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第01課 天の織機で

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작성자 김형수 작성일11-03-25 16:48 조회3,193회 댓글1건

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第01課 天の織機で

暗唱聖句
【口語訳】 ロマ 4:7 「不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、/さいわいである。
【新共同訳】 ロマ 4:7 「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、/幸いである。
【新改訳改訂第3版】 ロマ 4:7 「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。
【リビング・バイブル】 ロマ 4:7 「罪を赦された者、罪をすっかり消された者は、
<NKJV> Rom  4:7 "Blessed are those whose lawless deeds are forgiven,And whose sins are covered;
<KJV> Rom 4:7 Saying, Blessed are they whose iniquities are forgiven, and whose sins are covered.
<NIV> Rom 4:7 "Blessed are they / whose transgressions are forgiven, / whose sins are covered.
<TEV> Rom 4:7 "Happy are those whose wrongs are forgiven, /whose sins are pardoned!
J-ばいぶるGREEK 原書講読画面Rom 4:7
Maka,rioi w-n avfe,qhsan ai` avnomi,ai kai. w-n evpekalu,fqhsan ai` a`marti,ai
<文法解析ノート> Rom 4:7
@1# maka,rioj Maka,rioi        a--nm-p 形)主男複 幸いな
@2# o[j w-n        -aprgm-p 関代)属男複 この~
@3# avfi,hmi avfe,qhsan        viap--3p 動)直アオ受3複 行かせる、許す、見捨てる、赦す
@4# o` ai`        dnfp 冠)主女複 冠詞(この、その)
@5# avnomi,a avnomi,ai        n-nf-p 名)主女複 不法
@6# kai, kai.        cc 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば
@7# o[j w-n        -aprgm-p 関代)属男複 この~
@8# evpikalu,ptw evpekalu,fqhsan        viap--3p 動)直アオ受3複 おおう、覆い隠す
@9# o` ai`        dnfp 冠)主女複 冠詞(この、その)
@10# a`marti,a a`marti,ai        n-nf-p 名)主女複 罪

日曜日  鏡を見つめて
問1
【口語訳】 イザ [ 64 ]
  64:1 どうか、あなたが天を裂いて下り、あなたの前に山々が震ぱくように。 64:2 火が柴木を燃やし、火が水を沸かすときのごとく下られるように。そして、み名をあなたのあだにあらわし、もろもろの国をあなたの前に/震えおののかせられるように。 64:3 あなたは、われわれが期待しなかった恐るべき事を/なされた時に下られたので、山々は震ぱいた。 64:4 いにしえからこのかた、あなたのほか神を待ち望む者に、このような事を行われた神を聞いたことはなく、耳に入れたこともなく、目に見たこともない。 64:5 あなたは喜んで義を行い、あなたの道にあって、あなたを記念する者を迎えられる。見よ、あなたは怒られた、われわれは罪を犯した。われわれは久しく罪のうちにあった。われわれは救われるであろうか。 64:6 われわれはみな汚れた人のようになり、われわれの正しい行いは、ことごとく汚れた衣のようである。われわれはみな木の葉のように枯れ、われわれの不義は風のようにわれわれを吹き去る。 64:7 あなたの名を呼ぶ者はなく、みずから励んで、あなたによりすがる者はない。あなたはみ顔を隠して、われわれを顧みられず、われわれをおのれの不義の手に渡された。 64:8 されど主よ、あなたはわれわれの父です。われわれは粘土であって、あなたは陶器師です。われわれはみな、み手のわざです。 64:9 主よ、ひどくお怒りにならぬように、いつまでも不義をみこころにとめられぬように。どうぞ、われわれを顧みてください。われわれはみな、あなたの民です。 64:10 あなたの聖なる町々は荒野となり、シオンは荒野となり、エルサレムは荒れすたれた。 64:11 われわれの先祖があなたをほめたたえた/聖なる麗しいわれわれの宮は火で焼かれ、われわれが慕った所はことごとく荒れはてた。 64:12 主よ、これらの事があっても/なお、あなたはみずからをおさえ、黙して、われわれをいたく苦しめられるのですか。
【新共同訳】 イザ [ 64 ]
  64:1 柴が火に燃えれば、湯が煮えたつように/あなたの御名が敵に示されれば/国々は御前に震える。 64:2 期待もしなかった恐るべき業と共に降られれば/あなたの御前に山々は揺れ動く。 64:3 あなたを待つ者に計らってくださる方は/神よ、あなたのほかにはありません。昔から、ほかに聞いた者も耳にした者も/目に見た者もありません。 64:4 喜んで正しいことを行い/あなたの道に従って、あなたを心に留める者を/あなたは迎えてくださいます。あなたは憤られました/わたしたちが罪を犯したからです。しかし、あなたの御業によって/わたしたちはとこしえに救われます。 64:5 わたしたちは皆、汚れた者となり/正しい業もすべて汚れた着物のようになった。わたしたちは皆、枯れ葉のようになり/わたしたちの悪は風のように/わたしたちを運び去った。 64:6 あなたの御名を呼ぶ者はなくなり/奮い立ってあなたにすがろうとする者もない。あなたはわたしたちから御顔を隠し/わたしたちの悪のゆえに、力を奪われた。 64:7 しかし、主よ、あなたは我らの父。わたしたちは粘土、あなたは陶工/わたしたちは皆、あなたの御手の業。 64:8 どうか主が、激しく怒られることなく/いつまでも悪に心を留められることなく/あなたの民であるわたしたちすべてに/目を留めてくださるように。 64:9 あなたの聖なる町々は荒れ野となった。シオンは荒れ野となり、エルサレムは荒廃し 64:10 わたしたちの輝き、わたしたちの聖所/先祖があなたを賛美した所は、火に焼かれ/わたしたちの慕うものは廃虚となった。 64:11 それでもなお、主よ、あなたは御自分を抑え/黙して、わたしたちを苦しめられるのですか。
【新改訳改訂第3版】 イザ [ 64 ]
64:1 ああ、あなたが天を裂いて降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしょう。 64:2 火が柴に燃えつき、火が水を沸き立たせるように、あなたの御名はあなたの敵に知られ、国々は御前で震えるでしょう。 64:3 私たちが予想もしなかった恐ろしい事をあなたが行われるとき、あなたが降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしょう。 64:4 神を待ち望む者のために、このようにしてくださる神は、あなた以外にとこしえから聞いたこともなく、耳にしたこともなく、目で見たこともありません。 64:5 あなたは迎えてくださいます。喜んで正義を行う者、あなたの道を歩み、あなたを忘れない者を。ああ、あなたは怒られました。私たちは昔から罪を犯し続けています。それでも私たちは救われるでしょうか。 64:6 私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。 64:7 しかし、あなたの御名を呼ぶ者もなく、奮い立って、あなたにすがる者もいません。あなたは私たちから御顔を隠し、私たちの咎のゆえに、私たちを弱められました。 64:8 しかし、【主】よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。 64:9 【主】よ。どうかひどく怒らないでください。いつまでも、咎を覚えないでください。どうか今、私たちがみな、あなたの民であることに目を留めてください。 64:10 あなたの聖なる町々は荒野となっています。シオンは荒野となり、エルサレムは荒れ果てています。
64:11 私たちの先祖があなたをほめたたえた私たちの聖なる美しい宮は、火で焼かれ、私たちの宝とした物すべてが荒廃しました。 64:12 【主】よ。これでも、あなたはじっとこらえ、黙って、私たちをこんなにも悩まされるのですか。
【リビング・バイブル】 イザ [ 64 ]
64:1 ああ、神様が天を引き裂いて地上に降りて来られますように!山々は御前で、どんなに揺れ動くことでしょう。 64:2 すべてのものを焼き尽くすご栄光の火は、森林を灰にし、海を干上がらせるでしょう。 国々は御前で震えるでしょう。 その時になって、敵どもは、神様の名声が響き渡っている理由を肌で感じます。 64:3 私たちが夢にも考えていなかった恐ろしいことをなさるので、神様が来られるとき山々は胴震いするでしょう。 64:4 世界が始まって以来、私たちの神様のように、待ち望む者にすばらしいことをしてくださる方は、ほかにありません。 64:5 神様は、喜んで正しいことを行なう者、神様につき従う者を、大手を広げて迎えてくださいます。 ところが、私たちは神様を敬わず、一生罪を犯し続けています。 そのため、神様の怒りが重くのしかかっているのです。 このような者が、どうして救われるでしょう。 64:6 私たちはみな罪の毒に冒され、汚れきっています。 これこそ正義だという最上の着物をまとっても、悪臭を放つぼろきれにすぎません。 私たちは秋の木の葉のように色あせ、しおれて落ちます。 あえなく罪の風に吹き飛ばされるばかりです。 64:7 それでもなお、だれひとり神様の名を呼び、あわれみにすがろうとしません。 そこで神様も、私たちにそっぽを向き、罪に引き渡したのです。 64:8 しかし神様、それでもなお、神様は私たちの父です。 私たちは粘土で、神様は陶器師です。 私たちはみな御手によって造られました。 64:9 神様、どうか、そんなに怒らないでください。 私たちの罪を早く忘れてください。 どうか、私たちをご覧になり、神様の国民であることを心に留めてください。 64:10 神様のきよい町々は破壊されたままです。 エルサレムは住む者もいない荒れ地になっています。 64:11 先祖が神様を礼拝した、あの聖なる美しい神殿は焼け落ちました。 美しい物は何もかもこわされました。 64:12 神様、これでもなお、私たちを助けるのをしぶるのですか。 黙って眺めるだけで、なおも私たちを罰するのですか。
注解   (聖書の達人2008聖書注解)
64章 本章は,預言者イザヤの祈りの続きである.まず,神は審判者であり,そのさばきの厳しさに人々はこの上もない恐ろしさを覚える.ご自分の民に対してもそのように厳しくさばかれる神が,ほかにあるだろうか.しかし神は,神の前に正しく歩む者を喜び迎えて下さる(1‐5節前半).イスラエルの民は,厳しくさばかれる聖なる神の前に正しく歩んでいるだろうか.預言者イザヤは,自分を含めて,イスラエルの民は弱く,罪深く,神の前には立ち得ない存在であり,神から遠い存在となっていると告白する(5節後半‐7節) しかしながら,イザヤの祈りは,そのような告白だけでは終らない.64章の最後の部分(8‐12)は,イスラエルの民の弱さを認め告白した上での切実なとりなしの祈りである.その点ではメシヤ的祈りとも言ゐる.63:16と同じように,ここでも,〈しかし,主よ.今,あなたは私たちの父です〉(8)と訴え,迫っている.神の愛と慈しみに信頼した強い求めである.神が創造者であり,陶器師であり,すべては神の主権のもとにあることを知るイザヤは,〈主よ.どうか……どうか今,私たちがみな,あなたの民であることに目を留めてください〉(9)と,率直に祈る.最後は,民の回復のみでなく,このままでは,神よ,あなたの御名が汚されるのではないのですか,と言わんばかりの訴えであり(10‐12),神の栄光の回復を求める祈りである.このような預言者イザヤの祈りに希望を実感しない者があるだろうか.ここには,終末的な真の平和への期待が見られる
*使徒パウロはこのテーマを取り上げ、
【口語訳】 ロマ [ 3 ]
3:1 では、ユダヤ人のすぐれている点は何か。また割礼の益は何か。 3:2 それは、いろいろの点で数多くある。まず第一に、神の言が彼らにゆだねられたことである。 3:3 すると、どうなるのか。もし、彼らのうちに不真実の者があったとしたら、その不真実によって、神の真実は無になるであろうか。 3:4 断じてそうではない。あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきである。それは、/「あなたが言葉を述べるときは、義とせられ、/あなたがさばきを受けるとき、勝利を得るため」/と書いてあるとおりである。 3:5 しかし、もしわたしたちの不義が、神の義を明らかにするとしたら、なんと言うべきか。怒りを下す神は、不義であると言うのか(これは人間的な言い方ではある)。 3:6 断じてそうではない。もしそうであったら、神はこの世を、どうさばかれるだろうか。 3:7 しかし、もし神の真実が、わたしの偽りによりいっそう明らかにされて、神の栄光となるなら、どうして、わたしはなおも罪人としてさばかれるのだろうか。 3:8 むしろ、「善をきたらせるために、わたしたちは悪をしようではないか」(わたしたちがそう言っていると、ある人々はそしっている)。彼らが罰せられるのは当然である。 3:9 すると、どうなるのか。わたしたちには何かまさったところがあるのか。絶対にない。ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にあることを、わたしたちはすでに指摘した。 3:10 次のように書いてある、/「義人はいない、ひとりもいない。 3:11 悟りのある人はいない、/神を求める人はいない。 3:12 すべての人は迷い出て、/ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、/ひとりもいない。 3:13 彼らののどは、開いた墓であり、/彼らは、その舌で人を欺き、/彼らのくちびるには、まむしの毒があり、 3:14 彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。 3:15 彼らの足は、血を流すのに速く、 3:16 彼らの道には、破壊と悲惨とがある。 3:17 そして、彼らは平和の道を知らない。 3:18 彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。 3:19 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである。 3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。 3:21 しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。 3:22 それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。 3:23 すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、
3:24 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。 3:25 神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、 3:26 それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。 3:27 すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。 3:28 わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。 3:29 それとも、神はユダヤ人だけの神であろうか。また、異邦人の神であるのではないか。確かに、異邦人の神でもある。 3:30 まことに、神は唯一であって、割礼のある者を信仰によって義とし、また、無割礼の者をも信仰のゆえに義とされるのである。 3:31 すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである。
【新共同訳】 ロマ [ 3 ]
  3:1 では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。 3:2 それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。3:3 それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。 3:4 決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、/裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。 3:5 しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。3:6 決してそうではない。もしそうだとしたら、どうして神は世をお裁きになることができましょう。 3:7 またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。 3:8 それに、もしそうであれば、「善が生じるために悪をしよう」とも言えるのではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受けるのは当然です。 ◆正しい者は一人もいない 3:9 では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。 3:10 次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。 3:11 悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。 3:12 皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。 3:13 彼らののどは開いた墓のようであり、/彼らは舌で人を欺き、/その唇には蝮の毒がある。 3:14 口は、呪いと苦味で満ち、 3:15 足は血を流すのに速く、 3:16 その道には破壊と悲惨がある。 3:17 彼らは平和の道を知らない。 3:18 彼らの目には神への畏れがない。」 3:19 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。 3:20 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。 ◆信仰による義 3:21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。 3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。 3:23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。 3:25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。 3:26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。 3:27 では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。 3:28 なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。 3:29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。 3:30 実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。 3:31 それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。
【新改訳改訂第3版】 ロマ [ 3 ]
3:1 では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。割礼にどんな益があるのですか。
3:2 それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。 3:3 では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。 3:4 絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」と書いてあるとおりです。 3:5 しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。 3:6 絶対にそんなことはありません。もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。 3:7 でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。 3:8 「善を現すために、悪をしようではないか」と言ってはいけないのでしょうか──私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが。──もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。 3:9 では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。 3:10 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。 3:11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。 3:12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」 3:13 「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」 3:14 「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」 3:15 「彼らの足は血を流すのに速く、 3:16 彼らの道には破壊と悲惨がある。 3:17 また、彼らは平和の道を知らない。」 3:18 「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」 3:19 さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。 3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。 3:21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。 3:22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。 3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。 3:25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。 3:26 それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。 3:27 それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。 3:28 人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。 3:29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。 3:30 神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。 3:31 それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。
【リビング・バイブル】 ロマ [ 3 ]
3:1 では、ユダヤ人であることに、どういう利点があるのでしょう。 彼らには何か特典があるでしょうか。 ユダヤ人の割礼の儀式に、価値があるのでしょうか。 3:2 もちろんです。 ユダヤ人であることには、多くの利点があります。 まず第一に、神様はユダヤ人に自分のおきてをおゆだねになりました。 〔それは、彼らに神様の御心を知らせ、それを実行させるためでした。〕 3:3 確かに、ユダヤ人の中には不忠実な者がいました。しかし、一部の不忠実な者が神様との約束を破ったからといって、神様も約束を破るでしょうか。 3:4 絶対にそんなことはありません。たとい世界中の人がうそつきでも、神様は違います。 このことについて、旧約聖書の詩篇には「神様のことばに誤りはない。 だれが疑いを差しはさもうと、いつも真実で正しい」と書いてあります。 3:5 ところが、こんなふうに主張する人がいます。 「でも、私たちの神様に対する不忠実は、むしろよかったのではありませんか。 私たちの罪は、かえって目的にかなうのではないでしょうか。 なぜなら、人々は、私たちがどんなに悪い人間であるかを見て、神様がどんなに正しい方であるかに、気づくでしょうから。 すると、私たちの罪が神様の役に立っているのに、罰せられるのは、不公平ではありませんか。」 〔ある人々はこんな理屈をこねるのです。〕 3:6 とんでもない! 罪を見過ごすような神様があるでしょうか。 そんなことで、神様はどうして人をさばけるでしょう。 3:7 たとえば、もし、私がうそをついたとします。 それと対照的に神の真実がはっきりと際立ち、私の不真実が、かえって神様の栄光を輝かすとしたら、神様は私を罪人としてさばき、有罪の判決を下すことなどできなくなってしまいます。 3:8 このような論理を突きつめてゆくと、最後には、「私たちが悪ければ悪いほど、神様には好都合だ」ということになってしまいます。 しかし、こんなことを言う人がきびしく罰せられるのは当然です。 ところが、事もあろうに、私がそのように説教していると言いはる人々がいるのです。 3:9 それでは、私たちユダヤ人は、ほかの人々よりすぐれているのでしょうか。 いいえ、絶対にそんなことはありません。 すでに指摘したように、ユダヤ人であろうと外国人であろうと、みな同様に罪人です。 3:10 旧約聖書に、次のように書いてあるとおりです。 「正しい人は一人もいない。 罪のない人は世界中に一人もいない。 3:11 真実に神の道に従って歩んだ人はかつて一人もいない。 そうしたいと心から願った人さえいない。 3:12 すべての人が道を踏みはずし、 みな、まちがった方向に進んで行った。 正しいことをずっと行なってきた人は どこにもいない。 一人もいない。」 3:13 「彼らの会話は、不潔で腐っており、 まるで開いた墓穴からもれる悪臭のようだ。
彼らの舌はうそで固められている。」 「彼らのことばには、 恐ろしじ蛇のきばと毒がある。」 3:14 「彼らの口は、のろいと苦々しいことばで満ちている。」 3:15 「彼らは自分と意見の合わない人を憎み、 すぐに殺す。 3:16 彼らの行く所ではどこでも、 悲惨な結果とめんどうな問題があとを絶たない。 3:17 彼らは一度も心の安らぎを感じたことがなく、 神の祝福を味わったこともない。」 3:18 「彼らには、 神を恐れて悪事から遠ざかろうとする気持ちなど、 少しもない。」 3:19 そんなわけで、神様のさばきが、ユダヤ人に重々しくのしかかっています。 なぜなら、彼らは神様のおきてを守る責任があるのに、守らず、こうした悪事にふけっているからです。 彼らのうち一人として、申し開きのできる者はいません。 事実、全世界が全能の神様の前に沈黙して立ち、有罪の宣告を受けているのです。 3:20 さて、おわかりでしょうか。 おきての命じることを実行して、神様に正しい者と認められようとしてもむだです。 私たちが神様のおきてを深く知れば知るほど、自分が従っていないことが明らかになるからです。 神様のおきては、私たちに、自分が罪人であることを自覚させてくれるだけです。 3:21 -22しかし今や、神様は、天国へ行く別の道を示してくださいました。 その新しこは、「善人になる」とか、神様のおきてを守ろうと努力するような道ではありません〔とはいっても、この道については、ずっと前から旧約聖書で教えられていたのですから、実際には新しことは言えませんが〕。 神様は今、「もし私たちが、イエス・キリストを信じきるなら、あなたがたを受け入れ、『罪のない者』と宣言する」と言われます。 どんな人間であろうと、私たちはみな、キリストを信じきるという、この方法によって救われるのです。 3:23 そうです。 すべての人は罪を犯しました。 神の輝かしい標準にはほど遠い存在です。 3:24 けれども、もし私たちがキリスト・イエスを信じきるなら、神様は私たちを「罪のない者」と宣言してくださいます。 このキリスト・イエスが、恵みにより、無償で私たちの罪を帳消しにしてくださるからです。 3:25 神様はキリスト・イエスを遣わして、私たちの罪のための刑罰を受けさせ、私たちへの怒りをとどめてくださいました。 神様は、私たちをご自分の怒りから救い出すための手段として、キリスト様の血と私たちの信仰とをお用いになりました。 ですから、それまでの時代に罪を犯した者たちを罰せられなかったとしても、神様は完全に公正であられたわけです。 キリスト様が来て人々の罪を取り除く時を、神様は待ち望んでおられたからです。 3:26 そして今日でも、神様はこの同じ方法で罪人を受け入れてくださいます。 イエス様が彼らの罪を帳消しにしてくださったからです。 しかし、このように、罪を犯した者を赦し、無罪を宣告するのは、神様の公正なやり方に反するのではないでしょうか。 いいえ、そんなことはありません。 なぜなら、彼らが自分の罪を帳消しにしてくださったイエス様を信じたという事実に基づいて、神様はそうなさるからです。 3:27 それでは、救われるために、私たちは何か誇れるようなことをしたでしょうか。 何もしていません。 なぜでしょう。 私たちは自分の善行によって無罪とされるのではないからです。 それは、キリスト様が成し遂げてくださったことと、キリスト様に対する私たちの信仰に基づいているのです。 3:28 つまり、私たちが救われるのは、キリスト様を信じる信仰だけによるのであって、善行によるのではありません。 3:29 神様はこの方法で、ユダヤ人だけをお救いになるのでしょうか。 いいえ、それ以外の外国人も、同じようにして神様のもとに行くことができます。 3:30 神様はすべての人を全く平等に取り扱われます。ユダヤ人であろうと外国人であろうと、人はみな、信仰があれば無罪とされるのです。 3:31 それでは、信仰によって救われるのなら、もはや神様のおきてに従う必要はないことになるのでしょうか。 正反対です。 実のところ、私たちはイエス様を信じきってこそ、ほんとうに神様に従うことができるのです。

月曜日   みなされた義
参考   (聖書の達人2008聖書辞典)
■ぎ 義 〈ヘ〉ツェダーカー,ツェデク,〈ギ〉ディカイオシュネー.ギリシヤ語のディカイオシュネーは,「神の律法と人の定めた基準に合うこと,また,それに従って生活すること」という意味に用いられている.ヘブル語のツェデクは王の政治や裁判から一般の社会生活の倫理に至るあらゆる面での「正しさ」という意味でも用いられているが,その根拠には常に「神の義」が関連している.
  1.旧約聖書における義.旧約の中の〈ヘ〉ツェダーカーは常に神の本質と関連して用いられている.全能の神は「義に富む神」として現され(ヨブ37:23),また人は自分の「造り主に義を返す」べきものとされている(ヨブ36:3).義は神の主権に関して用いられ,詩篇において「義と公正は,あなたの王座の基」とたたえられ,「高くそびえる山のよう」であり,「天にまで届き」,他に比類のないものとして歌われている(詩36:6,71:19,89:14).この義は社会状況の変化によって変る相対的な基準としてではなく,神の本質のように「永遠の義」であり,その「さとしは,とこしえに義」なるものとして「子らの子に及ぶ」と言われる(詩103:17,119:142,144).このように神は万物の創造者であるがゆえに,義の創始者でもある.義は神の本質であり,その属性の中に現されている.神は「わたしの義」と称して義の観念が神固有のものであり,不変の規範であることを明らかにしている(イザ51:1,5‐6).ヘブル語のツェデクは「正しい」とも訳され,イスラエル民族に神の律法が与えられる以前にも,人間生活の基準として用いられている.神はノアについて「わたしの前に正しい」者と言い,ヨブについても「正しく,神を恐れる」者と認めている(創7:1,ヨブ1:8.参照エゼ14:14,20).人間が「正しさ」や「義」を持つことができるのは,万物の創造に当って神が人間を御自身の「かたち」に造られたからである(創1:26‐27,2:7,5:1).また,この神の本性は世界の創造以来,被造物の秩序の中にも明らかにされているのである(ロマ1:20).したがって,人間は創造主である神の意志にそって生きる時,神の義にかなうものと認められるのである.しかし人間は自由意志によって神の意志に反した行動をとり,神の義によってさばかれ,原義を欠く者となり,以後神から離反した生活を営むようになった(創3章).この一連の事柄の中で神の義は,「してよい」と「してはならない」という基準によって示されている(創2:16‐17).人間は神に似せて「神のかたち」に造られた時点から,先験的な規範として「しなければならない」という概念を持っている.この基準は人間の行為のよりどころである以前に,神と人間との人格的な交わりの基礎である.そういうわけで聖書における神の救いの計画は,神と人間との本来の交わりの回復を目的として展開する.その中において神の義は2つの契約によって示される.古い契約は律法によって代表され,新しい契約は福音として与えられたが,いずれにおいても人間が神の前に義とされ,本来の神との交わりに立ち返ることを目的としている.  (1)律法による義.神の救済計画が具体化されるに当って,まずアブラハムが召し出され,その子孫からイスラエル民族が生れた.アブラハムとの契約に続きイスラエル民族との契約を結ぶに当って,神はこの民族の規範としての律法を与えられた.この民が律法を守る時神は祝福をもって報い,これに反する時には罰を与えることによって神の義が示された(出34:7).このようにして与えられた律法の頂点に十のことば(十戒)がおかれている(出20:2‐17).十のことばの前半は神と人とのいわば垂直的関係について,後半は人と人との水平的関係の規準を定めている.こうして神の義は,この民族の宗教行為から日常生活の全般にまでわたるおきて,戒め,定めの中に反映している.そういう意味で義は,生活の道具としてのはかり,升,物指しなどの正しさ(〈ヘ〉ツェデク)にも求められている(レビ19:35‐36).しかし律法が生活の基準として与えられていることと,それを実行することとの間にはかなりの距離がある.神の義は報奨としての祝福と,違反に対する懲罰として示されているが,この民は律法を守ることができず,しばしばさばきを受けることになった.  (2)預言者と神の義.この離反した民に,神の代弁者として派遣され,神への復帰を勧告したのは預言者である.預言者たちのメッセージにおいて,神の義は罪を犯した者を罰するものとして表されていると同時に,同じ義が救いと回復を提示するようになる(イザ50:5‐7,59:16).預言者は「正義の神,救い主」を示し,「イスラエルの子孫はみな,主によって義とされ,誇る」と預言する(イザ45:19‐21,25).この救い主としての神の義は,苦難のしもべのメシヤ預言の中に表されている(イザ53:11).「義をもって世界をさばき,その真実をもって国々の民をさばかれる」(詩96:13)神は,同じ義によってイスラエル民族の回復と共に,全世界の人々に及ぶ救いの道を明らかにする(イザ45:22,49:6).この救いの方法はイエス・キリストの受肉によって具体化された.  2.新約聖書における義.新しい契約において神の義は律法とは別に,しかも律法と預言の確立と成就として福音の中に表された.福音とは,神が御自身の義にもとることなく,不義な人間を,キリスト・イエスの贖いのゆえに義と認める神の恵みである(ロマ3:24,26).新約において神の義は,「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」として表され,「すべて信じる人に与えられる」もので,そこには何の差別もない(ロマ3:22).「その義は,信仰に始まり信仰に進ませる」原動力を伴い,罪深い人間を「信仰によって」義人とする(ロマ1:17,ガラ3:11).こうしてイエス・キリストによってもたらされた福音においては律法の背後に神を閉じ込めて「文字(律法)に仕える」のではなく,愛による信頼関係において神に仕える道が開かれたのである(ロマ2:27,7:6,Ⅱコリ3:6).人はだれでも,キリストを仲立ちとして神を信じ,その信仰によって義と認められるのである.公正な審判者としての神は罪人である人間の処罰を,キリストの身代りによる十字架刑として執行された.この「一つの義の行為」(ロマ5:18)に贖罪と義認の根拠がある.  新しい契約においては,神の義と共に,神の愛がその動機として示されている.神が「そのひとり子をお与えになった」のは「御子を信じる者が,ひとりとして滅びることなく,永遠のいのちを持つためである」ことが明らかである(ヨハ3:16).こうして神の義は十字架によるさばきとして現されると共に,その行為の動機は神の愛であることが示された.律法を守ることができないために律法によっては義とされることのない人間は,神のあわれみと恵みによって,信仰によって義と認められることになった.この人格的な応答は,キリスト者を霊とまことによって礼拝する者にまで高め,キリストと有機的に結ばれることにより,実際に神の義を現すものとなることを含んでいる.この世に対してキリスト者は,光の子として神の義を反映し,キリストの徳を現す実を結び,善意と正義(〈ギ〉ディカイオシュネー)と真実において救いを実証する者とされる(エペ5:9).新約聖書の中で,義人であると自認していたパリサイ人は,イエス・キリストのきびしい非難を受けている.律法学者の質問に応じてイエスは,旧約の律法を2点に集約し,「あなたの神である主を愛せよ」と「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という2点を実行すれば,いのちを得ることができると言われた.しかし,律法の専門家は「隣人とは,だれのことか」と反論する.このように問題の中心から離れ,むなしい論議に走る律法学者に,イエスは良きサマリヤ人のたとえを語り,「あなたも行って同じようにしなさい」と命じられた.人の義がいかにむなしいものであるかを示す例である(ルカ10:25‐37).後に使徒パウロはこの律法の要約を引用し,「他の人を愛する者は,律法を完全に守っている」と宣言し,「それゆえ,愛は律法を全うします」と言って福音の特質を述べている(ロマ13:8‐10).  こうして,信仰によって義と認められたキリスト者は,常に神の国と神の義(〈ギ〉ディカイオシュネー)を求めて生きる者となり,究極的な神の国の到来を祈り求める(マタ6:10,33).神はキリスト・イエスによって義による支配を始められたが,やがてそれが地上に実現することを約束しておられる.新生によって神の再創造にあずかったキリスト者は,「滅びて行く古い人を脱ぎ捨て……心の霊において新しくされ,真理に基づく義(〈ギ〉ディカイオシュネー)と聖をもって神にかたどり造り出された,新しい人を身に着るべきこと」を教えられている(エペ4:22‐24).これは原義への復帰の道である.このように「義の道」(Ⅱペテ2:21)を知った者は,義のために苦しむことがあるとしても(Ⅰペテ3:14),これを祝福として受け止め,さらに義を追い求め,救いの完成を目指すのである.  神の義は終局における審判を予表すると共に,「正義の住む新しい天と新しい地」の導入を約束している(Ⅱペテ3:13).これはキリストの再臨によって実現する祝福された望みである(テト2:13).
  〔参考文献〕『神学事典』聖書図書刊行会,1972;Orr, J. ed., The International Standard BibleEncyclopaedia, Eerdmans, 1957.(佐布正義)
問2
【口語訳】 ロマ 4:1-7
4:1 それでは、肉によるわたしたちの先祖アブラハムの場合については、なんと言ったらよいか。
4:2 もしアブラハムが、その行いによって義とされたのであれば、彼は誇ることができよう。しかし、神のみまえでは、できない。4:3 なぜなら、聖書はなんと言っているか、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」とある。 4:4 いったい、働く人に対する報酬は、恩恵としてではなく、当然の支払いとして認められる。 4:5 しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。 4:6 ダビデもまた、行いがなくても神に義と認められた人の幸福について、次のように言っている、 4:7 「不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、/さいわいである。 【新共同訳】 ロマ 4 :1-7
4:1 では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。 4:2 もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。 4:3 聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。 4:4 ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。 4:5 しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。 4:6 同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。 4:7 「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、/幸いである。 【新共同訳】 ロマ 4:1-7
4:1 では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。 4:2 もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。 4:3 聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。 4:4 ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。 4:5 しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。 4:6 同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。 4:7 「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、/幸いである。 【新改訳改訂3】 ロマ 4:1-7
4:1 それでは、肉による私たちの父祖アブラハムの場合は、どうでしょうか。 4:2 もしアブラハムが行いによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。 4:3 聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」とあります。 4:4 働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。 4:5 何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。 4:6 ダビデもまた、行いとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。 4:7 「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。 【リビング・バイブル】 ロマ 4:1-7
4:1 -2この問題について、アブラハムの場合を考えてみましょう。 アブラハムは、人間的に見れば、私たちユダヤ民族の先祖にあたります。 信仰によって救われる問題について、彼はどんな経験をしたでしょうか。 彼が神様に受け入れられたのは、良い行ないをしたからでしょうか。 もしそうなら、彼は誇れたはずです。 しかし、神様の目から見ると、アブラハムには、誇る理由などみじんもありませんでした。 4:3 というのは、旧約聖書に「アブラハムは神様を信じた。 だから、神様はアブラハムの罪を帳消しにして、『罪のない者』と宣言された」と書いてあるからです。 4:4 -5しかし、アブラハムが天国に行く資格を得たのは、良いことをしたからではないでしょうか。 違います。 救いは贈り物として与えられるものだからです。 もし善行によって救われるとすれば、もはや無料ではなくなってしまいます。 ところが、救いは無料なのです。 救いは、自分の力で手に入れようとしない人にこそ与えられます。なぜなら、罪人が、キリスト様は自分を神様の怒りから救い出してくださると信じきる時に、神様は彼らを、正しい者と宣言してくださるからです。 4:6 ダビデ王は、救われる値打のない罪人が、神様から「罪のない者」と宣言される幸いについて、こう言っています。 4:7 「罪を赦された者、罪をすっかり消された者は、 なんと幸いだろう。
注解   (聖書の達人2008聖書注解)
 1節.パウロは,信仰によって義とされた実例としてアブラハムを取り上げる.これはユダヤ人に衝撃を与えるものであったが,それだけに効果的な方法であった.ユダヤ人は,アブラハムの子孫であることを誇りとしていた.そして,その父祖アブラハムと彼らを結び付ける絆は割礼にほかならないと考えていた.これに対してパウロは,アブラハムを義としたのは,彼の割礼ではないこと,また彼の良い行いでもないことを以下で論証する 2節.〈もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら,彼は誇ることができます〉.ユダヤ人がそのように思い込んでいたとしても,〈神の御前では,そうではありません〉.なぜなら,義と認めるのは神であって,その神の御言葉である聖書はそのように記していないからである 3節.〈聖書は何と言っていますか〉.ここで創15:6が引用される.〈それでアブラハムは神を信じた.それが彼の義とみなされた〉.神はアブラハムに約束を与えられた.アブラハムは,その約束の言葉を信じた.神はそのアブラハムの信仰を義と認められた.その「信仰によって」義と認められたのであって,彼の良い行いあるいは割礼が神の前にアブラハムの義となったのではないのである 4節.パウロはこの点を明らかにするために,働く者が当然の権利として受け取る賃金と,働けない者に与えられる贈り物との違いを例に引く.恵みはただで受けるものであって,働いて稼ぐものではない 5節.アブラハムの義は,働きの報酬として与えられたものではなく,信仰によって与えられた恵みである.〈何の働きもない者が,不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら,その信仰が義とみなされるのです〉.神の前では,アブラハムも〈何の働きもない者〉の1人にすぎない.そればかりでなく,〈不敬虔な者〉の1人でもある.従って,信仰が功績として評価されて義とされるわけではない.信仰によって神が義を恩恵として与えて下さるということである 6‐8節.パウロはこのことを,アブラハムだけでなく,ダビデの言葉の中にも見る.引用されるのは詩32:1‐2である.ダビデは〈行ないとは別の道で〉(文字通りには「行いを離れて」),〈神によって義と認められる〉(6)人の幸いを語っている.ここでパウロは義の転嫁について述べているのである.ダビデはアブラハムと双璧をなすイスラエルの代表的人物である.ダビデは,〈不法を赦され,罪をおおわれた人たち〉(7),〈主が罪を認めない人〉(8)の幸いを語る.義とされることは,不敬虔な者が,不敬虔でありながら,その不法を赦され,赦されるだけでなく,その罪を覆われて,主が罪を認めない幸いの中に置かれることであり,最高の幸いを受けることである.ダビデも,〈行ないとは別の道〉すなわち恵みの道によって義とされる者の幸いを語っているのである

火曜日   律法とは別に
問3
【口語訳】 ロマ 3:21-31
3:21 しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。 3:22 それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。 3:23 すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、 3:24 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。 3:25 神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、 3:26 それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。 3:27 すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。 3:28 わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。 3:29 それとも、神はユダヤ人だけの神であろうか。また、異邦人の神であるのではないか。確かに、異邦人の神でもある。 3:30 まことに、神は唯一であって、割礼のある者を信仰によって義とし、また、無割礼の者をも信仰のゆえに義とされるのである。 3:31 すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである。 【新共同訳】 ロマ 3:21-31
3:21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。 3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。 3:23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。 3:25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。 3:26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。 3:27 では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。 3:28 なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではな

댓글목록

김형수님의 댓글

김형수 작성일

이런저런 핑계로 꾸준하게 게시하지 못하고 있습니다만,
혹시라도 일본어 교과 필요하신 분에게 도움이 될까해서 올립니다.


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