユダヤ教の例は旧約偽典「12族長の遺訓━━十一男ヨセフ」19:8に見られる(参照黙17:14).〈小羊〉という表象の背景としてはほかにも,過越の小羊(出12:1以下,ヨハ19:36,Ⅰコリ5:7),苦難の主のしもべ(イザ53:7,使8:32)が考えられる.バプテスマのヨハネがいかなる意味でイエスを〈神の小羊〉と呼んだかは不明であるが,少なくとも本書の著者や読者は,上に挙げたような諸背景を複合してイエス・キリストを理解していたと思われる.〈世の罪〉という表現は,新約中ここのみ(参照Ⅰヨハ2:2.ただし,「罪」が複数形).〈世〉という概念は本書において神の側と対立的な概念であるが(1:10,7:7,8:23,17:25,18:36),しかし,神の愛の対象であり(3:16),イエスは「世の救い主」(4:42)と呼ばれる.ここで,単に「イスラエルの罪」と言わない点に注意.キリストの贖罪は一民族に限られない.また,〈罪〉(29)が単数形なのは,具体的な諸行為ではなく,罪深い状態を念頭に置いたため
問4
【口語訳】 マタ 20:28 それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。
【新共同訳】 マタ 20:28 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
【新改訳改訂第3版】 マタ 20:28 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」
【リビング・バイブル】 マタ 20:28 メシヤ(救い主)のわたしでさえ、人々に仕えられるためではなく、みんなに仕えるためにこの世に来たのです。 そればかりか、多くの人の罪の代償として自分のいのちを与えるために来たのです。 だからあなたがたも、わたしを見ならいなさい。」 注解   (聖書の達人2聖書注解)
しもべとして〈仕えるため〉(28)に来たイエス自身が示している原則である.〈来た〉という言葉は,イエスの存在が地上における誕生に先立つものであることを示唆する.そのような方であるのに,来た目的は仕えること,自分の命を与えることにある.〈贖いの代価〉は捕虜や奴隷を解放するための身の代金である.イエスの命が多くの人を自由にするための代価となる
【口語訳】 使 20:28 どうか、あなたがた自身に気をつけ、また、すべての群れに気をくばっていただきたい。聖霊は、神が御子の血であがない取られた神の教会を牧させるために、あなたがたをその群れの監督者にお立てになったのである。
【新共同訳】 使 20:28 どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。
【新改訳改訂第3版】 使 20:28 あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。
【リビング・バイブル】 使 20:28 注意しなさい。 あなたがたは、神の羊たち〔神様がキリストのいのちと引き替えに買い取った教会〕を養い育てる立場にあるのです。 このことをしっかり肝に銘じておきなさい。 いいですか、聖霊様が、この監督者としての責任をお与えになったのですよ。 注解   (聖書の達人2聖書注解)
今や責任は,〈群れ〉を預かる〈あなたがた〉にかかっている(28).〈自分自身と群れの全体〉(28)を配慮するのである.この群れは,〈神がご自身の血をもって買い取られた神の教会〉(28)であるから,これを牧する務めはまことに重大である.ここでも〈監督〉(28)は長老と区別されていないから,これを長老より「上位」の職務と見ることは出来ない.教会の将来をパウロは楽観していない.
【口語訳】 一コリ 6:20 あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。
【新共同訳】 一コリ 6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。
【新改訳改訂第3版】 Ⅰコリ 6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。
【リビング・バイブル】 Ⅰコリ 6:20 神様が多額の代価を払って、あなたがたを買い取ってくださったからです。 ですから、あなたがたの体のどの部分も、神様の栄光を現わすために用いなさい。 その所有者は神様だからです。 注解   (聖書の達人2聖書注解)
信徒はキリストの十字架という代価によって神の所有となるように買い取られた者たちなのである.そこで,信徒は自分の体をもって(具体的行動の一つ一つを通して)神の栄光を現すべきである(20)
参考   (聖書の達人2聖書辞典)
■あがない 贖い 〈ギ〉アポリュトゥローシス.
贖いということばの聖書的概念は,ただ単に救出するという一般的な概念ではなく,買い取る,あるいは,身の代金を払って身受けするという概念である.このことは,マタ20:28,マコ10:45においてはっきり示されている.身受けするということは,ある種の束縛あるいは捕われの状態が前提になっており,その状態からの解放を意味している.聖書では,キリストによってなされた贖いを,特に次の2つの面から見ている. 1.律法からの贖い.これは,道徳律法そのものからの贖いのことではない.キリストによって贖われた者は,心を尽して神を愛し,自分を愛するように隣人を愛せよという,その律法を守る義務から解放されているわけではない.それは,(1)律法ののろいからの贖いである.「キリストは,私たちのためにのろわれたものとなって,私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました」(ガラ3:13).律法ののろいとは,律法違反の罪に対する律法による刑罰的制裁のことである.「罪から来る報酬は死です」(ロマ6:23).この贖いのために支払われた身の代金は,キリストが私たちの身代りにのろわれたものとなられ,十字架において永遠の死の刑罰を受けられたことである.(2)儀式律法の束縛からの贖いである.「定めの時が来たので,神はご自分の御子を遣わし,この方を,女から生まれた者,また律法の下にある者となさいました.これは律法の下にある者を贖い出すためで,その結果,私たちが子としての身分を受けるようになるためです」(ガラ4:4‐5).ここで語られている律法とは,神がアブラハムと契約を結ばれた後430年たってから,モーセの手で定められた律法のことで(ガラ3:17,19),それは旧約の神の民をキリストへ導くための後見人的養育係としての働きをするものである(ガラ3:24,4:2).「律法の下にある者を贖い出す」というのは,儀式律法の後見人的束縛からの贖いのことであり,「子としての身分を受ける」というのは,そのような贖いと特権にあずかることである.この贖いのためにキリストが支払われた身の代金は,御子であるにもかかわらず儀式律法のもとにあるものとなられ,儀式律法が予表していた目的を御自身において成就したことである.それによって,福音時代にあっては,子としての身分を受けるのに,イスラエルが服従を余儀なくされていた後見人による訓練を受けることは要求されず,異邦人までも救われるのである.「信仰が現われた以上,私たちはもはや養育係の下にはいません.あなたがたはみな,キリスト・イエスに対する信仰によって,神の子どもです」(ガラ3:25‐26).(3)行いの律法からの贖いである.すなわち,神の御前で義と認められ,神に受け入れられるための条件としての律法遵守の要求からの解放である.「人は律法の行ないによっては義と認められず,ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる」(ガラ2:16).この贖いのためにキリストが支払われた身の代金は,律法の完全遵守による完全な従順である.「ひとりの人(アダム)の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に,ひとり(キリスト)の従順によって多くの人が義人とされるのです」(ロマ5:19).その従順とは,律法の義の要求をすべて満たされた能動的従順と呼ばれてきたものと,十字架において律法の刑罰的要求を完全に満たされた受動的従順と呼ばれてきたものとの,2つの面を持つ従順であった. 2.罪からの贖い.聖書はまた,キリストによる贖いを罪と直接関係づけて語っている.この場合,罪の持つ2つの面から考慮されなければならない.(1)罪責からの贖い.これは,義認また罪の赦しをもたらす贖いである.「ただ,神の恵みにより,キリスト・イエスによる贖いのゆえに,価なしに義と認められるのです」(ロマ3:24).この贖いのための身の代金は,キリストの血である.「私たちは,この御子のうちにあって,御子の血による贖い,すなわち罪の赦しを受けているのです」(エペ1:7).(2)罪の力からの贖い.キリストが信じる者のために死なれただけでなく,信じる者もキリストにあって,罪に対して死に,神に生きるために,キリストにあってよみがえらされたと教えている(ロマ6:1‐11).神の民に罪の支配からの解放を保証するのは,信者はキリストと共に死に,キリストと共によみがえらされたというこの事実である.これがまた,聖化の過程の基盤となっているのである.「あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません.むしろ,死者の中から生かされた者として,あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい.というのは,罪はあなたがたを支配することがないからです」(ロマ6:13‐14).また罪の力からの贖いは,悪霊の支配からの贖いとして表現されている.「神は,キリストにおいて,すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし,彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました」(コロ2:15).(松田一男)

【口語訳】 ヨハ 1:1-3
1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 1:2 この言は初めに神と共にあった。 1:3 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。 【新共同訳】 ヨハ 1:1-3
1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 1:2 この言は、初めに神と共にあった。 1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 【新改訳改訂3】 ヨハ 1:1-3
1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 1:2 この方は、初めに神とともにおられた。 1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
火曜日 カルバリーの意味
問5
【口語訳】 イザ 53:4,5
53:4 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。 53:5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。 【新共同訳】 イザ 53:4,5
53:4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。 53:5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。 【新改訳改訂3】 イザ 53:4,5
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。 53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 【リビング・バイブル】 イザ 53:4,5
53:4 ところが、彼が背負い込んだのは、実は私たちの悲しみであり、彼を押しつぶしたのは、私たちの嘆きでした。 私たちは、彼がそんなに苦しむのは、罪を犯して神様に罰せられているからだと考えていました。
53:5 しかし実際は、私たちの罪のために傷つき、血を流したのです。 彼は私たちに平安を与えようとして、進んで懲らしめを受けました。 彼がむち打たれたので、私たちはいやされました。 【口語訳】 ロマ 5:18,19
5:18 このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。 5:19 すなわち、ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである。 【新共同訳】 ロマ 5:18,19
5:18 そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。 5:19 一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。 【新改訳改訂3】 ロマ 5:18,19
5:18 こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです。 5:19 すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。 【リビング・バイブル】 ロマ 5:18,19
5:18 そうです。 アダムの罪は、すべての人に刑罰をもたらしましたが、キリスト様の正しさは、人々を神様の前に正しい者とするのです。 それで、人々は生きることができるのです。 5:19 神様に従わなかったアダムは、多くの人を罪人にしましたが、神様にお従いしたキリスト様は、多くの人を神様に受け入れられる者としてくださいました。 注解   (聖書の達人2聖書注解)
18節.この節の原文には動詞がない.それだけに,1つの違反=すべての人の定罪,1つの義の行為=すべての人の生命への義認とが,鮮明なコントラストで描き出される.前半の〈すべての人〉と後半の〈すべての人〉は同一・同数の関係ではない.アダムとキリストがそれぞれ代表している者たちにもたらした対照的な結果━━罪に

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