第11課 霊の結ぶ実は義 > 교과토의 자료

본문 바로가기

운영진
x


교과토의 자료 보기

교과토의 자료

第11課 霊の結ぶ実は義

페이지 정보

작성자 나도람 작성일10-02-28 11:27 조회3,197회 댓글0건

첨부파일

본문

第11課 霊の結ぶ実は義

暗唱聖句
【口語訳】 マタ 5:6 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
【新共同訳】 マタ 5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
【新改訳改訂第3版】 マタ 5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。
【リビング・バイブル】 マタ 5:6 神の前に、正しく良い者になりたいと心から願っている人は幸福です。 そういう人の願いは完全にかなえられるからです。<NKJV> Mat 5:6 Blessed are those who hunger and thirst for righteousness,For they shall be filled.
<KJV> Mat 5:6 Blessed are they which do hunger and thirst after righteousness: for they shall be filled.
<NIV> Mat 5:6 Blessed are those who hunger and thirst for righteousness, / for they will be filled.
<TEV> Mat 5:6 "Happy are those whose greatest desire is to do what God requires; /God will satisfy them fully!
J-ばいぶるGREEK 原書講読画面Mat 5:6
maka,rioi oi` peinw/ntej kai. diyw/ntej th.n dikaiosu,nhn( o[ti auvtoi. cortasqh,sontai)
@1# maka,rioj maka,rioi   a--nm-p 形)主男複 幸いな
@2# o` oi` dnmp+ 冠)主男 冠詞(この、その)
@3# peina,w peinw/ntej  vppanm-p 分)現能主男複 飢える
@4# kai, kai.   cc 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば
@5# diya,w diyw/ntej    vppanm-p 分)現能主男複 渇く
@6# o` th.n   dafs 冠)対女複 冠詞(この、その)
@7# dikaiosu,nh dikaiosu,nhn(    n-af-s 名)対女単 正しさ、義
@8# o[ti o[ti    cs 接)従 ~と、なぜなら
@9# auvto,j auvtoi   . npnm3p 代)主男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに
@10# corta,zw cortasqh,sontai)    vifp--3p 動)直未来受3複 満ち足りる

安息日午後   今週のテーマ
*霊の結ぶ9つの実
【口語訳】 ガラ 5:22.23
5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、 5:23 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。【新共同訳】 ガラ 5:22.23
5:22 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 5:23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。【新改訳改訂3】 ガラ 5:22.23
5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。【リビング・バイブル】 ガラ 5:22.23
5:22 しかし、聖霊様が生活を支配してくださる時、私たちのうちに、次のような実を結んでくださいます。 それは、愛、喜び、平安、忍耐、親切、善意、誠実、 5:23 柔和、自制です。 そこには、ユダヤ教のおきてに反するものは何もありません。*もう二つの実
【口語訳】 エペ 5:9 光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである――
【新共同訳】 エフェ 5:9 ――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――
【新改訳改訂第3版】 エペ 5:9 ──光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです──
【リビング・バイブル】 エペ 5:9 内面がこの光で輝いているのですから、良いこと、正しいこと、真実なことだけを行なうべきです。
日曜日  義の必要性
問1
【口語訳】 ロマ 3:28 わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。
【新共同訳】 ロマ 3:28 なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。
【新改訳改訂第3版】 ロマ 3:28 人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。
【リビング・バイブル】 ロマ 3:28 つまり、私たちが救われるのは、キリスト様を信じる信仰だけによるのであって、善行によるのではありません。注解   (聖書の達人2聖書注解)
28節の〈私たちの考え〉は,21‐27節で論じられてきた,〈人が義と認められるのは,律法の行ないによるのではなく,信仰による〉(28)という聖書の一貫して主張する恩恵である.行いは自己肯定に結び付き,信仰は自己否定に結び付く.信仰の原理は,神の行為に目を向けさせる.ルターは,「信仰のみによる」と,「のみ」を付け加えることによってこの節の意味をより鮮明に示したと言えよう
【口語訳】 詩 11:7 主は正しくいまして、正しい事を愛されるからである。直き者は主のみ顔を仰ぎ見るであろう。
【新共同訳】 詩 11:7 主は正しくいまし、恵みの業を愛し/御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる。
【新改訳改訂第3版】 詩 11:7 【主】は正しく、正義を愛される。直ぐな人は、御顔を仰ぎ見る。
【リビング・バイブル】 詩 11:7 神様は正しく、正義を愛します。 信心深い者はその御顔を拝することができるでしょう。注解   (聖書の達人2聖書注解)
7節.〈正義を愛される〉主がおられるという確信が信仰者に正しいことを行わせる.〈御顔を仰ぎ見る〉という見通しを与えられる.主なる神は正しい裁判官として正しい者の顔を上に向けて下さる(黙22:11) 迫害の中でダビデは恐れることなく主に喜ばれる道を選び歩み続けた
【口語訳】 箴 15:9 悪しき者の道は主に憎まれ、正義を求める者は彼に愛せられる。
【新共同訳】 箴 15:9 主は逆らう者の道をいとい/従うことを求める人を愛される。
【新改訳改訂第3版】 箴 15:9 【主】は悪者の行いを忌みきらい、義を追い求める者を愛する。
【リビング・バイブル】 箴 15:9 -10神様は悪人の行ないをきらい、正しく生きようとする人を愛します。 しかし中途で心変わりしたら、きびしい罰が待っています。素直に罰を受けなければ死ぬだけです。注解   (聖書の達人2聖書注解)
前節と同様,主は行いそのものよりも心の態度を問題にされる.
【口語訳】 一ペテ 2:24 さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。
【新共同訳】 一ペト 2:24 そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。
【新改訳改訂第3版】 Ⅰペテ 2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
【リビング・バイブル】 Ⅰペテ 2:24 キリスト様は、自分の体に私たちの罪を負い、十字架上で死んでくださいました。 そのおかげで、私たちは、罪ときっぱり手を切り、正しい生活を始めることができたのです。 キリスト様が傷つくことによって、私たちの傷が治ったのです。注解   (聖書の達人2聖書注解)
24〈打ち傷〉.しもべたちもむちによる傷を受けるので,キリストとの一体を見事に覚えさせると共に,キリストの救いの恵みをも諭す
【口語訳】 ロマ 8:4 これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。
【新共同訳】 ロマ 8:4 それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。
【新改訳改訂第3版】 ロマ 8:4 それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。
【リビング・バイブル】 ロマ 8:4 ですから、今や私たちは、聖霊様に従って歩むなら、神様のおきてに従えるのです。 そしてもはや、古い邪悪な性質の言いなりになることもありません。注解   (聖書の達人2聖書注解)
4節.この節で言われる〈律法の要求が全うされる〉ことは,キリストにおいて全うされた律法の要求のことではなく,キリスト者の中に御霊によって全うされる律法の要求を指す.これは,〈御霊に従って歩む私たちの中に〉もたらされるものであり,〈肉に従って歩ま〉ない者に約束されている恩恵である
【口語訳】 マタ 6:33 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
【新共同訳】 マタ 6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
【新改訳改訂第3版】 マタ 6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
【リビング・バイブル】 マタ 6:33 神を第一とし、神が望まれるとおりの生活をしなさい。 そうすれば、必要なものは、神が与えてくださいます。注解   (聖書の達人2聖書注解)
〈神の国とその義〉(33),つまり神の支配の内にあること,神の御心にかなっていることこそ重要であることに気付く.そして神と正しい関係にあるなら,本当に必要なものは備えられていく.
【口語訳】 一ヨハ 2:29 彼の義なるかたであることがわかれば、義を行う者はみな彼から生れたものであることを、知るであろう。
【新共同訳】 一ヨハ 2:29 あなたがたは、御子が正しい方だと知っているなら、義を行う者も皆、神から生まれていることが分かるはずです。
【新改訳改訂第3版】 Ⅰヨハ 2:29 もしあなたがたが、神は正しい方であると知っているなら、義を行う者がみな神から生まれたこともわかるはずです。
【リビング・バイブル】 Ⅰヨハ 2:29 私たちは、神様が正しい方であり、正しいことだけを行なわれると知っています。 ですから、正しい行ないをする者はみな、神様の子供だと判断できるのです。注解   (聖書の達人2聖書注解)
まず2:29に〈神の子ども〉とは〈神から生まれた〉者であることを見る.キリストは「肉によって生まれた者は肉です.御霊によって生まれた者は霊です」(ヨハ3:6)と言われた.〈神の子ども〉は肉によって生れた者ではなく,超自然的に御霊によって,すなわち〈神から生まれた〉者なのである

月曜日 DIY(自作)の義
問2
【口語訳】 ロマ 10:3 なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。
【新共同訳】 ロマ 10:3 なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。
【新改訳改訂第3版】 ロマ 10:3 というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。
【リビング・バイブル】 ロマ 10:3 というのも、彼らには、キリスト様が自分たちを神様の前に正しい者とするために死んでくださったことが、わかっていないからです。 そして、ユダヤ教のおきてや習慣を守ることによって、神様の祝福をいただける善良な人間になろうと、努力を重ねています。 しかし、神様はそんな方法でお救いになるのではありません。
注解  (聖書の達人2聖書注解)
この〈知識〉は,知性によって得られる思弁的知識(〈ギ〉グノーシス)ではなく,神の啓示に基づいて得られる知識(〈ギ〉エピグノーシス)である.神の御言葉の教理と言ってよい.正しい教理に基づかない熱心は,熱心を伴わない教理理解と同様に危険であり,排除されなければならない.パウロは,彼らの無知が,「神の義を知らないで,自分自身の義を立てる」ことにあると言う.自分の努力によって義を得ようとする彼らの試みは,神ご自身が差し出しておられる方法に従わないことである.すなわち,「神の義に従わない」ことである(3)
参考   (インターネット)
DIY(ディー・アイ・ワイ)は、専門業者に任せずに自らの手で生活空間をより快適に工事しようとする概念のこと。英語でDo It Yourself(ドゥ イット ユアセルフ)の略語で、「自身で作ろう」の意。多くは住居などの部分的な補修作業が主であるが、住宅全体の補修、更にはログハウスなどの小屋建て、果ては一般住宅の設計・建築までも含まれる。DIYは自らで出来ることであればその規模を問わないことから、日曜大工よりも広い概念だが、一般的にはほぼ同一とされる。現在では居住環境のみならず、一部の分野では自作パソコンまで指すこともある。また、DIYという言葉には「自身で作る」という考え方を広く生活態度そのものに適応させようとする精神性を指す場合もあり、「DIY精神」(DIY ethic)などとして、政治運動・社会運動や音楽業界などサブカルチャーに至る多様な文脈で論じられることがある。
*私たちの義は【口語訳】 イザ 64:6 われわれはみな汚れた人のようになり、われわれの正しい行いは、ことごとく汚れた衣のようである。われわれはみな木の葉のように枯れ、われわれの不義は風のようにわれわれを吹き去る。
【新共同訳】 イザ 64:5 わたしたちは皆、汚れた者となり/正しい業もすべて汚れた着物のようになった。わたしたちは皆、枯れ葉のようになり/わたしたちの悪は風のように/わたしたちを運び去った。
【新改訳改訂第3版】 イザ 64:6 私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。
【リビング・バイブル】 イザ 64:6 私たちはみな罪の毒に冒され、汚れきっています。 これこそ正義だという最上の着物をまとっても、悪臭を放つぼろきれにすぎません。 私たちは秋の木の葉のように色あせ、しおれて落ちます。 あえなく罪の風に吹き飛ばされるばかりです。問3
【口語訳】 マタ 5:20 わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。
【新共同訳】 マタ 5:20 言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」
【新改訳改訂第3版】 マタ 5:20 まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。
【リビング・バイブル】 マタ 5:20 よく聞きなさい。 パリサイ人や、ユダヤ人の指導者たちは、神のおきてを守っているのは自分たちだと言いはります。 だが、いいですか。 彼ら以上に正しくなければ、あなたがたは天国には入れません。注解   (聖書の達人2聖書注解)
〈もしあなたがたの義が,律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら,あなたがたは決して天の御国に,はいれ〉(20)ない.これは衝撃的である.〈律法学者〉は律法を中心としたユダヤ人の宗教生活の指導者であり,その多くはパリサイ派に属する.〈パリサイ人〉は律法学者の教えに従い,きちょうめんに律法を学び実践していた者たちである.もし義人と呼ぶべき者たちがいるとすれば,彼らこそそうであると考えられた.そうした彼らより優れた義を持つ必要があると言う.これは更に律法主義的な生き方をせよということではない.むしろ彼らに欠けていた,砕かれた心を持つことであり(3,21:28以下),自分の無力を認め神のあわれみにより頼むことであり(18:3),その結果自らもあわれみ深く変えられていくことである(9'be:13,12:7).弟子たちは律法の目指すものを,律法主義とは別の道筋を通って実現していくのである
【口語訳】 マタ 23:25-28
23:25 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。杯と皿との外側はきよめるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている。 23:26 盲目なパリサイ人よ。まず、杯の内側をきよめるがよい。そうすれば、外側も清くなるであろう。 23:27 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。 23:28 このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。【新共同訳】 マタ 23:25-28
23:25 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。 23:26 ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。 23:27 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。 23:28 このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。【新改訳改訂3】 マタ 23:25-28
23:25 わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。 23:26 目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。 23:27 わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。 23:28 そのように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。【リビング・バイブル】 マタ 23:25-28
23:25 いまわしい人たちよ。 パリサイ人、ユダヤ教の指導者たち。 あなたがたは偽善者です。 杯の外側はきれいにみがき上げるが、内側はゆすりと貪欲で汚れきっています。 23:26 目の見えないパリサイ人たち。 まず杯の内側をきれいにしなさい。 そうすれば、杯全体がきれいになるのです。
23:27 いまわしい人たちよ。 パリサイ人、ユダヤ教の指導者たち。 あなたがたは美しく塗り立てた墓のようです。 外側がどんなにきれいでも、中は死人の骨や汚らわしいもの、腐ったものでいっぱいなのです。 23:28 自分を聖人らしく見せようとしているが、その信仰深そうな外見とは裏腹に、心の中はあらゆる偽善と罪で汚れているのです。注解   (聖書の達人2聖書注解)
第5に〈杯や皿の外側〉(25)は几帳面にきよめながら,それで不当に得たものを贅沢に飲み食いしている.それも彼らには見えていない.心の内側をきよめれば外側のきよさはそれに伴う.外側と内側のギャップは,続く27‐28節でも説明される.墓に触れる者は7日間汚れるので(民19:16),祭に上って来る巡礼が過って墓に触れないよう,道端の墓は白く塗られた.しかし,外側は美しくなっても内側の汚れはなくならない.彼らは,そのような墓と似ている
参考   (聖書の達人2聖書辞典)
■パリサイ派
1.起源と名称.新約時代の主要な一派であるサドカイ派とパリサイ派については,ユダヤ人の歴史家ヨセフォスからおもな情報が得られる.ユダヤは前2世紀の初頭にセレウコス王朝の支配下に入れられた.アンティオコス4世エピファネス王によるエルサレム占領(前168年)に対し,ハスモン(マカベア)家のマッタティアスが対抗し,マカベア戦争が勃発した(前167年).ユダ・マッカバイオスがエルサレムを回復する(前165年)と共に,ハスモン家の支配が確立し,ユダヤ教は新しい段階に入る.パリサイ派の運動の起源は明らかでないが,この時代の中下層の手工業者の間の熱心な律法研究家を中心に起ったものと考えられる.ある人々は彼らの先駆者としてマカベア戦争初期のハシディーム派(敬虔主義者)の人々とつながりがあると考える.彼らは,祭司階級が律法の教師であることと,民の指導者であることにおいて独占的になろうとする傾向に歯止めをかけた.ハスモン家は祭司であり,彼らによってエルサレムの神殿が回復されたのであるから,その勢力は絶大であった.パリサイ派の台頭によって,祭司階級から形成されているサドカイ派との間にバランスが保たれるようになる.この2派の関係を対立抗争と見るよりは,エルサレム神殿の崩壊(紀元70年)までの約2世紀間,ユダヤは複雑な宗教と政治の党派間の動きを抱えながら推移していったと見るべきであろう.パリサイという名称の起源は不明である.「分離された者」を意味する〈ヘ〉パールーシュ(アラム語でペリシュ)に由来すると言われるが,それが何から分離するのかは明らかでない.一つの説明は,〈ヘ〉パールーシュは「聖」という語と共に用いられることがあるので,「聖徒」と同じ意味で用いられ,彼らがさまざまの汚れから自らを分離して,きよく身を保とうとしたというものである.サドカイ派が,エルサレム神殿の最初の大祭司ツァドクの名に結びつき,世襲の特権的な祭司階級に属する者であることを誇示したのに対し,パリサイ派の者は,身分は一般に高くなく,手工業などに従事する中流階級の者で,律法への服従の生活を何よりも大切なこととする個人の自覚に基づいて党派が形成されている.彼らの間からは偉大な学者が出たが,それは祭司のように世襲ではなく,個人的学識と徳の高さによって人々の尊敬を勝ち得たのである.祭司たちは神殿を中心に生活したが,パリサイ派は各地におり,その指導者は教師として会堂や学校で教えた.その分離主義は,クムラン宗団のような形をとらず,むしろ民の中にあって律法を守ったが,やがてその存在が社会的に認められるようになると,分離主義は柔軟性を帯び,神殿が崩壊する以前に,祭司階級の者がパリサイ派に加わることがあったと言われる.ハスモン家は最初はパリサイ派に好意的であったが,ヨハネ・ヒルカノス(前135―104年)および,アレクサンドロス・ヤンナエウス(前103―76年)が大祭司兼ユダヤの王となると,パリサイ派はこれに反対の立場をとった.アレクサンドロスの死後の王位継承を巡る争いの中でパリサイ派は再び影響力を発揮した.ヘロデ時代(前36年以降),パリサイ派の政治的影響力は低下するが,この派に属する者の数は増え,主イエスの時代にはユダヤ最大のグループとなっていた. 2.特徴.(1)律法主義.パリサイ派の最大の特徴はその厳格な律法主義にある.彼らは律法を厳格に解釈し,それをできるだけ忠実に実行しようとした(ヨセフォス『ユダヤ戦記』1:5:2,2:8:14,『自伝』38,『ユダヤ古代誌』17:2:4).彼らの律法解釈はやがて複雑な体系となり,「父祖の伝承」として口伝を形成するようになる.反対者たちは,これを「律法に垣根を巡らす者」として非難した.彼らは儀式律法的なきよめをさまざまな形で実行した(マコ7:3‐4).彼らは,このような儀式的きよめの律法を守らない者を「地の民」(アム・ハアレツ)と呼んで軽蔑した.新約時代のユダヤ教の中には,エッセネ派やクムラン宗団のような厳格派がほかにも存在したが,主イエスの宣教において最大の敵となったのはこのパリサイ派の律法主義であった(マタ23:25). (2)先祖たちの言い伝えを守る.パリサイ派の特徴の第2は,その聖書解釈にある.それは「昔の先祖たちの言い伝えに従う」解釈である(マタ15:2,マコ7:3,5).サドカイ派は律法を文字通りに読んで理解する方法に従ったのに対し,パリサイ派は伝統の積み重ねによる解釈を重視した.もちろんサドカイ派の聖書解釈もそれ自身の伝統があると言える.それは,保守的,静的,固定的で,新しい条件に自由に適応できるものではなかった.それに比べ,パリサイ派の解釈は,新しい状況に適応しようとするものである.昔からの言い伝えの上に,新しい条件のもとでの解釈が加わるので,それはやがて膨大なものになった.彼らはまた,モーセの律法だけでなく,預言者の書と諸書をも含めた.律法を,預言者や諸書を含めて解釈することによって,律法の書だけに限定しようとするサドカイ派の狭い聖書解釈を防いだのである.律法主義,特に厳格な儀式的きよめと共に,律法に対して預言者による新しい光を当てて読むことによって,律法を新しい時代に適応しようとする姿勢は,クムラン宗団の姿勢と共通している.クムラン宗団のような分派と共に,パリサイ派の中でも,預言者の書によって触発されたメシヤ期待が相当強く見られるのである. (3)このようにパリサイ派が新しい時代に適応しようとする姿勢は,他の宗教からもいろいろな考えを取り入れる結果となり,ヨセフォスはこのようなパリサイ派を「合理主義者」と呼んでいる(『ユダヤ古代誌』18:1:3).彼らはその時代の進歩派であり,近代主義者であった.宗教的には,サドカイ派は伝統的な律法と習慣を重んじる保守派であり,パリサイ派はユダヤ教を,正統主義に従って,精神的にも実際的にも改革しようとする進歩派であると言える.しかしユダヤにおいて宗教と政治は切り離せない.サドカイ派は,ハスモン家を初め,その時代の政治勢力と結びついて政治的影響力を持とうとした.それに比較するとパリサイ派の方が非政治的であるが,彼らは決して隠遁派ではなかった.彼らも政治的には一種の圧力団体であったが,彼らの積極的な関心はユダヤ教の発展と進歩に向けられていた.彼らは,サドカイ派と違って広く民衆的基盤を持っていたために,ローマ軍によるエルサレム神殿破壊の後も生き残ることができたのである. 3.教理.パリサイ派の教理については,ヨセフォスの要約(『ユダヤ戦記』2:8:4),中間時代のパリサイ派の文書,新約聖書によって知ることができるが,後のラビ文学や偽典も含めなければならない.前60年頃の「ソロモンの詩篇」はパリサイ派の作者によるものである.そこにはパリサイ派のメシヤ期待が述べられている.ヨセフォスは,パリサイ派とサドカイ派はその教理においてことごとく対立し,パリサイ派が積極的に主張することはサドカイ派においては否定されると言っている.ヨセフォスは,ギリシヤ人のためにユダヤ史を書いた人物であるから,ギリシヤ風に分りやすく書こうとした.パリサイ派とサドカイ派がユダヤの社会で対立したことは事実であるが,しかし彼らはその対立のゆえにお互いに破門し合うようなことはなかった.パリサイ派の教理の要点は次の通りである.(1)神の摂理的支配の絶対性.彼らは,歴史が神の目的に従って統治され導かれていると信じる.サドカイ派はこれに対し,より多く個人の自由を主張する.(2)復活.パリサイ派は死後の復活と未来の生活を信じる.人はおのおのそのなしたところによって神の報いと罰を受ける.サドカイ派はシェオル(よみ)の教えに固執する.(3)御使い.パリサイ派は複雑な御使い論を教える.サドカイ派は否定する(使23:8).(4)終末論.パリサイ派は,自分たちが真のイスラエルであり,御使いによる神の啓示により,神と特別に近い関係を持っていると信じる.確かに,外国人によって支配されている現在の世には,苦難と悲惨があり,神の恵みは完全には現されていないが,やがて運命が転換し,油注がれたメシヤであるダビデの子孫が現れて,地上にダビデ王国の栄光が回復される.彼らが期待するのは地上のパラダイスであり,彼岸的なものではない.敬虔な者は復活して,このメシヤ時代の地上的光栄にあずかる.(5)メシヤ.メシヤは異邦人の支配を打ち破り,エルサレムとイスラエルから異邦人を追放する.そして彼らを追い払った後にイスラエルを回復する.イスラエルの部族は再び集められ,エルサレムは首都となる.神殿礼拝は再開される.異邦人は屈服し,貢を持ってやってくる.そしてイスラエルの神を拝するようになる. 4.新約時代のパリサイ派.ヨセフォスは,ヘロデ大王の時代に,パリサイ派の数は6千人であったと記している(『ユダヤ古代誌』17:2:4).ヨセフォスはヘロデの宮廷から直接資料を得ているから,これは正確な数である.それは厳密な意味でこの派に属している者の数であろう.しかし,パリサイ派の帰依者の数を入れると2万5千人に上るだろうと言われる.そのうち2万人はエルサレムに住んでいた.主イエスの時代,パリサイ派は依然として強い影響力を持っていた.しかしおそらく,前2―1世紀の頃のような勢力は失っていたであろう.エルサレム陥落直前のパリサイ派はすでにブルジョア階級であり,一般民衆との間には溝があった.主イエスは,このようなパリサイ派をきびしく批判している.
■律法学者 
新約聖書の中に現れる律法学者(〈ギ〉グラムマテュース)は多くの場合,祭司長やパリサイ人と並んで記されている(マタ12:38,15:1,マコ14:53).当時のユダヤ人社会は,祭司長の属するサドカイ人と,律法学者,パリサイ人によって指導されていた.イスラエルの人々は律法学者の支配的な影響により多かれ少なかれ律法を知るようになった.彼らは,学校やシナゴーグ(会堂),またそれぞれの家庭で子弟を教育した.それはイスラエル人がみな律法にかなう者となるためであった.彼らのこうした努力によって,ユダヤ人社会においては,一般の労働者に至るまで律法を知るようになり,またそれを実行した.ユダヤ人の宗教的生活は,こうした,伝統を守り先祖の言い伝えに熱心な律法学者の働きに負うところが大きい. ヘブル語でソーフェールという「書記」を仕事とする一群の人々があった.彼らがユダヤ人社会の指導層を形成するに至った契機は,一般にバビロン捕囚と見られている.前6世紀のエルサレム神殿の崩壊と,南王国ユダの滅亡により祖国を離れたユダヤ人は,居留地での宗教生活の中心に律法をおかざるを得なくなった.やがてシナゴーグが神殿にとってかわり,ユダヤ教の信仰と生活の中心的な役割を果すようになった.こうして律法を筆写し,注釈した人々が,律法学者という専門家の階級を生み出したのである.これらの学者の中で最も著名な教師はエズラである(エズ7:6).彼は元来,祭司でもあった.学者と言われる最初の人たちはこのような祭司であった.つまり初めは祭司が書記を務め,律法を守り,人々にもそれを教えた.やがて律法が人々に浸透していき,その重要性が認められるにつれて,律法学者も専門化していった.祭司と律法学者の分離を促したのはヘレニズム文化である.ギリシヤ時代に入ると,祭司は異教文化にひかれ,先祖の伝えた律法に対する関心が薄らいだ.逆に学者が台頭し始めた.彼らは祭司よりも伝承に対して熱心だったので,民衆に受け入れられて教師となった.キリストの時代には,これら2つの階級の区別が明確になっていた.律法の量はしだいに膨大なものとなり,その研究と解釈は重要な仕事と見なされるようになった.また,サドカイ派とパリサイ派の分立により,律法学者はパリサイ派に属するようになった.こうして律法学者は律法を解釈し,教え,民衆に生活の規範を与えたが,イエスは律法学者やパリサイ人をきびしく告発し,彼らを公然と非難した.彼らが律法の真意を見失っていたからである(ルカ6:6‐11等).

火曜日  私たちの義、キリスト(ロマ5:17)
問4
【口語訳】 ロマ 5:17-19
5:17 もし、ひとりの罪過によって、そのひとりをとおして死が支配するに至ったとすれば、まして、あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている者たちは、ひとりのイエス・キリストをとおし、いのちにあって、さらに力強く支配するはずではないか。 5:18 このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。 5:19 すなわち、ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである。【新共同訳】 ロマ 5:17-19
5:17 一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。 5:18 そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。 5:19 一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。【新改訳改訂3】 ロマ 5:17-19
5:17 もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。 5:18 こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです。 5:19 すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。【リビング・バイブル】 ロマ 5:17-19
5:17 この一人の人アダムの罪により、死はすべての人を支配する王となりました。 しかし、神様から、罪の赦しと無罪放免という無代価の贈り物をいただく人はみな、この一人の人イエス・キリストによって、いのちの王となります。 5:18 そうです。 アダムの罪は、すべての人に刑罰をもたらしましたが、キリスト様の正しさは、人々を神様の前に正しい者とするのです。 それで、人々は生きることができるのです。 5:19 神様に従わなかったアダムは、多くの人を罪人にしましたが、神様にお従いしたキリスト様は、多くの人を神様に受け入れられる者としてくださいました。注解   (聖書の達人2聖書注解)
第3の違いは,ひとりの人の違反によって,〈死が支配するようになった〉(17)のに対して,ひとりの人イエス・キリストにより〈いのちにあって支配する〉ことのうちに見られる.この命の支配は,普遍的なものではなく,〈恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々〉に特定される祝福である 18節.この節の原文には動詞がない.それだけに,1つの違反=すべての人の定罪,1つの義の行為=すべての人の生命への義認とが,鮮明なコントラストで描き出される.前半の〈すべての人〉と後半の〈すべての人〉は同一・同数の関係ではない.アダムとキリストがそれぞれ代表している者たちにもたらした対照的な結果━━罪に定められることと命へと義認されることとが対比される 19節.アダムの不従順とそれがもたらした結果,そして,キリストの従順とそれがもたらした結果とが対比される.キリストの従順は,罪人の義認のための完全な,徹底した従順であり,十字架の死に至るまでの従順であった(ピリ2:8).それによって,神に受け入れられる完全な義が得られ,その義が転嫁されることによって,〈多くの人が義人とされる〉
問5
【口語訳】 ガラ 3:6 このように、アブラハムは「神を信じた。それによって、彼は義と認められた」のである。
【新共同訳】 ガラ 3:6 それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。
【新改訳改訂第3版】 ガラ 3:6 アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。
【リビング・バイブル】 ガラ 3:6 アブラハムも同じ経験をしました。 彼は神様の約束を信じたというだけで、天国へ入る資格を与えられたのです。注解   (聖書の達人2聖書注解)
6 論敵も等しく模範,権威,基盤と認めるアブラハムは,律法の行いによってではなく(参照ロマ4:2),神を信じ,〈義とみなされ〉た(創15:6の70人訳,参照ロマ4:3以下,ヤコ2:23).〈義〉(〈ギ〉ディカイオシュネー).神との正しいあるべき関係
【口語訳】 ヤコブ 2:23 こうして、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」という聖書の言葉が成就し、そして、彼は「神の友」と唱えられたのである。
【新共同訳】 ヤコブ 2:23 「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
【新改訳改訂第3版】 ヤコブ 2:23 そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
【リビング・バイブル】 ヤコブ 2:23 ですから、「アブラハムは神様を信じた。 それで神様の目に正しい者と認められた」という旧約聖書のことばどおりとなり、彼は「神の友」と呼ばれるまでになったのです。注解   (聖書の達人2聖書注解)
 23 〈アブラハムは神を信じ,その信仰が彼の義とみなされた〉は創15:6の引用.この〈聖書のことば〉はイサクの生れる前にアブラハムが神の約束を信じた信仰について語っているが,約30年後に彼がイサクをささげた行いによってそれが〈実現し〉たとヤコブは主張する.これはイサクについての神の約束(創15:1‐5)が成就したことと見る見方もあるが,むしろ,彼の義と見なされたアブラハムの信仰がこの行いによって完全に表されたと見るほうが文脈に合っている.〈神の友〉はユダヤ教においてアブラハムに与えられていた称号で,彼がその信仰の故に神に喜ばれ,受け入れられたことを示している(参照Ⅱ歴20:7,イザ41:8)
*恵みを受ける価値があったとすればそれは恵みではなくなる
【口語訳】 ロマ 4:4 いったい、働く人に対する報酬は、恩恵としてではなく、当然の支払いとして認められる。
【新共同訳】 ロマ 4:4 ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。
【新改訳改訂第3版】 ロマ 4:4 働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。
【リビング・バイブル】 ロマ 4:4 -5しかし、アブラハムが天国に行く資格を得たのは、良いことをしたからではないでしょうか。 違います。 救いは贈り物として与えられるものだからです。 もし善行によって救われるとすれば、もはや無料ではなくなってしまいます。 ところが、救いは無料なのです。 救いは、自分の力で手に入れようとしない人にこそ与えられます。なぜなら、罪人が、キリスト様は自分を神様の怒りから救い出してくださると信じきる時に、神様は彼らを、正しい者と宣言してくださるからです。*自動的に与えられるものではない
【口語訳】 ロマ 5:17 もし、ひとりの罪過によって、そのひとりをとおして死が支配するに至ったとすれば、まして、あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている者たちは、ひとりのイエス・キリストをとおし、いのちにあって、さらに力強く支配するはずではないか。
【新共同訳】 ロマ 5:17 一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。
【新改訳改訂第3版】 ロマ 5:17 もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。
【リビング・バイブル】 ロマ 5:17 この一人の人アダムの罪により、死はすべての人を支配する王となりました。 しかし、神様から、罪の赦しと無罪放免という無代価の贈り物をいただく人はみな、この一人の人イエス・キリストによって、いのちの王となります。*信仰によって要求する人に与えられる
【口語訳】 ガラ 3:6 このように、アブラハムは「神を信じた。それによって、彼は義と認められた」のである。
【新共同訳】 ガラ 3:6 それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。
【新改訳改訂第3版】 ガラ 3:6 アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。
【リビング・バイブル】 ガラ 3:6 アブラハムも同じ経験をしました。 彼は神様の約束を信じたというだけで、天国へ入る資格を与えられたのです。
水曜日 義と服従 (ヨハⅠ2:9)
【口語訳】 一ヨハ 2:9 「光の中にいる」と言いながら、その兄弟を憎む者は、今なお、やみの中にいるのである。
【新共同訳】 一ヨハ 2:9 「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。
【新改訳改訂第3版】 Ⅰヨハ 2:9 光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。
【リビング・バイブル】 Ⅰヨハ 2:9 キリスト様の光の中を歩んでいると言いながら、仲間のクリスチャンを憎む人は、相変わらず暗やみにとどまるのです。*ヨハネの次のような言葉に注意
【口語訳】 一ヨハ 3:7 子たちよ。だれにも惑わされてはならない。彼が義人であると同様に、義を行う者は義人である。
【新共同訳】 一ヨハ 3:7 子たちよ、だれにも惑わされないようにしなさい。義を行う者は、御子と同じように、正しい人です。
【新改訳改訂第3版】 Ⅰヨハ 3:7 子どもたちよ。だれにも惑わされてはいけません。義を行う者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。
【リビング・バイブル】 Ⅰヨハ 3:7 愛する子供たちよ。 このことで、だれにもだまされてはいけません。 もし、あなたがたが、いつも善を行なっているなら、キリスト様と同じように、正しく歩んでいるのです。参考   (聖書の達人2聖書辞典)
■ぎ 義 〈ヘ〉ツェダーカー,ツェデク,〈ギ〉ディカイオシュネー.
ギリシヤ語のディカイオシュネーは,「神の律法と人の定めた基準に合うこと,また,それに従って生活すること」という意味に用いられている.ヘブル語のツェデクは王の政治や裁判から一般の社会生活の倫理に至るあらゆる面での「正しさ」という意味でも用いられているが,その根拠には常に「神の義」が関連している. 1.旧約聖書における義.旧約の中の〈ヘ〉ツェダーカーは常に神の本質と関連して用いられている.全能の神は「義に富む神」として現され(ヨブ37:23),また人は自分の「造り主に義を返す」べきものとされている(ヨブ36:3).義は神の主権に関して用いられ,詩篇において「義と公正は,あなたの王座の基」とたたえられ,「高くそびえる山のよう」であり,「天にまで届き」,他に比類のないものとして歌われている(詩36:6,71:19,89:14).この義は社会状況の変化によって変る相対的な基準としてではなく,神の本質のように「永遠の義」であり,その「さとしは,とこしえに義」なるものとして「子らの子に及ぶ」と言われる(詩103:17,119:142,144).このように神は万物の創造者であるがゆえに,義の創始者でもある.義は神の本質であり,その属性の中に現されている.神は「わたしの義」と称して義の観念が神固有のものであり,不変の規範であることを明らかにしている(イザ51:1,5‐6).ヘブル語のツェデクは「正しい」とも訳され,イスラエル民族に神の律法が与えられる以前にも,人間生活の基準として用いられている.神はノアについて「わたしの前に正しい」者と言い,ヨブについても「正しく,神を恐れる」者と認めている(創7:1,ヨブ1:8.参照エゼ14:14,20).人間が「正しさ」や「義」を持つことができるのは,万物の創造に当って神が人間を御自身の「かたち」に造られたからである(創1:26‐27,2:7,5:1).また,この神の本性は世界の創造以来,被造物の秩序の中にも明らかにされているのである(ロマ1:20).したがって,人間は創造主である神の意志にそって生きる時,神の義にかなうものと認められるのである.しかし人間は自由意志によって神の意志に反した行動をとり,神の義によってさばかれ,原義を欠く者となり,以後神から離反した生活を営むようになった(創3章).この一連の事柄の中で神の義は,「してよい」と「してはならない」という基準によって示されている(創2:16‐17).人間は神に似せて「神のかたち」に造られた時点から,先験的な規範として「しなければならない」という概念を持っている.この基準は人間の行為のよりどころである以前に,神と人間との人格的な交わりの基礎である.そういうわけで聖書における神の救いの計画は,神と人間との本来の交わりの回復を目的として展開する.その中において神の義は2つの契約によって示される.古い契約は律法によって代表され,新しい契約は福音として与えられたが,いずれにおいても人間が神の前に義とされ,本来の神との交わりに立ち返ることを目的としている. (1)律法による義.神の救済計画が具体化されるに当って,まずアブラハムが召し出され,その子孫からイスラエル民族が生れた.アブラハムとの契約に続きイスラエル民族との契約を結ぶに当って,神はこの民族の規範としての律法を与えられた.この民が律法を守る時神は祝福をもって報い,これに反する時には罰を与えることによって神の義が示された(出34:7).このようにして与えられた律法の頂点に十のことば(十戒)がおかれている(出20:2‐17).十のことばの前半は神と人とのいわば垂直的関係について,後半は人と人との水平的関係の規準を定めている.こうして神の義は,この民族の宗教行為から日常生活の全般にまでわたるおきて,戒め,定めの中に反映している.そういう意味で義は,生活の道具としてのはかり,升,物指しなどの正しさ(〈ヘ〉ツェデク)にも求められている(レビ19:35‐36).しかし律法が生活の基準として与えられていることと,それを実行することとの間にはかなりの距離がある.神の義は報奨としての祝福と,違反に対する懲罰として示されているが,この民は律法を守ることができず,しばしばさばきを受けることになった. (2)預言者と神の義.この離反した民に,神の代弁者として派遣され,神への復帰を勧告したのは預言者である.預言者たちのメッセージにおいて,神の義は罪を犯した者を罰するものとして表されていると同時に,同じ義が救いと回復を提示するようになる(イザ50:5‐7,59:16).預言者は「正義の神,救い主」を示し,「イスラエルの子孫はみな,主によって義とされ,誇る」と預言する(イザ45:19‐21,25).この救い主としての神の義は,苦難のしもべのメシヤ預言の中に表されている(イザ53:11).「義をもって世界をさばき,その真実をもって国々の民をさばかれる」(詩96:13)神は,同じ義によってイスラエル民族の回復と共に,全世界の人々に及ぶ救いの道を明らかにする(イザ45:22,49:6).この救いの方法はイエス・キリストの受肉によって具体化された. 2.新約聖書における義.新しい契約において神の義は律法とは別に,しかも律法と預言の確立と成就として福音の中に表された.福音とは,神が御自身の義にもとることなく,不義な人間を,キリスト・イエスの贖いのゆえに義と認める神の恵みである(ロマ3:24,26).新約において神の義は,「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」として表され,「すべて信じる人に与えられる」もので,そこには何の差別もない(ロマ3:22).「その義は,信仰に始まり信仰に進ませる」原動力を伴い,罪深い人間を「信仰によって」義人とする(ロマ1:17,ガラ3:11).こうしてイエス・キリストによってもたらされた福音においては律法の背後に神を閉じ込めて「文字(律法)に仕える」のではなく,愛による信頼関係において神に仕える道が開かれたのである(ロマ2:27,7:6,Ⅱコリ3:6).人はだれでも,キリストを仲立ちとして神を信じ,その信仰によって義と認められるのである.公正な審判者としての神は罪人である人間の処罰を,キリストの身代りによる十字架刑として執行された.この「一つの義の行為」(ロマ5:18)に贖罪と義認の根拠がある. 新しい契約においては,神の義と共に,神の愛がその動機として示されている.神が「そのひとり子をお与えになった」のは「御子を信じる者が,ひとりとして滅びることなく,永遠のいのちを持つためである」ことが明らかである(ヨハ3:16).こうして神の義は十字架によるさばきとして現されると共に,その行為の動機は神の愛であることが示された.律法を守ることができないために律法によっては義とされることのない人間は,神のあわれみと恵みによって,信仰によって義と認められることになった.この人格的な応答は,キリスト者を霊とまことによって礼拝する者にまで高め,キリストと有機的に結ばれることにより,実際に神の義を現すものとなることを含んでいる.この世に対してキリスト者は,光の子として神の義を反映し,キリストの徳を現す実を結び,善意と正義(〈ギ〉ディカイオシュネー)と真実において救いを実証する者とされる(エペ5:9).新約聖書の中で,義人であると自認していたパリサイ人は,イエス・キリストのきびしい非難を受け

댓글목록

등록된 댓글이 없습니다.


대총회 북아태지회 한국연합회 성경통신학교
제칠일안식일예수재림교 한국연합회 선교부 | 고유번호증번호: 204-82-62040 | 대표자: 강순기 | 부서장: 신광철
Copyright © 2014 안식일학교·선교부 All rights reserved.
top