第10課 預言者のメッセージ
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작성자 나도람 작성일09-03-01 18:47 조회4,056회 댓글0건첨부파일
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본문
暗唱聖句
【口語訳】 一テモ 4:16 自分のことと教のこととに気をつけ、それらを常に努めなさい。そうすれば、あなたは、自分自身とあなたの教を聞く者たちとを、救うことになる。
【新共同訳】 一テモ 4:16 自分自身と教えとに気を配りなさい。以上のことをしっかりと守りなさい。そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになります。
【新改訳改訂第3版】 Ⅰテモ 4:16 自分自身にも、教える事にも、よく気をつけなさい。あくまでそれを続けなさい。そうすれば、自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも救うことになります。
【リビング・バイブル】 Ⅰテモ 4:16 自分の思想と行動全般に、いつも気を配っていなさい。 正しいことには、あくまでも忠実でありなさい。 そうすれば、神様はあなたを祝福し、他の人たちを助けるのに役立つ者としてくださいます。
<NKJV> 1Ti 4:16 Take heed to yourself and to the doctrine. Continue in them, for in doing this you will save both yourself and those who hear you.
<KJV> 1Ti 4:16 Take heed unto thyself, and unto the doctrine; continue in them: for in doing this thou shalt both save thyself, and them that hear thee.
<NIV> 1Ti 4:16 Watch your life and doctrine closely. Persevere in them, because if you do, you will save both yourself and your hearers.
<TEV> 1Ti 4:16 Watch yourself and watch your teaching. Keep on doing these things, because if you do, you will save both yourself and those who hear you.
J-ばいぶるGREEK 原書講読画面
1Ti 4:16
e;pece seautw/| kai. th/| didaskali,a|( evpi,mene auvtoi/j tou/to ga.r poiw/n kai. seauto.n sw,seij kai. tou.j avkou,onta,j sou)
@1# evpe,cw e;pece vmpa--2s 動)命現能2単 固く握る、じっと見る、心を砕く
@2# seautou/ seautw/| npdm2s 代)与男2単 あなた自らの、あなた自身の
@3# kai, kai. cc 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば
@4# o` th/| ddfs 冠)与女 冠詞(この、その)
@5# didaskali,a didaskali,a|( n-df-s 名)与女単 教え
@6# evpime,nw evpi,mene vmpa--2s 動)命現能2単 続けてやめない、滞在する、とどまる
@7# auvto,j auvtoi/j npdn3p 代)与中3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに
@8# ou-toj tou/to apdan-s 指示)対中単 このこと
@9# ga,r ga.r cs 接)従 なぜなら、というのは、すなわち、だから
@10# poie,w poiw/n vppanm2s 分)現能主男2単 する
@11# kai, kai. cc+ 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば
@12# seautou/ seauto.n npam2s 代)対男2単 あなた自らの、あなた自身の
@13# sw,|zw sw,seij vifa--2s 動)直未来能2単 救う、直す
@14# kai, kai. cc 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば
@15# o` tou.j damp+ 冠)対男 冠詞(この、その)
@16# avkou,w avkou,onta,j vppaam-p 分)現能対男 聞く、聞き従う、知らせを受ける、耳に入る
@17# su, sou) npg-2s 代)属2単 あなた
安息日午後 今週のテーマ
参考 (聖書の達人2聖書辞典)
まぼろし 幻
神が,おもに預言者に対して,みこころを啓示するのに用いられる手段の一つ.実質的に,神の語りかけと一体である.聖書中,「幻」と翻訳される原語はいくつかある.旧約聖書の〈ヘ〉ハーゾーン(イザ1:1),〈ヘ〉ヒッザーヨーン(Ⅱサム7:17),〈ア〉ヘーゼウ(ダニ2:19),〈ヘ〉ハーズース(イザ21:2),〈ヘ〉マハゼ(創15:1)は,すべて,「見る」を意味する動詞〈ヘ〉ハーザーに由来し,預言者を指す呼称の一つ「先見者」〈ヘ〉ホーゼ(Ⅱサム24:11)とも関連のある語である.〈ヘ〉マルアー(創46:2),〈ヘ〉マルエ(エゼ11:24)は,同義的動詞〈ヘ〉ラーアーからきており,預言者を指す古称「予見者」〈ヘ〉ローエ(Ⅰサム9:9.参照イザ28:7)と関連する.一方新約聖書では,「見る」〈ギ〉ホラオーに由来する〈ギ〉ホラマ(使9:10),〈ギ〉ホラシス(使2:17),「現れる」〈ギ〉オプタゾマイからきた〈ギ〉オプタシア(ルカ1:22.参照使26:19「啓示」)が「幻」を指して用いられている. 1.真正な神の幻.神はしばしば夢や幻想的なイメージを媒介として人間に啓示を与えられた.一般的に言って昔の人々は,現代の精神病理学者ら以上に夢を重んじ,宗教的な人々はそれを貴重な体験と見た(参照Ⅰ列3:5‐15).幻を含んだ夢は睡眠と不可分に結びついており,「夜の幻」という句がかなり認められる(創46:2,ヨブ4:13,33:15,ダニ2:19,7:7,13.参照創15章,使16:9‐10).夢と幻は同義語として使用され得る(ダニ4:8‐10,7:1‐2,ヨエ2:28.参照ヨブ20:8).しかし,幻は夜間に限らず,昼間に与えられる例が少なくない(民24:4,ダニ10:7‐8,マタ17:9,ルカ1:22,使10:3,9‐19).さて,幻は何の備えもないところに偶発的に与えられるよりも,むしろ霊的渇望や危機的状況という一種の緊張状態を背景とする場合が多い.たとえば,ベテルでのヤコブは一人で旅立つ孤独感のうちにあり(創28:12),ヨセフは兄弟から憎まれ(創37:4‐9),エゼキエルやダニエルは捕囚の地にあった(エゼ1:1,8:3,40:2,ダニ2:19,7:2,7,13等).ペテロは肉体的に空腹な時に(使10:9‐16),パウロは青年期という人生の不安定な転換期(参照使9:1‐6,22:17)および伝道旅行の行きづまりの中で(使16:6‐10),ヨハネの黙示録の著者ヨハネはパトモス島に幽閉されていた時に幻を見た(黙1:1,9‐10).しかし,幻を単なる心理現象に格下げすることは聖書の叙述に反している.夢に解き明かしが必要であったように,幻の意味は神のことばと説明によって明瞭にされる(ダニ1:17,7:16,8:15).幻が正しく解釈される時,それは預言活動を促進させる.偉大な預言者たちの多くは,幻を体験した(イザ1:1,エゼ1:1,オバ1節等.参照エレ1:11‐19,アモ1:1).逆に,預言者に神からの幻が与えられないことは,霊的貧困と表裏一体である(Ⅰサム3:1,哀2:9.参照箴29:18,アモ8:11).とはいえ,幻の体験そのものが価値を持つのではなく,むしろ幻は神のことばをより鮮明に印象づける手段と見るのが適切である(参照民12:6‐8).新約時代にも神の幻が与えられた.ルカ文書に多くの証言がある(ルカ1:22―ザカリヤ,使9:10―アナニヤ,使10:3―コルネリオ,使10:17,19,11:5―ペテロ,使9:12,16:9‐10,18:9―パウロ).ヨハネの黙示的な幻(黙9:17等),キリストの変貌(マタ17:1‐9),パウロの自己証言(Ⅱコリ12:1)もある. 2.偽りの幻.真正な神の幻と似通ってはいるが,神のことばによって解釈されない,あるいは神のみこころを反映しない幻がある.いわゆる人間的な夢,幻想,幻覚の類である(ヨブ20:8,イザ28:7,29:7).エレミヤはそれを「偽りの幻」(エレ14:14),神に起源を持たない「自分の心の幻」と呼び(エレ23:16.参照エレ23:25‐28),エゼキエルは「むなしい幻」(エゼ13:7‐9)と呼んで,真の幻と区別した.しかしながら,実際上,幻の真正さを即座に判断するのは容易であるとは限らない(参照エゼ13:16).
日曜日 信仰による義
問1
【口語訳】 列王上 8:46 彼らがあなたに対して罪を犯すことがあって、――人は罪を犯さない者はないのです、――あなたが彼らを怒り、彼らを敵にわたし、敵が彼らを捕虜として遠近にかかわらず、敵の地に引いて行く時、
【新共同訳】 列王上 8:46 もし彼らがあなたに向かって罪を犯し、――罪を犯さない者は一人もいません――あなたが怒って彼らを敵の手に渡し、遠くあるいは近くの敵地に捕虜として引いて行かれたときに、
【新改訳改訂第3版】 Ⅰ列王 8:46 彼らがあなたに対して罪を犯したため──罪を犯さない人間はひとりもいないのですから──あなたが彼らに対して怒られ、彼らを敵に渡し、彼らが、遠い、あるいは近い敵国に捕虜として捕らわれていった場合、
【口語訳】 ロマ 3:1-28
3:21 しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。 3:22 それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。 3:23 すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、 3:24 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。 3:25 神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、
3:26 それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。 3:27 すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。 3:28 わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。 【新共同訳】 ロマ 3:1-28
3:21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。 3:23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。 3:25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。 3:26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。 3:27 では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。 3:28 なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。 【新改訳改訂3】 ロマ 3:21-28
3:21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。 3:22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。 3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。 3:25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。 3:26 それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。 3:27 それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。 3:28 人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。 注解 (聖書の達人2聖書注解)
信仰による義認の教理の本質を解明するこの部分は,本書前半の教理的部分の総論的役割を果す.更に,ルターが指摘したように,「本書だけでなく,聖書全体の中心的位置を占める」ものでもある 21節.〈しかし,今は〉.人間の罪について語ってきたパウロは,ここで,神の恩恵について語り始める.神の救いのみわざによってもたらされた劇的転換が,〈しかし,今は〉の2語によって表現される.「聖書の中で,この,『しかし,今は』(But now)の2つの言葉以上の素晴らしい言葉はない」(ロイド‐ジョウンズ).この〈今〉は,〈神の義が示されました〉と言われる今の時である 〈神の義〉は,福音の本質を解明するこの部分のキーワードである.この義は,〈律法とは別に〉示されたものである.〈律法とは別に〉は,文字通りには「律法なしに」と訳せる.この言葉は,義とされるために,律法の行いは全く役に立たないことを示す.この義は,〈今〉示されたものではあるが,すでに〈律法と預言者によってあかしされ〉たものである.〈律法と預言者〉という表現は,旧約聖書全体を指す言い回しである.旧約聖書全体が,律法とは別に与えられる義,福音において現された神の義をあかししている(ルカ24:27,44) 22節.この神の義が,〈イエス・キリストを信じる信仰による神の義〉と言われる.信仰〈による〉(〈ギ〉ディア)は,信仰「を通して」の意味であって,信仰の価値,功績によるという意味は全くない.信仰は,神の義を受け取る手にすぎない.この信仰は,〈イエス・キリストを信じる信仰〉でなければならない.なぜなら,イエス・キリストこそ神の義だからである.故に神の義は,信仰のみを条件として,すべての人に平等に与えられるものである.神の義は,〈すべての信じる人に与えられ〉るものであって,信仰以外に〈何の差別もありません〉と言われる 23節.〈すべての人は,罪を犯したので,神からの栄誉を受けることができず〉.ユダヤ人も異邦人も共に義を欠いており,従って,神の義であるキリストを必要とすることにおいて差別は全く存在しない.「罪の行為は過去形で示されている.罪の現在的,永続的結果は,神の栄光を欠いていることである」(C・ホッジ).神からの栄誉を受けることの出来ない人間は,何一つ義を行い得ない存在である 24節.だから,〈義と認められる〉ことは,〈ただ,神の恵みにより〉与えられる.神の恩恵によるということは,神の一方的な,自由な贈り物として与えられるということであり,〈価なしに〉与えられるのである.私たちが価なしに受けることが出来るのは,神がその価を払っていて下さるからである.神の支払われる価こそ,〈キリスト・イエスによる贖い〉にほかならない.〈贖い〉(〈ギ〉アポリュトゥローシス)は,単なる解放ではなく,身の代金を支払うことによる解放である.キリストは,多くの人のための贖いの代価として自分の生命を与えるために来られた(マタ20:28) 25‐26節.ここで義認のもう1つの根拠が明らかにされる.それはまた,十字架が神に対して持つ意義を示す.すなわち,神の怒りに対する〈なだめ〉である.〈なだめの供え物〉(〈ギ〉ヒラステーリオン)は,人々のあらゆる不敬虔と不正とに対して啓示された「神の怒り」をなだめるためのものである.「あがないの供え物」(口語訳)との訳は,この区別を見失わせる.そのなだめの供え物は,キリスト・イエスの十字架で流された犠牲の血によるものであるが,またそれは,そのなだめの供え物を信じる信仰を手段として与えられるものである.ここで,キリスト・イエスをなだめの供え物として〈公にお示しにな〉った(〈ギ〉プロエセト)方が父なる神ご自身であること,従って,〈なだめの供え物〉は,神が,ご自身に対して,公にお示しになっているものであることに力点が置かれている.その目的は,〈ご自身の義を現わすためです〉と言われる.この義は,5節の場合と同様,神の属性としての義,すなわち神の正義を意味する.神が人間の犯す罪に対してその正義を現されなかったのは,〈神の忍耐をもって見のがして来られたからです〉と説明される.「見逃すこと」「先へ延すこと」は,決して赦すことではない.しかし,そのように「見逃されること」を,神がご自分の正義を全うする熱心を失っているのではないかと罪人は考えがちである故に,罪に対する神の正義,神の怒りが示されなければならなかった だから,〈今の時にご自身の義を現わすため〉(26),キリスト・イエスをなだめの供え物として与えられたのである.ヨハネが,私たちの罪のための「なだめの供え物」として義なるイエス・キリストが立てられたと語るのは,このことにほかならない(Ⅰヨハ2:2) 〈こうして神ご自身が義であり,また,イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです〉.神は,ご自身の義を確立することなしに,罪人を義とすることはあり得ない.罪のない方を罪人として罰することにおいても,罪人の罪を赦して義とすることにおいても,少しも不義の入り込む余地を残すことなく,神の正義を徹底される.神の義認の行為における道徳性の明示がこの箇所の論点である.「なだめの供え物を備えられることにおいて,神の正義と,罪人の義認は一致し,合体する」(J・マーレイ).神の怒りが完全になだめられるところに,初めて,全き罪の赦しは成り立つ.神の前に義とされて,この赦しを受けるために,求められている唯一の条件は,このなだめの供え物としてのイエスを信じる信仰である.〈イエスを信じる者を義とお認めになる〉 27‐31節.21‐26節の結びの言葉として,神の救いにおける人間の側の誇りのすべてが排除される.〈それでは,私たちの誇りはどこにあるのでしょうか〉(27)と問う.これに対する答は,〈それはすでに取り除かれました〉である.〈どういう原理によってでしょうか〉.〈原理〉は,ここまで「律法」と訳されてきた〈ギ〉ノモスの訳で,「法則」「体系」「秩序」とも訳せる.行いを肯定する原理によるのならば,人間の誇りは残る.しかし,信仰の原理による時,人間の誇りの肯定に通じるものは何一つ残されない.28節の〈私たちの考え〉は,21‐27節で論じられてきた,〈人が義と認められるのは,律法の行ないによるのではなく,信仰による〉(28)という聖書の一貫して主張する恩恵である.行いは自己肯定に結び付き,信仰は自己否定に結び付く.信仰の原理は,神の行為に目を向けさせる.ルターは,「信仰のみによる」と,「のみ」を付け加えることによってこの節の意味をより鮮明に示したと言えよう
【口語訳】 ロマ 5:12 このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。
【新共同訳】 ロマ 5:12 このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。
【新改訳改訂第3版】 ロマ 5:12 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、──それというのも全人類が罪を犯したからです。
注解 (聖書の達人2聖書注解)
人類の代表としてのアダムがもたらした罪と死と,新人類の代表としてのキリストによってもたらされた義と生命が対比される.単に相互に対立するものとして対照されるだけでなく,キリストによって与えられる恵みの満ちあふれる豊かさを示すために対照されている.それによって,前半の議論から予想される「1人の犠牲がどうして多くの者の祝福となり得るのか」との問に対する答を提供していると言えよう 12節.この節は,キリスト以前の人間の歴史を3段階に要約している.①ひとりの人によって罪が世界に入った.②罪によって死が入った.③彼にあって全人類が罪を犯したので,死は全人類に及んだ.このように,現在,死がすべての人に普遍的なのは,ひとりの人の最初の違反による
参考 (聖書の達人2聖書辞典)
■つみ 罪
1.旧約における罪.(1)用語.旧約において罪を表す語は多いが,おもな語は次の4種である.a.〈ヘ〉ハーターは「失敗する」(士20:16),「失っている」(ヨブ5:24),「つまずく」(箴19:2)などと訳されているように,もともとは「的(目標),または道をはずす」意味で用いられた一般的な語である.それが聖であり,義である神との関係においては「罪」と訳され(創4:7,出10:17),神が人に定められた道を踏みはずすという意味を表す.またこの語は,強情(出9:34),神に対する反抗(ヨシ7:11),神に対する不平(ヨブ1:22),心の中で神をのろうこと(ヨブ1:5),不信仰(詩78:32)などと共に用いられている.レビ記において〈ヘ〉ハーターの名詞形ハッタースは「罪のためのいけにえ」(レビ4:1‐5,13‐14)を意味し,それが罪に対する代償行為にまで拡大されている.b.〈ヘ〉アーオーンは「曲げる」が原意.「咎」(創4:13,44:16,出20:5,詩32:2)などと訳され,悪の行為を表す.c.〈ヘ〉ペシャは背くことで,「そむき」(ヨシ24:19,詩32:1,107:17),「そむきの罪」(出23:21,詩32:5,イザ53:5)と訳される.この語は,罪が神への反逆であることを最も強く表しており,その結果なされる残虐な行為とそれに続く神の容赦のないさばきについてたびたび使われている(イザ1:28,アモ1:3‐13).d.〈ヘ〉シャーガーは「あやまち」「あやまって犯した罪」(レビ4:13,ヨブ6:24,19:4,エゼ45:20)や「迷い出ること」(詩119:10,21.参照エゼ34:6)と訳され,被造物としての人が持つ弱さからくる誤った行為を意味している.これら以外にも罪の類義語は多くあるが,罪を表す語はおしなべて,その状態よりも,むしろ人が思い,ことば,行為などで犯した具体的な罪の事例について語っていると言える. (2)創3章に見る罪.ここには,5節の「悪」を除いては罪を表すどんな語も出てこないし,罪を直接定義する文もない.にもかかわらず,最初の人アダムとエバの堕落物語には,旧約はおろか聖書全体において罪が語られる際に土台となっている罪の本質が示されている.a.罪はアダムとエバの堕落以前にすでに存在していた.それは,エデンの園に罪の誘惑があったことから明らかである(創3:1.参照ヨハ8:44,Ⅱペテ2:4,Ⅰヨハ3:8,ユダ6節).しかし,この物語は罪そのものの起源について語ろうとしているのではなく,人類における罪の始まりについて記しているのである.最初の人への誘惑は,被造物である人間の分を越えて,創造主である神のようになりたいと思わせることであった(創3:5).実際,人は禁じられた木の実をもぎとることによって神の地位をもぎとったのである(参照ピリ2:6).それは単なる一つの犯罪行為ではなく,心の奥底における神への不従順,不信,反逆,そして神からの自立願望の表れであった.b.その結果,人は神ののろいを受けて神のかたちとしての自己像の破壊(創3:8),神よりの疎外(3:9‐10),人間同士の対立(3:12,16),自然との不調和(3:17‐18)の中で生きる者となった.c.だが神は決して人を見捨ててしまったわけではなく,むしろ神の恵みとあわれみが罪を犯した人間にも注がれて,ついには罪からの救いが与えられる希望のあることがこの時すでに暗示されている(創3:21). (3)旧約における罪の諸相.旧約における罪はどのようなものであれ,本質的には神に対する罪である(創39:9,詩51:4).しかし,モーセを通して神の民イスラエルに,十のことば(十戒)を代表とする律法と祭儀規定が与えられてからは,罪とは神から与えられた具体的な律法や規定を破ることとして,法的,祭儀的に意識される傾向が強くなった.その結果,たびたび生活の律法主義化や祭儀の形式化が生じることとなったが,預言者が神から立てられて,絶えず律法と祭儀の本来の目的と意味を想起するよう警告すると共に,内面的あるいは倫理的罪をも糾弾した(参照イザ1章,ハバ2章,マラ2章).罪は必ず償いを必要とし,その方法も律法の定めに従って法的,社会的あるいは祭儀的に処理されなければならなかった.とはいえ神は形式的償いだけでは満足しないばかりか,心のない償いを憎まれた(イザ1:13‐15).神は罪を告白して悔い改める砕かれたたましいを何にもまして望まれるからである(詩34:18,51:17,ミカ6:6‐8). 2.新約における罪.(1)用語.新約で罪と訳されている語とその類義語は多い.a.〈ギ〉ハマルティアの動詞,ハマルタノーはもともと「的をはずす」,あるいは「迷う」「誤る」を意味する一般的な語であったが,70人訳において〈ヘ〉ハーターのギリシヤ語訳として用いられたことによって,専ら「罪を犯す」という聖書特有の意味を表す語となった.名詞の〈ギ〉ハマルティアも,70人訳においては通常〈ヘ〉ハッタースの訳語として〈ギ〉ハマルテーマと共に使われ,これらは新約においてもおもに複数形をとり,具体的な罪の行為や律法違反を意味する(マコ1:5,ヨハ8:24,使2:38,ヤコ1:15,Ⅰヨハ1:9,3:4).また,行為だけでなく人間の持っている神に敵対する性質をも意味して用いられている(ヨハ8:34,9:41,15:22,ロマ3:20,Ⅰヨハ1:8).さらにパウロは,ロマ5‐8章において人に住みつき力を振う悪しき原理として,罪を人格化して語っている(ロマ5:12,6:12,14,7:17,20,8:2).b.〈ギ〉パラプトーマは,一般的には測量の誤差や失策を意味したが(参照ガラ6:1),新約においてはもっと道徳的含蓄を持った「罪過」(エペ2:1),「罪」(マタ6:14‐15,ロマ4:25),「違反」(ロマ5:15‐20,11:11‐12)という意味で使われている.c.〈ギ〉パラバシスは「違反」と訳され(ロマ4:15,ヘブ2:2),規範を破ることを意味する.d.〈ギ〉アセベイアは70人訳では〈ヘ〉ペシャの訳語として使われ,おそらくは罪を表す語の中で最も語調が強く,神に対する「不敬虔」(ロマ1:18,Ⅱテモ2:16)を意味する.e.その他,〈ギ〉アノミアは法を侮るという意味の「不法」(マタ7:23,ロマ6:19,Ⅱコリ6:14),〈ギ〉カキアや,〈ギ〉ポネーリアは道徳的,霊的腐敗を表す「邪悪」「悪事(悪意)」(ルカ11:39,使8:22,ロマ1:29,エペ6:13),そして〈ギ〉アディキアは「不正」(ルカ18:6,ヨハ7:18),「不義」(ロマ2:8,Ⅱテモ2:19)を意味する.f.そして最後に,〈ギ〉オフェイレーマは「負いめ」(マタ6:12)と訳され,罪を関係の概念で表現している. (2)新約各書における罪の概念の多様性.a.共観福音書においては,新約のほかの部分ほどに罪を表す語の掘り下げは見られない.しかしそれは,イエス御自身が罪,特にその性質についてあまり深く考えていなかったためではなく,むしろ彼のことばとわざとによってもたらされている終末的神の国(支配)によって罪の支配が克服されつつあるとの積極的使信が前面に出ていることによる.ルカ15章の一連のたとえ話でも,単に人間の罪人(〈ギ〉ハマルトーロス)としての現実のみでなく,そのような罪人が悔い改める時の神の大きな喜びをも語っている通りである.そしてそのイエスは神の国そのもの,罪に対する勝利者であって,まことに「罪を赦す」権威を持つ方(マコ2:5,ルカ1:77,11:4),「罪から救う」ために来られた方(マタ1:21)なのである.初代教会の使徒たちも,このキリストを宣教した(使2:38,5:31,10:43,26:20). b.第4福音書,ヨハネの手紙,ヨハネの黙示録の中でヨハネが語る罪の中心概念は,「神の啓示を受け入れないこと」である.それは,「私は……です」(ヨハ6:48,8:12,10:9,14,11:25,14:6,15:1)と宣言された神のひとり子キリストのもとに来ないこととして示されている.神の啓示であると共に罪の解決者であるイエスは,「罪を取り除く神の小羊」のようにユダヤ的,祭儀的用語をもって描かれることが多いが(ヨハ1:29,Ⅰヨハ1:7,2:2,3:5,4:10),他方,「世」(世界,人類)全体が罪の中で滅びに向かっているという,罪の普遍性を語っているのも目立っている(参照ヨハ1:9‐10,3:16‐21,Ⅰヨハ5:19).この罪の世から贖われた者の交わりである教会は,世にあってもキリストを受け入れているしるしとして互いに愛し合うはずである(ヨハ13:34‐35,15:9‐17,Ⅰヨハ4:7‐5:5).そして終りの日には,ついに神は罪の支配を完全に打ち滅ぼされる(黙21:1‐8).c.パウロの罪の概念を理解しようとする時は彼の個人的回心の体験を無視できないが,何よりもそれはキリストの出来事(十字架と復活)との関係で理解されなければならない.人の罪のためにこそ十字架と復活があり,人がそのことを信じる時に罪から解放されて生きるという初代教会の教理を土台にして,パウロの罪論は展開する(以下特にロマ5‐8章を参照).まずパウロが罪と言う時,それは個々の行為のことよりもすべての人の状態や性質のことである.その罪の起源はアダムが神に反逆したことにあり,それによって罪の性質と死の原理がすべての人を支配するようになった.罪と律法との関係については,律法を守ることによって救われるというユダヤ教とは対照的に,律法はむしろ否定的に働いて人を罪に目覚めさせ,罪に閉じ込め,罪の奴隷としてしまい,いのちにではなく死に導くものであると語る(参照ガラ3:22‐24).では律法が罪なのかと言うとそうではない.罪は律法が与えられる以前にすでにあったのだから,律法が罪をつくったのではない.律法は聖にして霊的なものであって,人のうちに住む罪こそが元凶なのである.このようにパウロは罪を人格のように語り,その罪の支配下に売られている人の状態を「肉」と呼ぶ.だから肉によって生きることは御霊の支配のもとに生きるのとは反対のことを意味する(参照ガラ5:17‐21,エペ2:3).このみじめな罪人の現実をキリストの十字架の出来事(ことば)が貫く.それは人の罪の性質ばかりか,その原因と結果である悪魔と死をも打ち砕いた神の力の勝利である(参照Ⅰコリ1:18).このキリストを信じてバプテスマを受けた人に与えられる救いは罪と死の原理(肉)からの解放であり,いのちの御霊の原理によって生きるべく再創造されることである.この場合,罪から解放された生き方というのは,行為としての罪を一つも犯さなくなるということではなく,御霊の支配のもとに罪の性質(肉)と戦って,それに打ち勝つ道が開かれているということである(参照Ⅱコリ5:13‐17,ガラ5:1,13‐25,ピリ3:8‐14). d.その他の書については,ヘブル人への手紙の著者はおもに旧約における大祭司の職務といけにえによる罪の贖いの制度の観点から罪を扱う.ヤコブの手紙はユダヤ教の伝統に近く,罪は人のうちにある「欲」(〈ギ〉エピスュミア)からくると教え(ヤコ1:14‐15),その罪とはなすべき正しいことを行わないことであると言う(ヤコ4:17).ペテロの手紙もヤコブの手紙と大差ないが,私たちが罪から離れるためにキリストが苦しまれたことへの言及が目立つ(Ⅰペテ2:22,24,3:18,4:1). (3)結論として,新約における罪の概念はさまざまな観点から語られている.とはいえ,そこには確固とした共通の理解があって,それは次の3点に要約することができる.a.罪はすべての人間と全被造物を含むこの世の現実である.b.罪の本質は,神から離れて神に反逆すること,または神を無視して自我に生きることである.c.十字架で死なれ復活された神のひとり子キリストを信じることによって罪からの救いが与えられる.それが私たちの宣べ伝えるべき福音である.
月曜日 聖所
問2
【口語訳】 ヘブル 9:1-8
9:1 さて、初めの契約にも、礼拝についてのさまざまな規定と、地上の聖所とがあった。 9:2 すなわち、まず幕屋が設けられ、その前の場所には燭台と机と供えのパンとが置かれていた。これが、聖所と呼ばれた。 9:3 また第二の幕の後に、別の場所があり、それは至聖所と呼ばれた。 9:4 そこには金の香壇と全面金でおおわれた契約の箱とが置かれ、その中にはマナのはいっている金のつぼと、芽を出したアロンのつえと、契約の石板とが入れてあり、 9:5 箱の上には栄光に輝くケルビムがあって、贖罪所をおおっていた。これらのことについては、今ここで、いちいち述べることができない。 9:6 これらのものが、以上のように整えられた上で、祭司たちは常に幕屋の前の場所にはいって礼拝をするのであるが、 9:7 幕屋の奥には大祭司が年に一度だけはいるのであり、しかも自分自身と民とのあやまちのためにささげる血をたずさえないで行くことはない。 9:8 それによって聖霊は、前方の幕屋が存在している限り、聖所にはいる道はまだ開かれていないことを、明らかに示している。 【新共同訳】 ヘブル 9:1-8
9:1 さて、最初の契約にも、礼拝の規定と地上の聖所とがありました。 9:2 すなわち、第一の幕屋が設けられ、その中には燭台、机、そして供え物のパンが置かれていました。この幕屋が聖所と呼ばれるものです。 9:3 また、第二の垂れ幕の後ろには、至聖所と呼ばれる幕屋がありました。 9:4 そこには金の香壇と、すっかり金で覆われた契約の箱とがあって、この中には、マンナの入っている金の壺、芽を出したアロンの杖、契約の石板があり、 9:5 また、箱の上では、栄光の姿のケルビムが償いの座を覆っていました。こういうことについては、今はいちいち語ることはできません。 9:6 以上のものがこのように設けられると、祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります。 9:7 しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます。 9:8 このことによって聖霊は、第一の幕屋がなお存続しているかぎり、聖所への道はまだ開かれていないことを示しておられます。 【新改訳改訂3】 ヘブル 9:1-8
9:1 初めの契約にも礼拝の規定と地上の聖所とがありました。 9:2 幕屋が設けられ、その前部の所には、燭台と机と供えのパンがありました。聖所と呼ばれる所です。 9:3 また、第二の垂れ幕のうしろには、至聖所と呼ばれる幕屋が設けられ、 9:4 そこには金の香壇と、全面を金でおおわれた契約の箱があり、箱の中には、マナの入った金のつぼ、芽を出したアロンの杖、契約の二つの板がありました。 9:5 また、箱の上には、贖罪蓋を翼でおおっている栄光のケルビムがありました。しかしこれらについては、今いちいち述べることができません。 9:6 さて、これらの物が以上のように整えられた上で、前の幕屋には、祭司たちがいつも入って礼拝を行うのですが、 9:7 第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけ入ります。そのとき、血を携えずに入るようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。 9:8 これによって聖霊は次のことを示しておられます。すなわち、前の幕屋が存続しているかぎり、まことの聖所への道は、まだ明らかにされていないということです。 注解 (聖書の達人2聖書注解)
この部分は第2部(4:14‐10:18)の第3区分で,キリストにおいて成就した新しい契約と,それを実現させた天の,真の幕屋におけるキリストの働きとを詳述する.8:8‐12と10:16‐17でエレ31:31‐34が引用され,第3区分のテーマが,この引用句に囲まれた部分で,その句の真の成就として展開される形になっている 優れた契約の仲保者なる大祭司キリスト(8:1‐6) ここは第3区分の中心テーマ(キリストの真の天的大祭司的犠牲奉献)の導入部分である.〈要点〉(1)は先行議論の単なる要約ではなく,その中心的帰結ないし頂点を成す教説,それ故後続の議論の展開の出発点となるような教説を指す.これは読者の注意を今一度当該教説へと喚起する著者の文学的技巧でもある.それは,キリストが今や天の幕屋で奉仕する真の大祭司にいます(2)という,これまでの議論を貫く最重要教理である(参照1:3,4:14,6:20,7:26) ここでも旧約祭司の奉仕との対比で,キリストの奉仕の卓越性が強調される.祭司は贖罪犠牲を奉献して神に仕えるが,キリストもそれに従われた(3).しかし旧約祭司が地上の幕屋で仕えたのに対して,キリストは天の幕屋で仕えられた.前者は後者の〈写しと影〉(5)にすぎず,それは著者によれば,モーセが幕屋造営の命令を受けた時すでに明示されていた(出25:40).ここでの対比には「天地」の二元的関係と共に,「新旧」の救済史的連関が取り込まれており,これがここの対比を同時代の無時間的,二元論的思考から決定的に区別している こうしてキリストは,地上の幕屋で仕える旧約祭司と異なり,天の幕屋,神の御座の右で仕えることによって,〈さらにすぐれた契約の仲介者〉,またその保証人ともなり,〈さらにすぐれた務め〉,真の祭司の務めを全うされたのである(6) この部分は先行部分の結びの「さらにすぐれた契約」を受けて始まる.7,13節がこの部分の枠組みを成し,引用旧約章句の解釈を規定しており,そこに新しい契約を必要とする理由が明示される.そして新契約の実効性が,その準備となった旧契約の〈欠け〉(7,8a)との対比において強調される
問3
【口語訳】 ヘブル 8:1-2
8:1 以上述べたことの要点は、このような大祭司がわたしたちのためにおられ、天にあって大能者の御座の右に座し、 8:2 人間によらず主によって設けられた真の幕屋なる聖所で仕えておられる、ということである。 【新共同訳】 ヘブル 8:1-2
8:1 今述べていることの要点は、わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、 8:2 人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられるということです。 【新改訳改訂3】 ヘブル 8:1-2
8:1 以上述べたことの要点はこうです。すなわち、私たちの大祭司は天におられる大能者の御座の右に着座された方であり、 8:2 人間が設けたのではなくて、主が設けられた真実の幕屋である聖所で仕えておられる方です。 注解 (聖書の達人2聖書注解)
ここは第3区分の中心テーマ(キリストの真の天的大祭司的犠牲奉献)の導入部分である.〈要点〉(1)は先行議論の単なる要約ではなく,その中心的帰結ないし頂点を成す教説,それ故後続の議論の展開の出発点となるような教説を指す.これは読者の注意を今一度当該教説へと喚起する著者の文学的技巧でもある.それは,キリストが今や天の幕屋で奉仕する真の大祭司にいます(2)という,これまでの議論を貫く最重要教理である(参照1:3,4:14,6:20,7:26)
【口語訳】 ヘブル 9:23 このように、天にあるもののひな型は、これらのものできよめられる必要があるが、天にあるものは、これらより更にすぐれたいけにえで、きよめられねばならない。
【新共同訳】 ヘブル 9:23 このように、天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません。
【新改訳改訂第3版】 ヘブル 9:23 ですから、天にあるものにかたどったものは、これらのものによってきよめられる必要がありました。しかし天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなければなりません。
注解 (聖書の達人2聖書注解)
この部分にも第2部第3区分(8:1‐10:18)のこれまでの議論ですでに明示されてきた思想や主題が繰り返される(23‐24節と8:5‐6,9:11‐13;25節と8:3,9:7;26節以下と12,15節).ここではキリストの死による聖めの必然性が強調される(23,26) 犠牲動物の血による地上の幕屋の祭儀的聖めの〈必要〉性(23)は,キリストの血による真の聖めの成就,その天的性質と永遠の効力の予表であった.〈天にあるもの自体〉(23,複数形)は,実質的に天の幕屋(11),〈天そのもの〉(24)を指すと見てよい.ここで言われる天の幕屋の聖めの必要性は,真の贖罪効力なき地上の幕屋と予型的に連続している天の幕屋の何らかの聖めの必要性を意味しない.これは,地上の幕屋の聖めの必要性が予表したキリストによる天的,永遠的聖めの必然性を示すもので,その確実な結果である良心の聖めや完全化(9,14)を含意していると思われる.地と天の霊的資質に関する二重性と,予型的祭儀とその成就との救済史的二重性とが重なっているため,霊的である神の民も,時至って〈さらにすぐれたいけにえ〉により聖められてこそ,真に〈天にあるもの自体〉に連なるのである(23).これは,聖めがなお未完である神の民にも〈天〉やその類語がその根源的,霊的形容として用いられ得るからであろう(12:23,Ⅰペテ1:2,2:5,9)
*旧約聖書において・・・・信仰によって赦しを受けた
【新共同訳】 創 3:15 お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」 *裁きはイエスを信じる人々を救う神の正義を擁護する
【新共同訳】 ロマ 3:4 決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、/裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。 ◆(聖書の達人2聖書辞典)
ち 血 血液の機能がどのようなものであるかは,1628年ウィリアム・ハーヴィーがその事実を明らかにするまではよく知られていなかった.それにもかかわらずあらゆる民族が血を神秘的なものと考えていた.血の儀式,血の祭,血による争いなど原始部族の間では共通のものが多い.科学的に血の機能が解明されていない時代でも血が生命の源であるとされ,流血に対する恐怖,畏敬,尊厳といった態度をとったり,血がお互いの兄弟関係,友情のしるしとしてその関係確立の手段として用いられてきた. 旧約聖書における最初の言及は殺人者カインに対する神のことばである(創4:10‐11).この言及は象徴的である.肉のいのちは血にあり(レビ17:11),血はいのちそのものであると言われる(レビ17:14,申12:23).それゆえ,神に造られた者のいのちを宿す血は神聖であって,決してそれを食べてはならない(創9:4).「人の血を流す者」(創9:6)はカインに語られたように報復が要求されている.いのちを奪うことは刑罰に値する罪で,その赦しのためには,血による贖いが必要とされる(ヘブ9:22).血の儀式として,割礼がある.これは割礼を受けた者と主との契約関係を示すものとして重要である(創17:10‐14).モーセの律法においては,動物の血がすべての罪の贖いのために用いられた.またきよめのためにも用いられている(レビ14:5‐7).そして,食用に供する動物の血は決して食べてはならず,血は土で覆わなければならないとされ,それを守らない者は民の間から断たれると言われる(レビ17:10‐14,申12:16,23‐25). 新約聖書では,キリストの血に関する言及が中心であり,救いについては「キリストの血によって義と認められた」(ロマ5:9)と言われ,さらにそのことによって「(御子の死によって)神と和解させられた」(ロマ5:10)と言われている.キリスト御自身が,御自分の死と,キリストにくる者に与えるいのちの関係についてヨハ6:51‐58で,「わたしの血を飲む者は,わたしのうちにとどまる」と言っている.キリストの十字架が,罪の赦し(エペ1:7,ヘブ9:25‐28),罪からのきよめ(Ⅰヨハ1:7),キリストとの交わりの回復(エペ2:13,ヘブ10:19)を可能にするのである.過越の儀式は聖餐式に受け継がれ(マタ26:28,Ⅰコリ10:16),私たちはそれによって主の再臨を待ち望んでいることを表すのである(Ⅰコリ11:25‐26).
贖罪の日
毎年の第7月(太陽暦の9―10月)の10日が贖罪の日である(レビ23:27).この日人々は聖なる会合を催し,断食し(「身を戒め」と訳出),いっさいの仕事をやめて完全な安息を守る(レビ23:28,民29:7).大祭司は身をきよめ,聖なる装束をつけて,いけにえを携えて聖所に入り,そこで,自分と自分の家族と民の贖いのためにいけにえをささげる.大祭司は生きている1頭のやぎを取り,その頭に両手を置き,民のすべてのとがと背きの罪を告白し,それをやぎの頭に置く.このアザゼルのやぎは民のすべてのとがを背負って荒野へ放たれる.その後,大祭司は,自分のためと民のために脂肪を焼いて贖いをする.こうして民の1年間の罪が赦され,きよめられる(レビ16章).この日のすべての儀式は大祭司イエスによる罪の贖いのわざの予型であり,新約ではキリスト者の救いの完成の時が「贖いの日」と呼ばれている(エペ4:30).
火曜日 安息日
参考 (聖書の達人2聖書辞典)
あんそくにち 安息日 1.名称.〈ヘ〉シャッバース.〈ヘ〉シャーバス「やめる」あるいは「休む」に由来する.ギリシヤ語ではサバトン.週の第7日目.休息と礼拝の日として守るように定められた日.安息日は,金曜日の日没から始まって土曜日の日没で終る. 2.聖書的起源.天地創造の記事(創1:1‐2:3)の中で,6日間の創造のわざを終えた神は「休まれ」,その第7日目を祝福し,この日が「聖である」と宣言された.この創造の記事の中には,直接「安息日」ということばは使われていないが,モーセの十のことば(十戒)の制定に至って,その第4番目に安息日に関する戒めが掲げられ,その根拠として神の創造のわざに言及している(出20:8‐11).したがって,安息日を守ることは,神の創造のわざにおいて,神が「休まれた」という事実と,それを「聖とされた」という事実に深くかかわりをもっていると言える.安息日は神とイスラエルとの間の「しるし」として説明されるのである(出31:17)が,これは,神とイスラエルとの契約に基づくものであると理解してよい.特に,「いこわれた」と強い意味のことばをここで意図的に用いることによって,神は6日間の日常の仕事から全く離れて第7日目に休息されたことを強調したものと思われる. 7日を1週と見なすことについての記録はノアの洪水の記事においても見られる.すなわち,神がノアに洪水が起ることをその7日前に予告し,7日後には実際に洪水が起った(創7:4,10).また,洪水後,水が引いたことを調べるためにノアは鳩を7日ごとに箱舟の外に放った(創8:10,12).ここで安息日そのものの意味は説明されていないが,7日が一つの単位として用いられている(1週7日制についてのバビロニヤ起源説は,占星術に基づいて,太陽と月以外に5つの惑星すなわち火―土を合せて7日と見なす惑星崇拝の習慣から由来していると考える.しかし,この説は19世紀末にはほとんど消滅している). 出エジプト記において,安息日に関する最初の記録は,シンの荒野におけるマナの給食の時に見られる(出16:23).すなわち,マナを毎朝集めることについて,第6日目は特別に翌日の分まで2倍集めることを神はモーセを通してイスラエルに命じられた(出16:5).しかも,その理由として「あすは全き休みの日,主の聖なる安息である」(出16:23)と宣言しておられる.ここで注目されるのは,シンの荒野の出来事はシナイ山でのモーセの十のことばの賦与以前のことであったことである.そして,6日目にマナを集めることを怠った人々に対して主から叱責のことばがあったが,その中で推測できるのは,安息日の戒めに関しては,それよりも以前に何度か主によって繰り返されていたことである.「あなたがたは,いつまでわたしの命令とおしえを守ろうとしないのか」(出16:28).したがって,安息日の起源は,モーセの十のことばよりずっと以前にさかのぼることができる. 安息日に関する戒めは十のことばの第4番目に位置し,対神関係の戒め(第1戒―第3戒)と対人関係の戒め(第5戒―第10戒)とをつなぐ鎖として重要な役目を果している.それは,安息日の戒めには,イスラエルの出エジプトの恵みの経験が特に付記されていることからも推察される(申5:15).神は安息日を祝福のしるしとしてイスラエルに与え,御自分が彼らを聖別する主であることを知らせようとされたのである(出31:13,ネヘ9:14,エゼ20:12).安息日は本来はイスラエル民族に対して定められた制度であることは確かであるが,その原理においては,人間すべてに適用されるものである. 3.安息日の遵守.安息日には,通常の労働から解放されることは事実であるが,それに伴って,休息の仕方について厳格に規定されていて,いくつかの禁止事項が設けられている.たとえば,火をおこすこと(出35:3),薪を集めること(民15:32‐36),食事を用意すること(出16:23‐30)などが禁じられている.安息日を犯す者は殺されなければならないと定められ(出31:14,民15:32‐36),預言者たちも安息日の遵守を終末的約束の実現と関連させて語っている(イザ58:13‐14,エレ17:19‐27,エゼ20:23‐24,22:8,アモ8:5).ホセアは,イスラエルの不誠実のゆえに,安息日を彼らから取り去ろうとした(ホセ2:11).しかし,その中止も永遠に続くものではないとイザヤとエゼキエルは指摘している(イザ66:23,エゼ44:24).バビロン捕囚の期間中には,安息日はユダヤの他の祭に比べて規則正しく守られていたようである.しかし,その後エルサレムに帰還したネヘミヤは,安息日が汚されているのに大いに憤慨している(ネヘ13:15‐22). 中間時代において安息日は規則正しく守られた.その理由は会堂(シナゴーグ)の確立にあった.この時代には,安息日がユダヤ人の意識の中に公的にも私的にも深く根づいていたのである.マカベア時代には,安息日を犯すよりも死を選ぶ人々が現れたほどである(Ⅰマカベア2:32‐38). 新約時代の安息日遵守については,イエスの安息日に対する態度に見ることができる.すなわち,イエスは,この規定の基本的な目的を示すことによって安息日の真の意味を明白にしたのである.「安息日は人間のために設けられたのです.人間が安息日のために造られたのではありません.人の子は安息日にも主です」(マコ2:27‐28).
問4
【口語訳】 出 20:1-17
20:1 神はこのすべての言葉を語って言われた。20:2 「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。 20:3 あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。 20:4 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるも
【口語訳】 一テモ 4:16 自分のことと教のこととに気をつけ、それらを常に努めなさい。そうすれば、あなたは、自分自身とあなたの教を聞く者たちとを、救うことになる。
【新共同訳】 一テモ 4:16 自分自身と教えとに気を配りなさい。以上のことをしっかりと守りなさい。そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになります。
【新改訳改訂第3版】 Ⅰテモ 4:16 自分自身にも、教える事にも、よく気をつけなさい。あくまでそれを続けなさい。そうすれば、自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも救うことになります。
【リビング・バイブル】 Ⅰテモ 4:16 自分の思想と行動全般に、いつも気を配っていなさい。 正しいことには、あくまでも忠実でありなさい。 そうすれば、神様はあなたを祝福し、他の人たちを助けるのに役立つ者としてくださいます。
<NKJV> 1Ti 4:16 Take heed to yourself and to the doctrine. Continue in them, for in doing this you will save both yourself and those who hear you.
<KJV> 1Ti 4:16 Take heed unto thyself, and unto the doctrine; continue in them: for in doing this thou shalt both save thyself, and them that hear thee.
<NIV> 1Ti 4:16 Watch your life and doctrine closely. Persevere in them, because if you do, you will save both yourself and your hearers.
<TEV> 1Ti 4:16 Watch yourself and watch your teaching. Keep on doing these things, because if you do, you will save both yourself and those who hear you.
J-ばいぶるGREEK 原書講読画面
1Ti 4:16
e;pece seautw/| kai. th/| didaskali,a|( evpi,mene auvtoi/j tou/to ga.r poiw/n kai. seauto.n sw,seij kai. tou.j avkou,onta,j sou)
@1# evpe,cw e;pece vmpa--2s 動)命現能2単 固く握る、じっと見る、心を砕く
@2# seautou/ seautw/| npdm2s 代)与男2単 あなた自らの、あなた自身の
@3# kai, kai. cc 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば
@4# o` th/| ddfs 冠)与女 冠詞(この、その)
@5# didaskali,a didaskali,a|( n-df-s 名)与女単 教え
@6# evpime,nw evpi,mene vmpa--2s 動)命現能2単 続けてやめない、滞在する、とどまる
@7# auvto,j auvtoi/j npdn3p 代)与中3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに
@8# ou-toj tou/to apdan-s 指示)対中単 このこと
@9# ga,r ga.r cs 接)従 なぜなら、というのは、すなわち、だから
@10# poie,w poiw/n vppanm2s 分)現能主男2単 する
@11# kai, kai. cc+ 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば
@12# seautou/ seauto.n npam2s 代)対男2単 あなた自らの、あなた自身の
@13# sw,|zw sw,seij vifa--2s 動)直未来能2単 救う、直す
@14# kai, kai. cc 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば
@15# o` tou.j damp+ 冠)対男 冠詞(この、その)
@16# avkou,w avkou,onta,j vppaam-p 分)現能対男 聞く、聞き従う、知らせを受ける、耳に入る
@17# su, sou) npg-2s 代)属2単 あなた
安息日午後 今週のテーマ
参考 (聖書の達人2聖書辞典)
まぼろし 幻
神が,おもに預言者に対して,みこころを啓示するのに用いられる手段の一つ.実質的に,神の語りかけと一体である.聖書中,「幻」と翻訳される原語はいくつかある.旧約聖書の〈ヘ〉ハーゾーン(イザ1:1),〈ヘ〉ヒッザーヨーン(Ⅱサム7:17),〈ア〉ヘーゼウ(ダニ2:19),〈ヘ〉ハーズース(イザ21:2),〈ヘ〉マハゼ(創15:1)は,すべて,「見る」を意味する動詞〈ヘ〉ハーザーに由来し,預言者を指す呼称の一つ「先見者」〈ヘ〉ホーゼ(Ⅱサム24:11)とも関連のある語である.〈ヘ〉マルアー(創46:2),〈ヘ〉マルエ(エゼ11:24)は,同義的動詞〈ヘ〉ラーアーからきており,預言者を指す古称「予見者」〈ヘ〉ローエ(Ⅰサム9:9.参照イザ28:7)と関連する.一方新約聖書では,「見る」〈ギ〉ホラオーに由来する〈ギ〉ホラマ(使9:10),〈ギ〉ホラシス(使2:17),「現れる」〈ギ〉オプタゾマイからきた〈ギ〉オプタシア(ルカ1:22.参照使26:19「啓示」)が「幻」を指して用いられている. 1.真正な神の幻.神はしばしば夢や幻想的なイメージを媒介として人間に啓示を与えられた.一般的に言って昔の人々は,現代の精神病理学者ら以上に夢を重んじ,宗教的な人々はそれを貴重な体験と見た(参照Ⅰ列3:5‐15).幻を含んだ夢は睡眠と不可分に結びついており,「夜の幻」という句がかなり認められる(創46:2,ヨブ4:13,33:15,ダニ2:19,7:7,13.参照創15章,使16:9‐10).夢と幻は同義語として使用され得る(ダニ4:8‐10,7:1‐2,ヨエ2:28.参照ヨブ20:8).しかし,幻は夜間に限らず,昼間に与えられる例が少なくない(民24:4,ダニ10:7‐8,マタ17:9,ルカ1:22,使10:3,9‐19).さて,幻は何の備えもないところに偶発的に与えられるよりも,むしろ霊的渇望や危機的状況という一種の緊張状態を背景とする場合が多い.たとえば,ベテルでのヤコブは一人で旅立つ孤独感のうちにあり(創28:12),ヨセフは兄弟から憎まれ(創37:4‐9),エゼキエルやダニエルは捕囚の地にあった(エゼ1:1,8:3,40:2,ダニ2:19,7:2,7,13等).ペテロは肉体的に空腹な時に(使10:9‐16),パウロは青年期という人生の不安定な転換期(参照使9:1‐6,22:17)および伝道旅行の行きづまりの中で(使16:6‐10),ヨハネの黙示録の著者ヨハネはパトモス島に幽閉されていた時に幻を見た(黙1:1,9‐10).しかし,幻を単なる心理現象に格下げすることは聖書の叙述に反している.夢に解き明かしが必要であったように,幻の意味は神のことばと説明によって明瞭にされる(ダニ1:17,7:16,8:15).幻が正しく解釈される時,それは預言活動を促進させる.偉大な預言者たちの多くは,幻を体験した(イザ1:1,エゼ1:1,オバ1節等.参照エレ1:11‐19,アモ1:1).逆に,預言者に神からの幻が与えられないことは,霊的貧困と表裏一体である(Ⅰサム3:1,哀2:9.参照箴29:18,アモ8:11).とはいえ,幻の体験そのものが価値を持つのではなく,むしろ幻は神のことばをより鮮明に印象づける手段と見るのが適切である(参照民12:6‐8).新約時代にも神の幻が与えられた.ルカ文書に多くの証言がある(ルカ1:22―ザカリヤ,使9:10―アナニヤ,使10:3―コルネリオ,使10:17,19,11:5―ペテロ,使9:12,16:9‐10,18:9―パウロ).ヨハネの黙示的な幻(黙9:17等),キリストの変貌(マタ17:1‐9),パウロの自己証言(Ⅱコリ12:1)もある. 2.偽りの幻.真正な神の幻と似通ってはいるが,神のことばによって解釈されない,あるいは神のみこころを反映しない幻がある.いわゆる人間的な夢,幻想,幻覚の類である(ヨブ20:8,イザ28:7,29:7).エレミヤはそれを「偽りの幻」(エレ14:14),神に起源を持たない「自分の心の幻」と呼び(エレ23:16.参照エレ23:25‐28),エゼキエルは「むなしい幻」(エゼ13:7‐9)と呼んで,真の幻と区別した.しかしながら,実際上,幻の真正さを即座に判断するのは容易であるとは限らない(参照エゼ13:16).
日曜日 信仰による義
問1
【口語訳】 列王上 8:46 彼らがあなたに対して罪を犯すことがあって、――人は罪を犯さない者はないのです、――あなたが彼らを怒り、彼らを敵にわたし、敵が彼らを捕虜として遠近にかかわらず、敵の地に引いて行く時、
【新共同訳】 列王上 8:46 もし彼らがあなたに向かって罪を犯し、――罪を犯さない者は一人もいません――あなたが怒って彼らを敵の手に渡し、遠くあるいは近くの敵地に捕虜として引いて行かれたときに、
【新改訳改訂第3版】 Ⅰ列王 8:46 彼らがあなたに対して罪を犯したため──罪を犯さない人間はひとりもいないのですから──あなたが彼らに対して怒られ、彼らを敵に渡し、彼らが、遠い、あるいは近い敵国に捕虜として捕らわれていった場合、
【口語訳】 ロマ 3:1-28
3:21 しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。 3:22 それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。 3:23 すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、 3:24 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。 3:25 神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、
3:26 それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。 3:27 すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。 3:28 わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。 【新共同訳】 ロマ 3:1-28
3:21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。 3:23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。 3:25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。 3:26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。 3:27 では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。 3:28 なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。 【新改訳改訂3】 ロマ 3:21-28
3:21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。 3:22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。 3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。 3:25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。 3:26 それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。 3:27 それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。 3:28 人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。 注解 (聖書の達人2聖書注解)
信仰による義認の教理の本質を解明するこの部分は,本書前半の教理的部分の総論的役割を果す.更に,ルターが指摘したように,「本書だけでなく,聖書全体の中心的位置を占める」ものでもある 21節.〈しかし,今は〉.人間の罪について語ってきたパウロは,ここで,神の恩恵について語り始める.神の救いのみわざによってもたらされた劇的転換が,〈しかし,今は〉の2語によって表現される.「聖書の中で,この,『しかし,今は』(But now)の2つの言葉以上の素晴らしい言葉はない」(ロイド‐ジョウンズ).この〈今〉は,〈神の義が示されました〉と言われる今の時である 〈神の義〉は,福音の本質を解明するこの部分のキーワードである.この義は,〈律法とは別に〉示されたものである.〈律法とは別に〉は,文字通りには「律法なしに」と訳せる.この言葉は,義とされるために,律法の行いは全く役に立たないことを示す.この義は,〈今〉示されたものではあるが,すでに〈律法と預言者によってあかしされ〉たものである.〈律法と預言者〉という表現は,旧約聖書全体を指す言い回しである.旧約聖書全体が,律法とは別に与えられる義,福音において現された神の義をあかししている(ルカ24:27,44) 22節.この神の義が,〈イエス・キリストを信じる信仰による神の義〉と言われる.信仰〈による〉(〈ギ〉ディア)は,信仰「を通して」の意味であって,信仰の価値,功績によるという意味は全くない.信仰は,神の義を受け取る手にすぎない.この信仰は,〈イエス・キリストを信じる信仰〉でなければならない.なぜなら,イエス・キリストこそ神の義だからである.故に神の義は,信仰のみを条件として,すべての人に平等に与えられるものである.神の義は,〈すべての信じる人に与えられ〉るものであって,信仰以外に〈何の差別もありません〉と言われる 23節.〈すべての人は,罪を犯したので,神からの栄誉を受けることができず〉.ユダヤ人も異邦人も共に義を欠いており,従って,神の義であるキリストを必要とすることにおいて差別は全く存在しない.「罪の行為は過去形で示されている.罪の現在的,永続的結果は,神の栄光を欠いていることである」(C・ホッジ).神からの栄誉を受けることの出来ない人間は,何一つ義を行い得ない存在である 24節.だから,〈義と認められる〉ことは,〈ただ,神の恵みにより〉与えられる.神の恩恵によるということは,神の一方的な,自由な贈り物として与えられるということであり,〈価なしに〉与えられるのである.私たちが価なしに受けることが出来るのは,神がその価を払っていて下さるからである.神の支払われる価こそ,〈キリスト・イエスによる贖い〉にほかならない.〈贖い〉(〈ギ〉アポリュトゥローシス)は,単なる解放ではなく,身の代金を支払うことによる解放である.キリストは,多くの人のための贖いの代価として自分の生命を与えるために来られた(マタ20:28) 25‐26節.ここで義認のもう1つの根拠が明らかにされる.それはまた,十字架が神に対して持つ意義を示す.すなわち,神の怒りに対する〈なだめ〉である.〈なだめの供え物〉(〈ギ〉ヒラステーリオン)は,人々のあらゆる不敬虔と不正とに対して啓示された「神の怒り」をなだめるためのものである.「あがないの供え物」(口語訳)との訳は,この区別を見失わせる.そのなだめの供え物は,キリスト・イエスの十字架で流された犠牲の血によるものであるが,またそれは,そのなだめの供え物を信じる信仰を手段として与えられるものである.ここで,キリスト・イエスをなだめの供え物として〈公にお示しにな〉った(〈ギ〉プロエセト)方が父なる神ご自身であること,従って,〈なだめの供え物〉は,神が,ご自身に対して,公にお示しになっているものであることに力点が置かれている.その目的は,〈ご自身の義を現わすためです〉と言われる.この義は,5節の場合と同様,神の属性としての義,すなわち神の正義を意味する.神が人間の犯す罪に対してその正義を現されなかったのは,〈神の忍耐をもって見のがして来られたからです〉と説明される.「見逃すこと」「先へ延すこと」は,決して赦すことではない.しかし,そのように「見逃されること」を,神がご自分の正義を全うする熱心を失っているのではないかと罪人は考えがちである故に,罪に対する神の正義,神の怒りが示されなければならなかった だから,〈今の時にご自身の義を現わすため〉(26),キリスト・イエスをなだめの供え物として与えられたのである.ヨハネが,私たちの罪のための「なだめの供え物」として義なるイエス・キリストが立てられたと語るのは,このことにほかならない(Ⅰヨハ2:2) 〈こうして神ご自身が義であり,また,イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです〉.神は,ご自身の義を確立することなしに,罪人を義とすることはあり得ない.罪のない方を罪人として罰することにおいても,罪人の罪を赦して義とすることにおいても,少しも不義の入り込む余地を残すことなく,神の正義を徹底される.神の義認の行為における道徳性の明示がこの箇所の論点である.「なだめの供え物を備えられることにおいて,神の正義と,罪人の義認は一致し,合体する」(J・マーレイ).神の怒りが完全になだめられるところに,初めて,全き罪の赦しは成り立つ.神の前に義とされて,この赦しを受けるために,求められている唯一の条件は,このなだめの供え物としてのイエスを信じる信仰である.〈イエスを信じる者を義とお認めになる〉 27‐31節.21‐26節の結びの言葉として,神の救いにおける人間の側の誇りのすべてが排除される.〈それでは,私たちの誇りはどこにあるのでしょうか〉(27)と問う.これに対する答は,〈それはすでに取り除かれました〉である.〈どういう原理によってでしょうか〉.〈原理〉は,ここまで「律法」と訳されてきた〈ギ〉ノモスの訳で,「法則」「体系」「秩序」とも訳せる.行いを肯定する原理によるのならば,人間の誇りは残る.しかし,信仰の原理による時,人間の誇りの肯定に通じるものは何一つ残されない.28節の〈私たちの考え〉は,21‐27節で論じられてきた,〈人が義と認められるのは,律法の行ないによるのではなく,信仰による〉(28)という聖書の一貫して主張する恩恵である.行いは自己肯定に結び付き,信仰は自己否定に結び付く.信仰の原理は,神の行為に目を向けさせる.ルターは,「信仰のみによる」と,「のみ」を付け加えることによってこの節の意味をより鮮明に示したと言えよう
【口語訳】 ロマ 5:12 このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。
【新共同訳】 ロマ 5:12 このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。
【新改訳改訂第3版】 ロマ 5:12 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、──それというのも全人類が罪を犯したからです。
注解 (聖書の達人2聖書注解)
人類の代表としてのアダムがもたらした罪と死と,新人類の代表としてのキリストによってもたらされた義と生命が対比される.単に相互に対立するものとして対照されるだけでなく,キリストによって与えられる恵みの満ちあふれる豊かさを示すために対照されている.それによって,前半の議論から予想される「1人の犠牲がどうして多くの者の祝福となり得るのか」との問に対する答を提供していると言えよう 12節.この節は,キリスト以前の人間の歴史を3段階に要約している.①ひとりの人によって罪が世界に入った.②罪によって死が入った.③彼にあって全人類が罪を犯したので,死は全人類に及んだ.このように,現在,死がすべての人に普遍的なのは,ひとりの人の最初の違反による
参考 (聖書の達人2聖書辞典)
■つみ 罪
1.旧約における罪.(1)用語.旧約において罪を表す語は多いが,おもな語は次の4種である.a.〈ヘ〉ハーターは「失敗する」(士20:16),「失っている」(ヨブ5:24),「つまずく」(箴19:2)などと訳されているように,もともとは「的(目標),または道をはずす」意味で用いられた一般的な語である.それが聖であり,義である神との関係においては「罪」と訳され(創4:7,出10:17),神が人に定められた道を踏みはずすという意味を表す.またこの語は,強情(出9:34),神に対する反抗(ヨシ7:11),神に対する不平(ヨブ1:22),心の中で神をのろうこと(ヨブ1:5),不信仰(詩78:32)などと共に用いられている.レビ記において〈ヘ〉ハーターの名詞形ハッタースは「罪のためのいけにえ」(レビ4:1‐5,13‐14)を意味し,それが罪に対する代償行為にまで拡大されている.b.〈ヘ〉アーオーンは「曲げる」が原意.「咎」(創4:13,44:16,出20:5,詩32:2)などと訳され,悪の行為を表す.c.〈ヘ〉ペシャは背くことで,「そむき」(ヨシ24:19,詩32:1,107:17),「そむきの罪」(出23:21,詩32:5,イザ53:5)と訳される.この語は,罪が神への反逆であることを最も強く表しており,その結果なされる残虐な行為とそれに続く神の容赦のないさばきについてたびたび使われている(イザ1:28,アモ1:3‐13).d.〈ヘ〉シャーガーは「あやまち」「あやまって犯した罪」(レビ4:13,ヨブ6:24,19:4,エゼ45:20)や「迷い出ること」(詩119:10,21.参照エゼ34:6)と訳され,被造物としての人が持つ弱さからくる誤った行為を意味している.これら以外にも罪の類義語は多くあるが,罪を表す語はおしなべて,その状態よりも,むしろ人が思い,ことば,行為などで犯した具体的な罪の事例について語っていると言える. (2)創3章に見る罪.ここには,5節の「悪」を除いては罪を表すどんな語も出てこないし,罪を直接定義する文もない.にもかかわらず,最初の人アダムとエバの堕落物語には,旧約はおろか聖書全体において罪が語られる際に土台となっている罪の本質が示されている.a.罪はアダムとエバの堕落以前にすでに存在していた.それは,エデンの園に罪の誘惑があったことから明らかである(創3:1.参照ヨハ8:44,Ⅱペテ2:4,Ⅰヨハ3:8,ユダ6節).しかし,この物語は罪そのものの起源について語ろうとしているのではなく,人類における罪の始まりについて記しているのである.最初の人への誘惑は,被造物である人間の分を越えて,創造主である神のようになりたいと思わせることであった(創3:5).実際,人は禁じられた木の実をもぎとることによって神の地位をもぎとったのである(参照ピリ2:6).それは単なる一つの犯罪行為ではなく,心の奥底における神への不従順,不信,反逆,そして神からの自立願望の表れであった.b.その結果,人は神ののろいを受けて神のかたちとしての自己像の破壊(創3:8),神よりの疎外(3:9‐10),人間同士の対立(3:12,16),自然との不調和(3:17‐18)の中で生きる者となった.c.だが神は決して人を見捨ててしまったわけではなく,むしろ神の恵みとあわれみが罪を犯した人間にも注がれて,ついには罪からの救いが与えられる希望のあることがこの時すでに暗示されている(創3:21). (3)旧約における罪の諸相.旧約における罪はどのようなものであれ,本質的には神に対する罪である(創39:9,詩51:4).しかし,モーセを通して神の民イスラエルに,十のことば(十戒)を代表とする律法と祭儀規定が与えられてからは,罪とは神から与えられた具体的な律法や規定を破ることとして,法的,祭儀的に意識される傾向が強くなった.その結果,たびたび生活の律法主義化や祭儀の形式化が生じることとなったが,預言者が神から立てられて,絶えず律法と祭儀の本来の目的と意味を想起するよう警告すると共に,内面的あるいは倫理的罪をも糾弾した(参照イザ1章,ハバ2章,マラ2章).罪は必ず償いを必要とし,その方法も律法の定めに従って法的,社会的あるいは祭儀的に処理されなければならなかった.とはいえ神は形式的償いだけでは満足しないばかりか,心のない償いを憎まれた(イザ1:13‐15).神は罪を告白して悔い改める砕かれたたましいを何にもまして望まれるからである(詩34:18,51:17,ミカ6:6‐8). 2.新約における罪.(1)用語.新約で罪と訳されている語とその類義語は多い.a.〈ギ〉ハマルティアの動詞,ハマルタノーはもともと「的をはずす」,あるいは「迷う」「誤る」を意味する一般的な語であったが,70人訳において〈ヘ〉ハーターのギリシヤ語訳として用いられたことによって,専ら「罪を犯す」という聖書特有の意味を表す語となった.名詞の〈ギ〉ハマルティアも,70人訳においては通常〈ヘ〉ハッタースの訳語として〈ギ〉ハマルテーマと共に使われ,これらは新約においてもおもに複数形をとり,具体的な罪の行為や律法違反を意味する(マコ1:5,ヨハ8:24,使2:38,ヤコ1:15,Ⅰヨハ1:9,3:4).また,行為だけでなく人間の持っている神に敵対する性質をも意味して用いられている(ヨハ8:34,9:41,15:22,ロマ3:20,Ⅰヨハ1:8).さらにパウロは,ロマ5‐8章において人に住みつき力を振う悪しき原理として,罪を人格化して語っている(ロマ5:12,6:12,14,7:17,20,8:2).b.〈ギ〉パラプトーマは,一般的には測量の誤差や失策を意味したが(参照ガラ6:1),新約においてはもっと道徳的含蓄を持った「罪過」(エペ2:1),「罪」(マタ6:14‐15,ロマ4:25),「違反」(ロマ5:15‐20,11:11‐12)という意味で使われている.c.〈ギ〉パラバシスは「違反」と訳され(ロマ4:15,ヘブ2:2),規範を破ることを意味する.d.〈ギ〉アセベイアは70人訳では〈ヘ〉ペシャの訳語として使われ,おそらくは罪を表す語の中で最も語調が強く,神に対する「不敬虔」(ロマ1:18,Ⅱテモ2:16)を意味する.e.その他,〈ギ〉アノミアは法を侮るという意味の「不法」(マタ7:23,ロマ6:19,Ⅱコリ6:14),〈ギ〉カキアや,〈ギ〉ポネーリアは道徳的,霊的腐敗を表す「邪悪」「悪事(悪意)」(ルカ11:39,使8:22,ロマ1:29,エペ6:13),そして〈ギ〉アディキアは「不正」(ルカ18:6,ヨハ7:18),「不義」(ロマ2:8,Ⅱテモ2:19)を意味する.f.そして最後に,〈ギ〉オフェイレーマは「負いめ」(マタ6:12)と訳され,罪を関係の概念で表現している. (2)新約各書における罪の概念の多様性.a.共観福音書においては,新約のほかの部分ほどに罪を表す語の掘り下げは見られない.しかしそれは,イエス御自身が罪,特にその性質についてあまり深く考えていなかったためではなく,むしろ彼のことばとわざとによってもたらされている終末的神の国(支配)によって罪の支配が克服されつつあるとの積極的使信が前面に出ていることによる.ルカ15章の一連のたとえ話でも,単に人間の罪人(〈ギ〉ハマルトーロス)としての現実のみでなく,そのような罪人が悔い改める時の神の大きな喜びをも語っている通りである.そしてそのイエスは神の国そのもの,罪に対する勝利者であって,まことに「罪を赦す」権威を持つ方(マコ2:5,ルカ1:77,11:4),「罪から救う」ために来られた方(マタ1:21)なのである.初代教会の使徒たちも,このキリストを宣教した(使2:38,5:31,10:43,26:20). b.第4福音書,ヨハネの手紙,ヨハネの黙示録の中でヨハネが語る罪の中心概念は,「神の啓示を受け入れないこと」である.それは,「私は……です」(ヨハ6:48,8:12,10:9,14,11:25,14:6,15:1)と宣言された神のひとり子キリストのもとに来ないこととして示されている.神の啓示であると共に罪の解決者であるイエスは,「罪を取り除く神の小羊」のようにユダヤ的,祭儀的用語をもって描かれることが多いが(ヨハ1:29,Ⅰヨハ1:7,2:2,3:5,4:10),他方,「世」(世界,人類)全体が罪の中で滅びに向かっているという,罪の普遍性を語っているのも目立っている(参照ヨハ1:9‐10,3:16‐21,Ⅰヨハ5:19).この罪の世から贖われた者の交わりである教会は,世にあってもキリストを受け入れているしるしとして互いに愛し合うはずである(ヨハ13:34‐35,15:9‐17,Ⅰヨハ4:7‐5:5).そして終りの日には,ついに神は罪の支配を完全に打ち滅ぼされる(黙21:1‐8).c.パウロの罪の概念を理解しようとする時は彼の個人的回心の体験を無視できないが,何よりもそれはキリストの出来事(十字架と復活)との関係で理解されなければならない.人の罪のためにこそ十字架と復活があり,人がそのことを信じる時に罪から解放されて生きるという初代教会の教理を土台にして,パウロの罪論は展開する(以下特にロマ5‐8章を参照).まずパウロが罪と言う時,それは個々の行為のことよりもすべての人の状態や性質のことである.その罪の起源はアダムが神に反逆したことにあり,それによって罪の性質と死の原理がすべての人を支配するようになった.罪と律法との関係については,律法を守ることによって救われるというユダヤ教とは対照的に,律法はむしろ否定的に働いて人を罪に目覚めさせ,罪に閉じ込め,罪の奴隷としてしまい,いのちにではなく死に導くものであると語る(参照ガラ3:22‐24).では律法が罪なのかと言うとそうではない.罪は律法が与えられる以前にすでにあったのだから,律法が罪をつくったのではない.律法は聖にして霊的なものであって,人のうちに住む罪こそが元凶なのである.このようにパウロは罪を人格のように語り,その罪の支配下に売られている人の状態を「肉」と呼ぶ.だから肉によって生きることは御霊の支配のもとに生きるのとは反対のことを意味する(参照ガラ5:17‐21,エペ2:3).このみじめな罪人の現実をキリストの十字架の出来事(ことば)が貫く.それは人の罪の性質ばかりか,その原因と結果である悪魔と死をも打ち砕いた神の力の勝利である(参照Ⅰコリ1:18).このキリストを信じてバプテスマを受けた人に与えられる救いは罪と死の原理(肉)からの解放であり,いのちの御霊の原理によって生きるべく再創造されることである.この場合,罪から解放された生き方というのは,行為としての罪を一つも犯さなくなるということではなく,御霊の支配のもとに罪の性質(肉)と戦って,それに打ち勝つ道が開かれているということである(参照Ⅱコリ5:13‐17,ガラ5:1,13‐25,ピリ3:8‐14). d.その他の書については,ヘブル人への手紙の著者はおもに旧約における大祭司の職務といけにえによる罪の贖いの制度の観点から罪を扱う.ヤコブの手紙はユダヤ教の伝統に近く,罪は人のうちにある「欲」(〈ギ〉エピスュミア)からくると教え(ヤコ1:14‐15),その罪とはなすべき正しいことを行わないことであると言う(ヤコ4:17).ペテロの手紙もヤコブの手紙と大差ないが,私たちが罪から離れるためにキリストが苦しまれたことへの言及が目立つ(Ⅰペテ2:22,24,3:18,4:1). (3)結論として,新約における罪の概念はさまざまな観点から語られている.とはいえ,そこには確固とした共通の理解があって,それは次の3点に要約することができる.a.罪はすべての人間と全被造物を含むこの世の現実である.b.罪の本質は,神から離れて神に反逆すること,または神を無視して自我に生きることである.c.十字架で死なれ復活された神のひとり子キリストを信じることによって罪からの救いが与えられる.それが私たちの宣べ伝えるべき福音である.
月曜日 聖所
問2
【口語訳】 ヘブル 9:1-8
9:1 さて、初めの契約にも、礼拝についてのさまざまな規定と、地上の聖所とがあった。 9:2 すなわち、まず幕屋が設けられ、その前の場所には燭台と机と供えのパンとが置かれていた。これが、聖所と呼ばれた。 9:3 また第二の幕の後に、別の場所があり、それは至聖所と呼ばれた。 9:4 そこには金の香壇と全面金でおおわれた契約の箱とが置かれ、その中にはマナのはいっている金のつぼと、芽を出したアロンのつえと、契約の石板とが入れてあり、 9:5 箱の上には栄光に輝くケルビムがあって、贖罪所をおおっていた。これらのことについては、今ここで、いちいち述べることができない。 9:6 これらのものが、以上のように整えられた上で、祭司たちは常に幕屋の前の場所にはいって礼拝をするのであるが、 9:7 幕屋の奥には大祭司が年に一度だけはいるのであり、しかも自分自身と民とのあやまちのためにささげる血をたずさえないで行くことはない。 9:8 それによって聖霊は、前方の幕屋が存在している限り、聖所にはいる道はまだ開かれていないことを、明らかに示している。 【新共同訳】 ヘブル 9:1-8
9:1 さて、最初の契約にも、礼拝の規定と地上の聖所とがありました。 9:2 すなわち、第一の幕屋が設けられ、その中には燭台、机、そして供え物のパンが置かれていました。この幕屋が聖所と呼ばれるものです。 9:3 また、第二の垂れ幕の後ろには、至聖所と呼ばれる幕屋がありました。 9:4 そこには金の香壇と、すっかり金で覆われた契約の箱とがあって、この中には、マンナの入っている金の壺、芽を出したアロンの杖、契約の石板があり、 9:5 また、箱の上では、栄光の姿のケルビムが償いの座を覆っていました。こういうことについては、今はいちいち語ることはできません。 9:6 以上のものがこのように設けられると、祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります。 9:7 しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます。 9:8 このことによって聖霊は、第一の幕屋がなお存続しているかぎり、聖所への道はまだ開かれていないことを示しておられます。 【新改訳改訂3】 ヘブル 9:1-8
9:1 初めの契約にも礼拝の規定と地上の聖所とがありました。 9:2 幕屋が設けられ、その前部の所には、燭台と机と供えのパンがありました。聖所と呼ばれる所です。 9:3 また、第二の垂れ幕のうしろには、至聖所と呼ばれる幕屋が設けられ、 9:4 そこには金の香壇と、全面を金でおおわれた契約の箱があり、箱の中には、マナの入った金のつぼ、芽を出したアロンの杖、契約の二つの板がありました。 9:5 また、箱の上には、贖罪蓋を翼でおおっている栄光のケルビムがありました。しかしこれらについては、今いちいち述べることができません。 9:6 さて、これらの物が以上のように整えられた上で、前の幕屋には、祭司たちがいつも入って礼拝を行うのですが、 9:7 第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけ入ります。そのとき、血を携えずに入るようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。 9:8 これによって聖霊は次のことを示しておられます。すなわち、前の幕屋が存続しているかぎり、まことの聖所への道は、まだ明らかにされていないということです。 注解 (聖書の達人2聖書注解)
この部分は第2部(4:14‐10:18)の第3区分で,キリストにおいて成就した新しい契約と,それを実現させた天の,真の幕屋におけるキリストの働きとを詳述する.8:8‐12と10:16‐17でエレ31:31‐34が引用され,第3区分のテーマが,この引用句に囲まれた部分で,その句の真の成就として展開される形になっている 優れた契約の仲保者なる大祭司キリスト(8:1‐6) ここは第3区分の中心テーマ(キリストの真の天的大祭司的犠牲奉献)の導入部分である.〈要点〉(1)は先行議論の単なる要約ではなく,その中心的帰結ないし頂点を成す教説,それ故後続の議論の展開の出発点となるような教説を指す.これは読者の注意を今一度当該教説へと喚起する著者の文学的技巧でもある.それは,キリストが今や天の幕屋で奉仕する真の大祭司にいます(2)という,これまでの議論を貫く最重要教理である(参照1:3,4:14,6:20,7:26) ここでも旧約祭司の奉仕との対比で,キリストの奉仕の卓越性が強調される.祭司は贖罪犠牲を奉献して神に仕えるが,キリストもそれに従われた(3).しかし旧約祭司が地上の幕屋で仕えたのに対して,キリストは天の幕屋で仕えられた.前者は後者の〈写しと影〉(5)にすぎず,それは著者によれば,モーセが幕屋造営の命令を受けた時すでに明示されていた(出25:40).ここでの対比には「天地」の二元的関係と共に,「新旧」の救済史的連関が取り込まれており,これがここの対比を同時代の無時間的,二元論的思考から決定的に区別している こうしてキリストは,地上の幕屋で仕える旧約祭司と異なり,天の幕屋,神の御座の右で仕えることによって,〈さらにすぐれた契約の仲介者〉,またその保証人ともなり,〈さらにすぐれた務め〉,真の祭司の務めを全うされたのである(6) この部分は先行部分の結びの「さらにすぐれた契約」を受けて始まる.7,13節がこの部分の枠組みを成し,引用旧約章句の解釈を規定しており,そこに新しい契約を必要とする理由が明示される.そして新契約の実効性が,その準備となった旧契約の〈欠け〉(7,8a)との対比において強調される
問3
【口語訳】 ヘブル 8:1-2
8:1 以上述べたことの要点は、このような大祭司がわたしたちのためにおられ、天にあって大能者の御座の右に座し、 8:2 人間によらず主によって設けられた真の幕屋なる聖所で仕えておられる、ということである。 【新共同訳】 ヘブル 8:1-2
8:1 今述べていることの要点は、わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、 8:2 人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられるということです。 【新改訳改訂3】 ヘブル 8:1-2
8:1 以上述べたことの要点はこうです。すなわち、私たちの大祭司は天におられる大能者の御座の右に着座された方であり、 8:2 人間が設けたのではなくて、主が設けられた真実の幕屋である聖所で仕えておられる方です。 注解 (聖書の達人2聖書注解)
ここは第3区分の中心テーマ(キリストの真の天的大祭司的犠牲奉献)の導入部分である.〈要点〉(1)は先行議論の単なる要約ではなく,その中心的帰結ないし頂点を成す教説,それ故後続の議論の展開の出発点となるような教説を指す.これは読者の注意を今一度当該教説へと喚起する著者の文学的技巧でもある.それは,キリストが今や天の幕屋で奉仕する真の大祭司にいます(2)という,これまでの議論を貫く最重要教理である(参照1:3,4:14,6:20,7:26)
【口語訳】 ヘブル 9:23 このように、天にあるもののひな型は、これらのものできよめられる必要があるが、天にあるものは、これらより更にすぐれたいけにえで、きよめられねばならない。
【新共同訳】 ヘブル 9:23 このように、天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません。
【新改訳改訂第3版】 ヘブル 9:23 ですから、天にあるものにかたどったものは、これらのものによってきよめられる必要がありました。しかし天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなければなりません。
注解 (聖書の達人2聖書注解)
この部分にも第2部第3区分(8:1‐10:18)のこれまでの議論ですでに明示されてきた思想や主題が繰り返される(23‐24節と8:5‐6,9:11‐13;25節と8:3,9:7;26節以下と12,15節).ここではキリストの死による聖めの必然性が強調される(23,26) 犠牲動物の血による地上の幕屋の祭儀的聖めの〈必要〉性(23)は,キリストの血による真の聖めの成就,その天的性質と永遠の効力の予表であった.〈天にあるもの自体〉(23,複数形)は,実質的に天の幕屋(11),〈天そのもの〉(24)を指すと見てよい.ここで言われる天の幕屋の聖めの必要性は,真の贖罪効力なき地上の幕屋と予型的に連続している天の幕屋の何らかの聖めの必要性を意味しない.これは,地上の幕屋の聖めの必要性が予表したキリストによる天的,永遠的聖めの必然性を示すもので,その確実な結果である良心の聖めや完全化(9,14)を含意していると思われる.地と天の霊的資質に関する二重性と,予型的祭儀とその成就との救済史的二重性とが重なっているため,霊的である神の民も,時至って〈さらにすぐれたいけにえ〉により聖められてこそ,真に〈天にあるもの自体〉に連なるのである(23).これは,聖めがなお未完である神の民にも〈天〉やその類語がその根源的,霊的形容として用いられ得るからであろう(12:23,Ⅰペテ1:2,2:5,9)
*旧約聖書において・・・・信仰によって赦しを受けた
【新共同訳】 創 3:15 お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」 *裁きはイエスを信じる人々を救う神の正義を擁護する
【新共同訳】 ロマ 3:4 決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、/裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。 ◆(聖書の達人2聖書辞典)
ち 血 血液の機能がどのようなものであるかは,1628年ウィリアム・ハーヴィーがその事実を明らかにするまではよく知られていなかった.それにもかかわらずあらゆる民族が血を神秘的なものと考えていた.血の儀式,血の祭,血による争いなど原始部族の間では共通のものが多い.科学的に血の機能が解明されていない時代でも血が生命の源であるとされ,流血に対する恐怖,畏敬,尊厳といった態度をとったり,血がお互いの兄弟関係,友情のしるしとしてその関係確立の手段として用いられてきた. 旧約聖書における最初の言及は殺人者カインに対する神のことばである(創4:10‐11).この言及は象徴的である.肉のいのちは血にあり(レビ17:11),血はいのちそのものであると言われる(レビ17:14,申12:23).それゆえ,神に造られた者のいのちを宿す血は神聖であって,決してそれを食べてはならない(創9:4).「人の血を流す者」(創9:6)はカインに語られたように報復が要求されている.いのちを奪うことは刑罰に値する罪で,その赦しのためには,血による贖いが必要とされる(ヘブ9:22).血の儀式として,割礼がある.これは割礼を受けた者と主との契約関係を示すものとして重要である(創17:10‐14).モーセの律法においては,動物の血がすべての罪の贖いのために用いられた.またきよめのためにも用いられている(レビ14:5‐7).そして,食用に供する動物の血は決して食べてはならず,血は土で覆わなければならないとされ,それを守らない者は民の間から断たれると言われる(レビ17:10‐14,申12:16,23‐25). 新約聖書では,キリストの血に関する言及が中心であり,救いについては「キリストの血によって義と認められた」(ロマ5:9)と言われ,さらにそのことによって「(御子の死によって)神と和解させられた」(ロマ5:10)と言われている.キリスト御自身が,御自分の死と,キリストにくる者に与えるいのちの関係についてヨハ6:51‐58で,「わたしの血を飲む者は,わたしのうちにとどまる」と言っている.キリストの十字架が,罪の赦し(エペ1:7,ヘブ9:25‐28),罪からのきよめ(Ⅰヨハ1:7),キリストとの交わりの回復(エペ2:13,ヘブ10:19)を可能にするのである.過越の儀式は聖餐式に受け継がれ(マタ26:28,Ⅰコリ10:16),私たちはそれによって主の再臨を待ち望んでいることを表すのである(Ⅰコリ11:25‐26).
贖罪の日
毎年の第7月(太陽暦の9―10月)の10日が贖罪の日である(レビ23:27).この日人々は聖なる会合を催し,断食し(「身を戒め」と訳出),いっさいの仕事をやめて完全な安息を守る(レビ23:28,民29:7).大祭司は身をきよめ,聖なる装束をつけて,いけにえを携えて聖所に入り,そこで,自分と自分の家族と民の贖いのためにいけにえをささげる.大祭司は生きている1頭のやぎを取り,その頭に両手を置き,民のすべてのとがと背きの罪を告白し,それをやぎの頭に置く.このアザゼルのやぎは民のすべてのとがを背負って荒野へ放たれる.その後,大祭司は,自分のためと民のために脂肪を焼いて贖いをする.こうして民の1年間の罪が赦され,きよめられる(レビ16章).この日のすべての儀式は大祭司イエスによる罪の贖いのわざの予型であり,新約ではキリスト者の救いの完成の時が「贖いの日」と呼ばれている(エペ4:30).
火曜日 安息日
参考 (聖書の達人2聖書辞典)
あんそくにち 安息日 1.名称.〈ヘ〉シャッバース.〈ヘ〉シャーバス「やめる」あるいは「休む」に由来する.ギリシヤ語ではサバトン.週の第7日目.休息と礼拝の日として守るように定められた日.安息日は,金曜日の日没から始まって土曜日の日没で終る. 2.聖書的起源.天地創造の記事(創1:1‐2:3)の中で,6日間の創造のわざを終えた神は「休まれ」,その第7日目を祝福し,この日が「聖である」と宣言された.この創造の記事の中には,直接「安息日」ということばは使われていないが,モーセの十のことば(十戒)の制定に至って,その第4番目に安息日に関する戒めが掲げられ,その根拠として神の創造のわざに言及している(出20:8‐11).したがって,安息日を守ることは,神の創造のわざにおいて,神が「休まれた」という事実と,それを「聖とされた」という事実に深くかかわりをもっていると言える.安息日は神とイスラエルとの間の「しるし」として説明されるのである(出31:17)が,これは,神とイスラエルとの契約に基づくものであると理解してよい.特に,「いこわれた」と強い意味のことばをここで意図的に用いることによって,神は6日間の日常の仕事から全く離れて第7日目に休息されたことを強調したものと思われる. 7日を1週と見なすことについての記録はノアの洪水の記事においても見られる.すなわち,神がノアに洪水が起ることをその7日前に予告し,7日後には実際に洪水が起った(創7:4,10).また,洪水後,水が引いたことを調べるためにノアは鳩を7日ごとに箱舟の外に放った(創8:10,12).ここで安息日そのものの意味は説明されていないが,7日が一つの単位として用いられている(1週7日制についてのバビロニヤ起源説は,占星術に基づいて,太陽と月以外に5つの惑星すなわち火―土を合せて7日と見なす惑星崇拝の習慣から由来していると考える.しかし,この説は19世紀末にはほとんど消滅している). 出エジプト記において,安息日に関する最初の記録は,シンの荒野におけるマナの給食の時に見られる(出16:23).すなわち,マナを毎朝集めることについて,第6日目は特別に翌日の分まで2倍集めることを神はモーセを通してイスラエルに命じられた(出16:5).しかも,その理由として「あすは全き休みの日,主の聖なる安息である」(出16:23)と宣言しておられる.ここで注目されるのは,シンの荒野の出来事はシナイ山でのモーセの十のことばの賦与以前のことであったことである.そして,6日目にマナを集めることを怠った人々に対して主から叱責のことばがあったが,その中で推測できるのは,安息日の戒めに関しては,それよりも以前に何度か主によって繰り返されていたことである.「あなたがたは,いつまでわたしの命令とおしえを守ろうとしないのか」(出16:28).したがって,安息日の起源は,モーセの十のことばよりずっと以前にさかのぼることができる. 安息日に関する戒めは十のことばの第4番目に位置し,対神関係の戒め(第1戒―第3戒)と対人関係の戒め(第5戒―第10戒)とをつなぐ鎖として重要な役目を果している.それは,安息日の戒めには,イスラエルの出エジプトの恵みの経験が特に付記されていることからも推察される(申5:15).神は安息日を祝福のしるしとしてイスラエルに与え,御自分が彼らを聖別する主であることを知らせようとされたのである(出31:13,ネヘ9:14,エゼ20:12).安息日は本来はイスラエル民族に対して定められた制度であることは確かであるが,その原理においては,人間すべてに適用されるものである. 3.安息日の遵守.安息日には,通常の労働から解放されることは事実であるが,それに伴って,休息の仕方について厳格に規定されていて,いくつかの禁止事項が設けられている.たとえば,火をおこすこと(出35:3),薪を集めること(民15:32‐36),食事を用意すること(出16:23‐30)などが禁じられている.安息日を犯す者は殺されなければならないと定められ(出31:14,民15:32‐36),預言者たちも安息日の遵守を終末的約束の実現と関連させて語っている(イザ58:13‐14,エレ17:19‐27,エゼ20:23‐24,22:8,アモ8:5).ホセアは,イスラエルの不誠実のゆえに,安息日を彼らから取り去ろうとした(ホセ2:11).しかし,その中止も永遠に続くものではないとイザヤとエゼキエルは指摘している(イザ66:23,エゼ44:24).バビロン捕囚の期間中には,安息日はユダヤの他の祭に比べて規則正しく守られていたようである.しかし,その後エルサレムに帰還したネヘミヤは,安息日が汚されているのに大いに憤慨している(ネヘ13:15‐22). 中間時代において安息日は規則正しく守られた.その理由は会堂(シナゴーグ)の確立にあった.この時代には,安息日がユダヤ人の意識の中に公的にも私的にも深く根づいていたのである.マカベア時代には,安息日を犯すよりも死を選ぶ人々が現れたほどである(Ⅰマカベア2:32‐38). 新約時代の安息日遵守については,イエスの安息日に対する態度に見ることができる.すなわち,イエスは,この規定の基本的な目的を示すことによって安息日の真の意味を明白にしたのである.「安息日は人間のために設けられたのです.人間が安息日のために造られたのではありません.人の子は安息日にも主です」(マコ2:27‐28).
問4
【口語訳】 出 20:1-17
20:1 神はこのすべての言葉を語って言われた。20:2 「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。 20:3 あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。 20:4 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるも
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