第12課 預言の賜物の祝福
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작성자 나도람 작성일09-03-14 04:43 조회3,781회 댓글0건첨부파일
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본문
第12課 預言の賜物の祝福
暗唱聖句
【口語訳】 アモ 3:7 まことに主なる神は/そのしもべである預言者にその隠れた事を/示さないでは、何事をもなされない。
【新共同訳】 アモ 3:7 まことに、主なる神はその定められたことを/僕なる預言者に示さずには/何事もなされない。
【新改訳改訂第3版】 アモ 3:7 まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。
【リビング・バイブル】 アモ 3:7 わたしはいつも、事が起こる前に、真っ先に預言者をとおして警告する。 今も、そうしているのだ。」 <NKJV> Amo 3:7 Surely the Lord God does nothing,Unless He reveals His secret to His servants the prophets.
<KJV> Amo 3:7 Surely the Lord GOD will do nothing, but he revealeth his secret unto his servants the prophets. <NIV> Amo 3:7 Surely the Sovereign LORD does nothing / without revealing his plan / to his servants the prophets.
<TEV> Amo 3:7 The Sovereign Lord never does anything without revealing his plan to his servants, the prophets.
J-ばいぶるHEBREW 原書講読画面
Amo 3:7
hwIhy> yn"doa] hf,[]y: al{ yKi
wyd'b'[]-la, AdAs hl'G"-~ai yKi rb'D'
~yaiybiN>h;
aybin" h db,[, la, dAs hlG ~ai yKi rb'D' hwhy yn"doa] hf[ al{ yKi
<文法解析ノート> Amo 3:7
1> yKi (前置詞) @PpN [4488] <3588>なぜなら,~なので,しかし,確かに,~以外,本当に,たとえ~でも,
2> al{ (否定詞) @PnN [5188] <3808>ない
3> hf[ (動詞Qal未3男単) @vqi3msN [2640] <6213>行なう、実行する
4> yn"doa] (固有名詞) @npN [420] <136>主
5> hwhy (固有名詞) @npN [6828] <3068>ヤーゥェ:まことの神の固有名詞 主
6> rb'D' (普通名詞男単) @ncmsN [1454] <1697>ことば,話,発話,出来事,仕事,業績,事
7> yKi (前置詞) @PpN [4488] <3588>なぜなら,~なので,しかし,確かに,~以外,本当に,たとえ~でも,
8> ~ai (副詞) @PdN [1070] <518>もし、~かどうか、~であるとも
9> hlG (動詞Qal完3男単) @vqp3msN [196] <1540>覆いを取る,動かす,移す 捕囚に行く(Ni)脱ぐ,現わす,啓示する,脱がされる,裸にされる,明かされる (Hiph)捕囚に連れて行かれる
10> dAs (普通名詞男単合成形接尾辞3男単) @ncmscX3msN [21] <5475>はかりごと,秘密,会議,仲間
11> la, (前置詞) @PpN [5517] <411>これら、あれら
12> db,[, (普通名詞男複合成形接尾辞3男単) @ncmpcX3msN [809] <5650>しもべ
13> h (冠詞) @PaN [24215] <10009>(冠詞)
14> aybin" (普通名詞男複) @ncmpN [317] <5030>預言者
注解 (聖書の達人2聖書注解)
7節.前節後半の主の行おうとされることを受けている.主は預言者たちに示してから事を行われる.
日曜日 宣教使命
問1
【口語訳】 申 7:7,8
7:7 主があなたがたを愛し、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの国民よりも数が多かったからではない。あなたがたはよろずの民のうち、もっとも数の少ないものであった。 7:8 ただ主があなたがたを愛し、またあなたがたの先祖に誓われた誓いを守ろうとして、主は強い手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手から、あがない出されたのである。 【新共同訳】 申 7:7,8
7:7 主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。 7:8 ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。 【新改訳改訂3】 申 7:7,8
7:7 【主】があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。 7:8 しかし、【主】があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、【主】は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。 注解 (聖書の達人2聖書注解)
彼らの数が多かったから主が〈恋い慕って〉(〈ヘ〉ハーシャク)選ばれたのではなく,あなたがたに対する主の愛(〈ヘ〉アーハブ)の故である(7‐8).
【口語訳】 イザ 44:8 恐れてはならない、またおののいてはならない。わたしはこの事を昔から、あなたがたに聞かせなかったか、また告げなかったか。あなたがたはわが証人である。わたしのほかに神があるか。わたしのほかに岩はない。わたしはそのあることを知らない」。
【新共同訳】 イザ 44:8 恐れるな、おびえるな。既にわたしはあなたに聞かせ/告げてきたではないか。あなたたちはわたしの証人ではないか。わたしをおいて神があろうか、岩があろうか。わたしはそれを知らない。
【新改訳改訂第3版】 イザ 44:8 恐れるな、おののくな。わたしが、もう古くからあなたに聞かせ、告げてきたではないか。あなたがたはわたしの証人。わたしのほかに神があろうか。ほかに岩はない。わたしは知らない。
注解 (聖書の達人2聖書注解)
主権者である唯一神への信仰の特権と責任(6‐8).民を贖われるイスラエルの神は唯一の偉大な神であり,歴史の支配者としてご自分の計画を完成される方だから,この方に信頼するなら恐れる必要はない.また,この神が預言されることは偽りではあり得ず,必ず成就する.それだけに,神は,神の真実を体験し信仰する者に対し,〈あなたがたはわたしの証人〉(8)であると言われる.イスラエルの民,主の贖いの恵みにあずかった者には,昔も今も,この神こそ唯一にして真実な神であることを証言し,宣教する責任が課せられているのである
【口語訳】 イザ 49:6 主は言われる、「あなたがわがしもべとなって、ヤコブのもろもろの部族をおこし、イスラエルのうちの残った者を帰らせることは、いとも軽い事である。わたしはあなたを、もろもろの国びとの光となして、わが救を地の果にまでいたらせよう」と。
【新共同訳】 イザ 49:6 こう言われる。わたしはあなたを僕として/ヤコブの諸部族を立ち上がらせ/イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして/わたしはあなたを国々の光とし/わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。
【新改訳改訂第3版】 イザ 49:6 主は仰せられる。「ただ、あなたがわたしのしもべとなって、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのとどめられている者たちを帰らせるだけではない
わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」
注解 (聖書の達人2聖書注解)
主の語りかけとして,やがて起る捕囚からの解放を超え,〈あなたを諸国の民の光とし,地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする〉(6)と預言される.ここでの「あなた」は,イスラエルの民そのものというより,究極的には個人的なメシヤを指し,その来臨を預言している
*イスラエルの神は栄誉を語る
【新共同訳】 イザ 43:21 わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。
*諸国民のうちに神の栄光を現す
【新共同訳】 イザ 66:19 わたしは、彼らの間に一つのしるしをおき、彼らの中から生き残った者を諸国に遣わす。すなわち、タルシシュに、弓を巧みに引くプルとルドに、トバルとヤワンに、更にわたしの名声を聞いたことも、わたしの栄光を見たこともない、遠い島々に遣わす。彼らはわたしの栄光を国々に伝える。
問2
【口語訳】 マタ 28:19,20
28:19 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、 28:20 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。 【新共同訳】 マタ 28:19,20
28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 【新改訳改訂3】 マタ 28:19,20
28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、 28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」 注解 (聖書の達人2聖書注解)
全体として見れば「人の子」イエスの栄光は隠されていた.そこで,これまでのように制約されない,〈いっさいの権威〉が与えられていると言う.〈あなたがたは行って,(ユダヤ人だけでなく)あらゆる国の人々を弟子としなさい〉(19)という命令も,そうした権威の故である.19‐20節aは1つの文章で,その主動詞は「弟子をつくる」である.弟子づくりの内容が〈バプテスマを授け〉〈教えなさい〉と訳される2つの分詞で説明されている.洗礼はバプテスマのヨハネが授けていたもので,イエスは授けなかった(ヨハ4:2によれば弟子たちによるバプテスマはあった).しかし,イエスは今新たにヨハネのバプテスマと違う〈父,子,聖霊の御名によ〉る洗礼を命じる.すなわち三位一体の神との結合に至る,あるいは神への献身に至るバプテスマである.父,子,聖霊の三者はすでにイエスの受洗の場面で登場している(3:16‐17).しかし〈御名〉という単数形の名詞によって,今やその一体性が教えられる.弟子づくりはバプテスマで終らず,継続した教育が必要である.本書に記されているような,神に喜ばれるきよい生き方のすべてを教えるのである.イエスは〈世の終わりまで,いつも〉(20)そのような弟子づくりに励む弟子たちと共にいる.
月曜日 教育
問3
【口語訳】 創 18:19 わたしは彼が後の子らと家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公道とを行わせるために彼を知ったのである。これは主がかつてアブラハムについて言った事を彼の上に臨ませるためである」。
【新共同訳】 創 18:19 わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」
【新改訳改訂第3版】 創 18:19 わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて【主】の道を守らせ、正義と公正とを行わせるため、【主】が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」
【口語訳】 申 6:4-9
6:4 イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。 6:5 あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。 6:6 きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、 6:7 努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。 6:8 またあなたはこれをあなたの手につけてしるしとし、あなたの目の間に置いて覚えとし、 6:9 またあなたの家の入口の柱と、あなたの門とに書きしるさなければならない。 【新共同訳】 申 6:4-9
6:4 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。 6:5 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 6:6 今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、 6:7 子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。 6:8 更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、 6:9 あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。 【新改訳改訂3】 申 6:4-9
6:4 聞きなさい。イスラエル。【主】は私たちの神。【主】はただひとりである。 6:5 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、【主】を愛しなさい。 6:6 私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。 6:7 これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。 6:8 これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。 6:9 これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。 注解 (聖書の達人2聖書注解)
4節に始まる有名な〈ヘ〉シェマ・イスラーエール(〈聞きなさい.イスラエル〉)の部分においても,畏れに対応する主への愛を求めると共に,各々自分が正しいと思うことを行ってきたこれまでとは違って,客観的な神的啓示による基準に従い代々にわたって主を畏れることによって約束を得ることが諭される.〈主は私たちの神.主はただひとりである〉は,欄外注「私たちの神,主はただひとりの主である」のほうがよいと思われる.これは抽象的な神の唯一性の主張ではなく,イスラエルにとっては,「ヤハウェ」のほかに神も主もいないこと(参照5:7)の主張である.従って,〈あなたの神,主を愛しなさい〉(5)と言われる.〈精神〉(〈ヘ〉ネフェシュ)は,命,霊魂,理性,あるいは愛,喜び,畏れ,悲しみといったすべての感情の座としての「思い」を意味する.私たちにとって,主はこのお方のほかにはいないのだから,私のすべてをもって愛するということである.主イエスが,神の律法全体の要約として仰せられたのは周知の通りである.その愛は主なる神が求めておられる道で示すべきであるから,〈これらのことばを,あなたの心に〉(6)いつも存在させなければならない.更に,〈子どもたちによく(勤勉に)教え込みなさい〉と命じられるが,「あなたの」全生活における御言葉への従順のあかしによって,子供たちを培うようにということである.それは,単にこの律法の要約を「唱える」(語る),あるいは「シェマ」の告白の継承だけで教えられるのではない.7‐9節の〈これを〉(動詞の複数形語尾)は,6節の〈私がきょう,あなたに命じるこれらのことば〉を指しているのだから,律法の要約ではなく全体のことである.しかし,〈しるし〉や〈記章〉(8)を文字通り身につけるとなると,律法の要約ということになるだろう.この時代は各人が書かれた律法の書を持てる時代ではないから,絶えず思い起すために見えるしるしが必要であったとは考えられるが,要は手にしるしをつけ,額に記章をつけることによって,彼らの行動思想が主の民であることをあかししなければならないということである.少なくとも,これ以後の入国,定住生活において彼らが字義通り形式的にこれを行った言及は聖書には見られない
【口語訳】 申 6:20-25
6:20 後の日となって、あなたの子があなたに問うて言うであろう、『われわれの神、主があなたがたに命じられたこのあかしと、定めと、おきてとは、なんのためですか』。 6:21 その時あなたはその子に言わなければならない。『われわれはエジプトでパロの奴隷であったが、主は強い手をもって、われわれをエジプトから導き出された。
6:22 主はわれわれの目の前で、大きな恐ろしいしるしと不思議とをエジプトと、パロとその全家とに示され、
6:23 われわれをそこから導き出し、かつてわれわれの先祖に誓われた地にはいらせ、それをわれわれに賜わった。 6:24 そして主はこのすべての定めを行えと、われわれに命じられた。これはわれわれの神、主を恐れて、われわれが、つねにさいわいであり、また今日のように、主がわれわれを守って命を保たせるためである。 6:25 もしわれわれが、命じられたとおりに、このすべての命令をわれわれの神、主の前に守って行うならば、それはわれわれの義となるであろう』。 【新共同訳】 申 6:20-25
6:20 将来、あなたの子が、「我々の神、主が命じられたこれらの定めと掟と法は何のためですか」と尋ねるときには、 6:21 あなたの子にこう答えなさい。「我々はエジプトでファラオの奴隷であったが、主は力ある御手をもって我々をエジプトから導き出された。 6:22 主は我々の目の前で、エジプトとファラオとその宮廷全体に対して大きな恐ろしいしるしと奇跡を行い、 6:23 我々をそこから導き出し、我々の先祖に誓われたこの土地に導き入れ、それを我々に与えられた。 6:24 主は我々にこれらの掟をすべて行うように命じ、我々の神、主を畏れるようにし、今日あるように、常に幸いに生きるようにしてくださった。 6:25 我々が命じられたとおり、我々の神、主の御前で、この戒めをすべて忠実に行うよう注意するならば、我々は報いを受ける。」 【新改訳改訂3】 申 6:20-25
6:20 後になって、あなたの息子があなたに尋ねて、「私たちの神、【主】が、あなたがたに命じられた、このさとしとおきてと定めとは、どういうことか」と言うなら、 6:21 あなたは自分の息子にこう言いなさい。「私たちはエジプトでパロの奴隷であったが、【主】が力強い御手をもって、私たちをエジプトから連れ出された。 6:22 【主】は私たちの目の前で、エジプトに対し、パロとその全家族に対して大きくてむごいしるしと不思議とを行い、 6:23 私たちをそこから連れ出された。それは私たちの先祖たちに誓われた地に、私たちを入らせて、その地を私たちに与えるためであった。 6:24 それで、【主】は、私たちがこのすべてのおきてを行い、私たちの神、【主】を恐れるように命じられた。それは、今日のように、いつまでも私たちがしあわせであり、生き残るためである。 6:25 私たちの神、【主】が命じられたように、御前でこのすべての命令を守り行うことは、私たちの義となるのである。」 注解 (聖書の達人2聖書注解)
将来,あなたの息子が〈さとしとおきてと定めとは,どういうことか〉(20)と質問する時,あなたは,①私たちはパロの奴隷であったが,主が力強い御手をもってエジプトから導き出された,②主は私たちの目の前でパロの全家に恐るべきしるしを行われた,③そしてそこから私たちを父祖たちに誓われた地に導き入れるために連れ出された,④私たちが幸せで,いつまでも生き残るために,主を畏れてこれらのおきてに従うよう命じられた,⑤命じられた通りに気を付けて従うなら,私たちは義とされる,と答えなければならない 25節の〈命令を守り行なうことは(ならば),私たちの義となるのである(直訳「義が私たちにあるだろう」)〉は,「恵みの契約」(7:12)における「命令」への従順こそ信仰なのだから,決して信仰義認の教理と矛盾することが教えられていると理解すべきではない.命と幸いとに至る道は,旧・新約聖書全巻を一貫して,主なる神の恵みと御力への信頼と従順にある
火曜日 健康
問4
【口語訳】 出 15:26 言われた、「あなたが、もしあなたの神、主の声に良く聞き従い、その目に正しいと見られることを行い、その戒めに耳を傾け、すべての定めを守るならば、わたしは、かつてエジプトびとに下した病を一つもあなたに下さないであろう。わたしは主であって、あなたをいやすものである」。
【新共同訳】 出 15:26 言われた。「もしあなたが、あなたの神、主の声に必ず聞き従い、彼の目にかなう正しいことを行い、彼の命令に耳を傾け、すべての掟を守るならば、わたしがエジプト人に下した病をあなたには下さない。わたしはあなたをいやす主である。」
【新改訳改訂第3版】 出 15:26 そして、仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、【主】の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行い、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは【主】、あなたをいやす者である。」
注解 (聖書の達人2聖書注解)
26節はその内容を具体的に示すものである.〈もし〉〈なら〉の条件文で示されるのは,神の声に聞き従う,行う,耳を傾ける,守る,ことである.それに対する約束の言葉は,エジプトに下した病気をあなたには下さない,ということである.それに続く〈わたしは主〉(26)は約束に続く常套句であるが,その後の〈あなたをいやす者〉(26)という句は「エジプトの病」と対応している.出エジプトを経験したばかりのイスラエルにとって最も印象深いのは,エジプトにおける神の奇蹟である.エジプトがそれによってさばかれたことはイスラエル人の目にはっきりと焼き付いている.今,マラにおいてイスラエルは神から試みを受けている.エジプトとの違いを神の前で示すことが,イスラエルに求められていることである.しかし「あなたをいやす者」との言葉は,エジプトの病の患いを免れさせる者がヤハウェにほかならないことを示している.この試みに対するイスラエルの応答がどうであったかは記されていない.この段階ではまだすべてが簡潔である
【口語訳】 レビ 7:22-26
7:22 主はまたモーセに言われた、7:23 「イスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは、すべて牛、羊、やぎの脂肪を食べてはならない。 7:24 自然に死んだ獣の脂肪および裂き殺された獣の脂肪は、さまざまのことに使ってもよい。しかし、それは決して食べてはならない。 7:25 だれでも火祭として主にささげる獣の脂肪を食べるならば、これを食べる人は民のうちから断たれるであろう。 7:26 またあなたがたはすべてその住む所で、鳥にせよ、獣にせよ、すべてその血を食べてはならない。 【新共同訳】 レビ 7:22-26
7:22 主はまたモーセに仰せになった。 7:23 イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。牛、羊、山羊の脂肪を食べてはならない。 7:24 自然に死んだ動物や、野獣に殺された動物の脂肪は、いかなる用途に使ってもよいが、食べてはならない。 7:25 燃やして主にささげる物の脂肪を食べる者はすべて自分が属する民から断たれる。 7:26 あなたたちがどこに住もうとも、鳥類および動物の血は決して食用に供してはならない。 【新改訳改訂3】 レビ 7:22-26
7:22 ついで【主】はモーセに告げて仰せられた。 7:23 「イスラエル人に告げて言え。あなたがたは、牛や、羊、あるいはやぎの脂肪をいっさい食べてはならない。 7:24 死んだ動物の脂肪や野獣に引き裂かれた動物の脂肪は、何に使ってもさしつかえない。しかし、決してそれを食べてはならない。 7:25 すべて、火によるささげ物として【主】にささげる動物の脂肪を食べる者、これを食べる者は、その民から断ち切られるからである。 7:26 また、あなたがたのどこの居住地においても、鳥でも動物でも、その血をいっさい食べてはならない。 【口語訳】 レビ 11:1-8
11:1 主はまたモーセとアロンに言われた、 11:2 「イスラエルの人々に言いなさい、『地にあるすべての獣のうち、あなたがたの食べることができる動物は次のとおりである。 11:3 獣のうち、すべてひずめの分かれたもの、すなわち、ひずめの全く切れたもの、反芻するものは、これを食べることができる。 11:4 ただし、反芻するもの、またはひずめの分かれたもののうち、次のものは食べてはならない。すなわち、らくだ、これは、反芻するけれども、ひずめが分かれていないから、あなたがたには汚れたものである。 11:5 岩たぬき、これは、反芻するけれども、ひずめが分かれていないから、あなたがたには汚れたものである。 11:6 野うさぎ、これは、反芻するけれども、ひずめが分かれていないから、あなたがたには汚れたものである。 11:7 豚、これは、ひずめが分かれており、ひずめが全く切れているけれども、反芻することをしないから、あなたがたには汚れたものである。 11:8 あなたがたは、これらのものの肉を食べてはならない。またその死体に触れてはならない。これらは、あなたがたには汚れたものである。 【新共同訳】 レビ 11:1-8
11:1 主はモーセとアロンにこう仰せになった。 11:2 イスラエルの民に告げてこう言いなさい。地上のあらゆる動物のうちで、あなたたちの食べてよい生き物は、 11:3 ひづめが分かれ、完全に割れており、しかも反すうするものである。 11:4 従って反すうするだけか、あるいは、ひづめが分かれただけの生き物は食べてはならない。らくだは反すうするが、ひづめが分かれていないから、汚れたものである。 11:5 岩狸は反すうするが、ひづめが分かれていないから、汚れたものである。 11:6 野兎も反すうするが、ひづめが分かれていないから、汚れたものである。 11:7 いのししはひづめが分かれ、完全に割れているが、全く反すうしないから、汚れたものである。 11:8 これらの動物の肉を食べてはならない。死骸に触れてはならない。これらは汚れたものである。 【新改訳改訂3】 レビ 11:1-8
11:1 それから、【主】はモーセとアロンに告げて仰せられた。 11:2 「イスラエル人に告げて言え。地上のすべての動物のうちで、あなたがたが食べてもよい生き物は次のとおりである。 11:3 動物のうちで、ひづめが分かれ、そのひづめが完全に割れているもの、また、反芻するものはすべて、食べてもよい。 11:4 しかし、反芻するもの、あるいはひづめが分かれているもののうちでも、次のものは、食べてはならない。すなわち、らくだ。これは反芻するが、そのひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。 11:5 それから、岩だぬき。これも反芻するが、そのひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。 11:6 また、野うさぎ。これも反芻するが、そのひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。 11:7 それに、豚。これは、ひづめが分かれており、ひづめが完全に割れたものであるが、反芻しないので、あなたがたには汚れたものである。 11:8 あなたがたは、それらの肉を食べてはならない。またそれらの死体に触れてもいけない。それらは、あなたがたには汚れたものである。 注解 (聖書の達人2聖書注解)
食べてもよい動物は,〈ひづめが分かれ,そのひづめが完全に割れているもの,また,反芻するもの〉(3)である.この2つの条件のどちらか1つでも欠けるものは食べることが出来ない.らくだ,岩だぬき,野うさぎ,豚は,どちらかの条件が満たされず,「汚れたもの」であるので食べてはならず,死体に触れてもいけない(4‐8,参照申14:3‐8)
【口語訳】 レビ 13:46 その患部が身にある日の間は汚れた者としなければならない。その人は汚れた者であるから、離れて住まなければならない。すなわち、そのすまいは宿営の外でなければならない。
【新共同訳】 レビ 13:46 この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。
【新改訳改訂第3版】 レビ 13:46 その患部が彼にある間中、彼は汚れている。彼は汚れているので、ひとりで住み、その住まいは宿営の外でなければならない。
水曜日 出版
*モーセは神の言葉を書き記した最初の人
【新共同訳】 出 17:14 主はモーセに言われた。「このことを文書に書き記して記念とし、また、ヨシュアに読み聞かせよ。『わたしは、アマレクの記憶を天の下から完全にぬぐい去る』と。」 【新共同訳】 出 34:27 主はモーセに言われた。「これらの言葉を書き記しなさい。わたしは、これらの言葉に基づいてあなたと、またイスラエルと契約を結ぶ。」 【新共同訳】 申31:24 モーセは、この律法の言葉を余すところなく書物に書き終えると、 問6
【口語訳】 申 6:1-9
6:1 これはあなたがたの神、主があなたがたに教えよと命じられた命令と、定めと、おきてであって、あなたがたは渡って行って獲る地で、これを行わなければならない。 6:2 これはあなたが子や孫と共に、あなたの生きながらえる日の間、つねにあなたの神、主を恐れて、わたしが命じるもろもろの定めと、命令とを守らせるため、またあなたが長く命を保つことのできるためである。 6:3 それゆえ、イスラエルよ、聞いて、それを守り行え。そうすれば、あなたはさいわいを得、あなたの先祖の神、主があなたに言われたように、乳と蜜の流れる国で、あなたの数は大いに増すであろう。 6:4 イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。 6:5 あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。 6:6 きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、 6:7 努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。 6:8 またあなたはこれをあなたの手につけてしるしとし、あなたの目の間に置いて覚えとし、 6:9 またあなたの家の入口の柱と、あなたの門とに書きしるさなければならない。 【新共同訳】 申 6:1-9
6:1 これは、あなたたちの神、主があなたたちに教えよと命じられた戒めと掟と法であり、あなたたちが渡って行って得る土地で行うべきもの。 6:2 あなたもあなたの子孫も生きている限り、あなたの神、主を畏れ、わたしが命じるすべての掟と戒めを守って長く生きるためである。 6:3 イスラエルよ、あなたはよく聞いて、忠実に行いなさい。そうすれば、あなたは幸いを得、父祖の神、主が約束されたとおり、乳と蜜の流れる土地で大いに増える。 6:4 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。 6:5 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 6:6 今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、 6:7 子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。 6:8 更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、 6:9 あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。 【新改訳改訂3】 申 6:1-9
6:1 これは、あなたがたの神、【主】が、あなたがたに教えよと命じられた命令──おきてと定め──である。あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地で、行うためである。 6:2 それは、あなたの一生の間、あなたも、そしてあなたの子も孫も、あなたの神、【主】を恐れて、私の命じるすべての主のおきてと命令を守るため、またあなたが長く生きることのできるためである。 6:3 イスラエルよ。聞いて、守り行いなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、あなたの父祖の神、【主】があなたに告げられたように、あなたは乳と蜜の流れる国で大いにふえよう。 6:4 聞きなさい。イスラエル。【主】は私たちの神。【主】はただひとりである。 6:5 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、【主】を愛しなさい。 6:6 私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。 6:7 これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。 6:8 これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。 6:9 これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。 注解 (聖書の達人2聖書注解)
この命令は,主が,渡って行って所有する地で守り行うように,〈あなたがたに教えよと命じられた〉(1)おきてと定めである.それは,〈あなたも,そしてあなたの子も孫も〉(2),主を畏れるためであり,そして,命に至るためである.それ故,主が約束された〈乳と蜜の流れる国〉(3)で,幸せになり,大いに増えるよう,聞いて,行うように(気を付けなさい)と告げる.主の契約の約束を得るために,主に対する畏れを具体的に表すために,主の律法は与えられた
4節に始まる有名な〈ヘ〉シェマ・イスラーエール(〈聞きなさい.イスラエル〉)の部分においても,畏れに対応する主への愛を求めると共に,各々自分が正しいと思うことを行ってきたこれまでとは違って,客観的な神的啓示による基準に従い代々にわたって主を畏れることによって約束を得ることが諭される.〈主は私たちの神.主はただひとりである〉は,欄外注「私たちの神,主はただひとりの主である」のほうがよいと思われる.これは抽象的な神の唯一性の主張ではなく,イスラエルにとっては,「ヤハウェ」のほかに神も主もいないこと(参照5:7)の主張である.従って,〈あなたの神,主を愛しなさい〉(5)と言われる.〈精神〉(〈ヘ〉ネフェシュ)は,命,霊魂,理性,あるいは愛,喜び,畏れ,悲しみといったすべての感情の座としての「思い」を意味する.私たちにとって,主はこのお方のほかにはいないのだから,私のすべてをもって愛するということである.主イエスが,神の律法全体の要約として仰せられたのは周知の通りである.その愛は主なる神が求めておられる道で示すべきであるから,〈これらのことばを,あなたの心に〉(6)いつも存在させなければならない.更に,〈子どもたちによく(勤勉に)教え込みなさい〉と命じられるが,「あなたの」全生活における御言葉への従順のあかしによって,子供たちを培うようにということである.それは,単にこの律法の要約を「唱える」(語る),あるいは「シェマ」の告白の継承だけで教えられるのではない.7‐9節の〈これを〉(動詞の複数形語尾)は,6節の〈私がきょう,あなたに命じるこれらのことば〉を指しているのだから,律法の要約ではなく全体のことである.しかし,〈しるし〉や〈記章〉(8)を文字通り身につけるとなると,律法の要約ということになるだろう.この時代は各人が書かれた律法の書を持てる時代ではないから,絶えず思い起すために見えるしるしが必要であったとは考えられるが,要は手にしるしをつけ,額に記章をつけることによって,彼らの行動思想が主の民であることをあかししなければならないということである.少なくとも,これ以後の入国,定住生活において彼らが字義通り形式的にこれを行った言及は聖書には見られない
【口語訳】 申 11:18-20
11:18 それゆえ、これらのわたしの言葉を心と魂におさめ、またそれを手につけて、しるしとし、目の間に置いて覚えとし、 11:19 これを子供たちに教え、家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、それについて語り、 11:20 また家の入口の柱と、門にそれを書きしるさなければならない。 【新共同訳】 申 11 :18-20
11:18 あなたたちはこれらのわたしの言葉を心に留め、魂に刻み、これをしるしとして手に結び、覚えとして額に付け、 11:19 子供たちにもそれを教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、語り聞かせ、 11:20 あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。 【新改訳改訂3】 申 11:18-20
11:18 あなたがたは、私のこのことばを心とたましいに刻みつけ、それをしるしとして手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。 11:19 それをあなたがたの子どもたちに教えなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、それを唱えるように。 11:20 これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。 注解 (聖書の達人2聖書注解)
自分に気を付けるため,あなたの心とあなたの〈たましい〉(〈ヘ〉ネフェシュ,6:5で「精神」と訳されていた語)に,これらの言葉を〈刻みつけ〉(〈ヘ〉スーム,「置く,植える,建てる,課する」の意味),それらをあなたの手に〈しるし〉として,あなたの〈額〉(直訳「目の間」)に〈記章〉として結び付けなさい(18).これは心に刻み付けておくための記章であり,手のわざと頭の働きの根底に,主の言葉が基準として置かれなければならないことを象徴している.
木曜日 神学
参考 (聖書の達人2聖書辞典)
■はんしんろん 汎神論
〈英〉pantheism.神と世界を全面的に,あるいは部分的に同一視する思想を指す.汎神論は,英国の*理神論者ジョン・トーランド(1670―1722年)の命名によるとされる.神即自然という神と*世界を完全に同一視する汎神論のほかに,神と世界とを部分的に同一視する汎神論も存在するが,この汎神論は,神と世界との関係をどのようにとらえるかによって,宗教的にも,哲学的にも様々の形態がある.この汎神論は,強調点を神に置き,世界を神の一部分と見て,世界を神の中に吸収する立場と,世界に重点を置き,世界を唯一の実在とし,神を世界の一部分と見て,神を世界の中に吸収する立場とに分類される.
神と世界とを峻別し,世界に対する神の超越性を主張するキリスト教が支配的になった西洋世界においても,キリスト教の神観に敵対する汎神論の多彩な形態が認められる.神の超越性を否定する神観を提唱するきっかけは種々様々である.深い宗教体験の解釈から,神と人間との根源的同質性を導き出し,そのような根本前提から,神と人間と世界の関係を体系化しようとして,神の超越性を否定することもあるし,無限で絶対的な神の観念は神から独立した世界の存在を排除するという論理的整合性を貫徹することによって,唯一の絶対的実在としての神の中に世界を取り込もうとする場合もある.あるいは世界の悪の存在と世界の創造者なる神の善性とは矛盾しないのかという神義論的問題を回避しようとして,善悪のような概念上の二元的対立は,神の中には存在しない仮象と見なすために,仮象の世界を唯一の実在である神に融合させることによっても生れる. 新プラトン主義者プローティーノス(205年頃―270年)の汎神論はキリスト教神学に大きな影響を与えた.彼はすべての現実的存在の根源として超越的一者を想定し,光源から光が放射するように,この一者からあらゆる存在が必然的に流出するとした.この一者は流出する世界の最下端に位置する物質にまで内在している.ニュッサの*グレゴリオス,*アンブロシウス,*アウグスティーヌス,ボエーティウスのような*教会教父は,汎神論的な神観を受容することはなかったが,プローティーノス,ポルフェリオス,イアンブリコスなどの新プラトン主義の理念を吸収して,キリスト教神学を展開した.*ルネサンス期に,ジョルダーノ・ブルーノ(1548―1600年)は,世界の無限性を主張し,神を世界の生命的原理と見なした.彼によれば,神は世界の諸事物の包括者である限りにおいて,諸事物を超越しているが,世界の諸事物の展開者と解される限りにおいて,諸事物と本質的に一つである.*スピノーザ(1632―77年)は,近代を代表する汎神論者である.彼は神を唯一の絶対的実在とし,世界を構成している精神と物体は,人間によって認識され得る思考と延長という神の属性であると考えた.*ヘーゲル(1770―1831年)の哲学も,絶対者が世界の不断の運動・変化・発展の過程の中で必然的に自己を展開すると主張する点で,汎神論的である. 汎神論は多くの点でキリスト教の教説と相反する.神の超越性が否定されれば,創造者と被造世界との区別は解消され,世界は初めも終りもない永遠的なものになる.神と世界が一つに融合されれば,神の人格性が失われ,世界における真偽,善悪などの二元的対立も仮象になる.神との合一を主張する汎神論の宗教的形態においては,神について言い表したり,理論的考察をしたりすることは一切不可能とされ,神のことばとしての*聖書の権威は否定される.神と世界を峻別することを拒否するならば,聖書的な*救いや*恵みの観念が否定される.人間も根源において神的存在と一つと見なされ,その本性的能力によって神的原理の認識に到達可能とされるからである. 汎神論は*無神論と超越神論の中間的形態であると言われるが,根底において,神とその恵みに依存しない人間の生き方を肯定しており,偽装された実践的無神論と呼ばれてしかるべきものである.神の存在とその唯一性を主張しながら,世界の創造者,保持者としての人格神を否定するならば,汎神論的形態によってしか神は把握されないであろう.現代においても,汎神論は多様な形態において存在し得る可能性を持っている.→有神論,無神論,理神論,神論.(多井一雄)
■アリウス主義
御子従属主義はアリウスによって発展させられている.彼は,唯一神論の擁護のために,キリストを神の理性としてのロゴスから区別し,従って,神ではない存在,しかし,人間以上の存在と考えた.キリストは,超人間的な被造物として,あるいは,最初の被造物として表現されており,神ではないが,だからといって人間でもない存在とされた.アリウスは,サモサタのパウロスの影響を受けたし,オーリゲネースの思想を採用している.アリウスのキリスト論には,すでに,従属主義の中にその萌芽は存在していたのである.このアリウスの思想の危険性を見て取り,激しい論争を交したのが*アタナシオスである.アタナシオスは,御子と御父の同質(*ホモウシオス,homoousios)を主張,御子と御父の異質ahomoiosを主張するアリウス派を退けた.325年,*ニカイア総会議において,アタナシオスの立場が公認された.会議において,*半アリウス主義と呼ばれる御子の御父に対する類質(*ホモイウシオス,homoiousios)を主張した者たちも退けられた. このようにして,御子の全き神性が教会の教理として承認された時に,そこで問題となったのは,キリストの神性と人性の関係をどのように理解するかという問題であった. *アリウス主義を巡っての論争の間,イエスが,人間の霊魂を持っておられたかどうかの問題の意味はまだ認められていなかった.ある意味で,この問題におけるアリウス派とアタナシオス派との間にはある一致すら見られた.アリウス主義者は,受肉したロゴスにおける人間霊魂の存在を否定した.彼らによれば,ロゴスが霊魂の場を占めており,イエスの身体は,それ自体,霊魂を持たない身体であった.アタナシオスが問題にしたのは,人間霊魂の否定ということではなく,ロゴスが,人間霊魂の場を占めるならば,ロゴスは被造物であるという結論に対してであった.アタナシオスは,イエスの人間的霊魂の存在を否定しない.しかし,論争の初期の段階で,アタナシオスは,霊魂の存在の真の意味をとらえていたと言うことはできない.アタナシオスは,御子と御父との同質性を強調するあまり,イエス・キリストの全き人間性を犠牲にする危険を持っていた.彼の関心は,御子の全き神性だったのである.
■三位一体論争.
三位一体の真理内容は聖書の中に啓示されているが,三位一体の教理的表明は突如として出現したわけではない.三位一体論は,歴史的に言えば,異端との対決に触発されながら徐々に形成され,教理的により厳密に告白されていったのである. 三位一体論の教理的形成にとって重要な意味を持った異端として,まず挙げなければならないのは*モナルキア主義(〈英〉Monarchianism)であろう.モナルキア主義は,2―3世紀にかけて東方,西方の区別なく現れた.「モナルキア」とは「単独支配,独裁支配」とか「単一起源」という意味を持つ.従って,モナルキア主義は「独裁神論」あるいは「単一神論」と呼ばれる.その名の通り,この教えの特徴は神の単独支配性,神の単一性の強調にある.この異端にとって特に問題であったのは,当時の正統教会で発展していたロゴス・キリスト論であった.[+]ロゴス・キリスト論は,父なる神の*ロゴスとしてのキリストの中に神的存在を見出していた.この点が,この異端にとっては重大であった.それは二神論への道であり,神の単一性の侵害を意味したからである.そこで彼らは,ロゴス・キリスト論に対決して,二つの方法で神の単一性を擁護しようと努めた.第1のものは「勢力的モナルキア主義」(〈英〉Dynamic Monarchianism),第2のものは「様態的モナルキア主義」(〈英〉Modalistic Monarchianism)と呼ばれる. 第1の「[+]勢力的モナルキア主義」はイエスの人間性の強調によって神の単一性を堅持しようと試みた.イエスは単なる人間であったが,洗礼のとき聖霊を通して神の力(デュナミス)を受け,神性を得て,神の養子とされた.いわゆる「養子説」(〈英〉Adoptionism)の立場である.この説の代表的主唱者はテオドトスやサモサタのパウロスである. 第2の「[+]様態的モナルキア主義」はキリストの神性の強調によって神の単一性を堅持しようと試みた.神は単一者(モナス)であって,父,子,聖霊は同一の神の異なった顕現様態にすぎない.キリストは,天父自身の歴史における顕現様態であり,キリストの受難は天父自身の受難を意味する.いわゆる「天父受難説」(〈英〉Patripassianism)の立場である.この説の代表的主唱者はプラクセアスや[+]サベリウスである. 西方教会において,このようなモナルキア主義の異端と戦い,三位一体の教理的形成に大きな貢献をしたのは*テルトゥリアーヌスである.彼は,モナルキア主義,特に様態的モナルキア主義に対して,父と子と聖霊は三つの位格(〈ラ〉ペルソナ)であるが一つの実体(〈ラ〉スブスタンティア)であると主張した.それは,根と木と実がそれぞれ三つでありつつ同時に一つであるのと同様であると説明した.彼の意図は,一方では多神論であるというモナルキア主義の批判に対して神の単一性を一つの実体の主張によって確保し,他方では三者の区別性を三つの異なる位格的存在の主張によって堅持することにあった.テルトゥリアーヌスは,三位一体を〈三つの位格〉が〈一つの実体〉において存在することと陳述した最初の教父である.しかし,彼においても,例えば,父に対する子の従属性の概念が存在している.従って,テルトゥリアーヌスのところで三位一体の真理の明確な教理的陳述が登場したとはまだ言えないのである. 東方教会においてモナルキア主義と戦い,三位一体論の形成において重要な役割を演じたのは*オーリゲネースである.三位一体論との関連で特に注目されるのは,彼のロゴス・キリスト論である.オーリゲネースにとって神とロゴスの関係は,「本質において同一」(〈ギ〉*ホモウシオス)である.それは,心より意志が,太陽より輝きが生じるように,父より子が永遠不断に生れ続ける(「永遠生誕説」)関係と理解される.このような関係理解によって,神とロゴスの永遠の同質性と区別性が提示されており,*アタナシオスへの道,従って*ニカイア信条への基本的な道備えがされている.他方,オーリゲネースにも父に対するロゴスの従属性の概念がやはり残存している.このような*従属主義はアリオスへの道と結び付いている. 以上のように,モナルキア主義に対する戦いはテルトゥリアーヌスやオーリゲネースなどの教父によって遂行された.その場合,モナルキア主義の批判の矢が主としてロゴス・キリスト論に向けられたために,当然のことながら戦いはロゴス・キリスト論を中心にしてなされた.それは,三位一体の教理的形成において何よりもまずキリスト論的課題の整備が問題になった事情を明らかにしている.テルトゥリアーヌスやオーリゲネースは,この異端に対して神とロゴスの同質性と区別性の明確化に努めたが,従属主義を精算するには至らなかった.この精算がなされるのはニカイア信条においてである. ニカイア信条の成立の背後にはアタナシオスとアリオスとの有名な戦いがある. アリオスは,サモサタのパウロスの線に立脚して神の単一性を堅持しようと努めた.彼にとって,父のみが初めのない方,生れない方であり,子は初めがあり,世界の創造に先立って創造の仲保者として無から創造された者である.従って,父は単独で存在した時があったのであり,後で父になったのである.子は,〈創造に先立って〉という点で世界から区別されるが,〈無から創造された〉という点で被造物の側に立つ.つまり,子は,神と被造物の中間的存在であり,一種の〈半神半人的存在〉と性格付けられよう.ここでは父に対する子の従属性が明白な形で現れている. 一方,アタナシオスにとっては,子は永遠に父より生れ(「永遠の生誕」),父と同質(〈ギ〉ホモウシオス)である.また,子は造られたものではなく,被造物とは異質(〈ギ〉ヘテロウシオス)である.アタナシオスにあっては,父に対する子の従属性は徹底的に排除された. アタナシオスの立場は325年の*ニカイア総会議において確定され,子の〈父との同質〉が信条として表明され,ここに従属主義は公的に精算された.さらに,キリスト論的課題として次に問題となる〈二性一人格論〉は451年の*カルケドン総会議において解決を見,信条的に確定されたのである. 聖霊の問題についても従属主義が精算されねばならなかった.2―3世紀にはまだ聖霊について明白な概念に到達していない.オーリゲネースは聖霊を子に従属させ,子によって造られたものに数え入れた.4世紀になってアリオスは,オーリゲネースと一致しつつ,聖霊を子による最初の被造物とし,子に従属するものと考えた.これに対してアタナシオスは,聖霊が子の場合と同様に〈父と同質〉であると主張した.アタナシオスの立場をさらに前進させたのはカッパドキアの三教父,大バシレイオス,ニュッサの*グレゴリオス,ナジアンゾスのグレゴリオスの3人である.当時,アリオスと同じように聖霊を子に従属する一被造物と見なしていたマケドニオスとその一派に対して,彼ら三教父は聖霊の父との同質性を強調し,同時に聖霊が父及び子と等しい一位格であることを明確にした.三教父は三位一体のより厳密な内容規定の点でも重要な貢献をした.彼らによれば,〈ウシア〉は共通の本質,あるものの固有な性質を,〈ヒュポスタシス〉(位格)は他のあらゆるものから区別される個別的自存性を意味した.これによって,神には唯一の本質(ウシア)とともに相互に区別される三つの個別的存在(ヒュポスタシス)があることが明瞭に定義され,サベリウス主義が克服されたのである.最後的にマケドニオス派の誤謬(ごびゅう)が排斥されて,聖霊の神性についての鮮明な信条的定式化が起ったのは381年の*コンスタンティノポリス総会議においてである.325年のニカイア信条では単純に「聖霊を信じる」と表明されただけであった.しかし,このコンスタンティノポリス総会議では,
暗唱聖句
【口語訳】 アモ 3:7 まことに主なる神は/そのしもべである預言者にその隠れた事を/示さないでは、何事をもなされない。
【新共同訳】 アモ 3:7 まことに、主なる神はその定められたことを/僕なる預言者に示さずには/何事もなされない。
【新改訳改訂第3版】 アモ 3:7 まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。
【リビング・バイブル】 アモ 3:7 わたしはいつも、事が起こる前に、真っ先に預言者をとおして警告する。 今も、そうしているのだ。」 <NKJV> Amo 3:7 Surely the Lord God does nothing,Unless He reveals His secret to His servants the prophets.
<KJV> Amo 3:7 Surely the Lord GOD will do nothing, but he revealeth his secret unto his servants the prophets. <NIV> Amo 3:7 Surely the Sovereign LORD does nothing / without revealing his plan / to his servants the prophets.
<TEV> Amo 3:7 The Sovereign Lord never does anything without revealing his plan to his servants, the prophets.
J-ばいぶるHEBREW 原書講読画面
Amo 3:7
hwIhy> yn"doa] hf,[]y: al{ yKi
wyd'b'[]-la, AdAs hl'G"-~ai yKi rb'D'
~yaiybiN>h;
aybin" h db,[, la, dAs hlG ~ai yKi rb'D' hwhy yn"doa] hf[ al{ yKi
<文法解析ノート> Amo 3:7
1> yKi (前置詞) @PpN [4488] <3588>なぜなら,~なので,しかし,確かに,~以外,本当に,たとえ~でも,
2> al{ (否定詞) @PnN [5188] <3808>ない
3> hf[ (動詞Qal未3男単) @vqi3msN [2640] <6213>行なう、実行する
4> yn"doa] (固有名詞) @npN [420] <136>主
5> hwhy (固有名詞) @npN [6828] <3068>ヤーゥェ:まことの神の固有名詞 主
6> rb'D' (普通名詞男単) @ncmsN [1454] <1697>ことば,話,発話,出来事,仕事,業績,事
7> yKi (前置詞) @PpN [4488] <3588>なぜなら,~なので,しかし,確かに,~以外,本当に,たとえ~でも,
8> ~ai (副詞) @PdN [1070] <518>もし、~かどうか、~であるとも
9> hlG (動詞Qal完3男単) @vqp3msN [196] <1540>覆いを取る,動かす,移す 捕囚に行く(Ni)脱ぐ,現わす,啓示する,脱がされる,裸にされる,明かされる (Hiph)捕囚に連れて行かれる
10> dAs (普通名詞男単合成形接尾辞3男単) @ncmscX3msN [21] <5475>はかりごと,秘密,会議,仲間
11> la, (前置詞) @PpN [5517] <411>これら、あれら
12> db,[, (普通名詞男複合成形接尾辞3男単) @ncmpcX3msN [809] <5650>しもべ
13> h (冠詞) @PaN [24215] <10009>(冠詞)
14> aybin" (普通名詞男複) @ncmpN [317] <5030>預言者
注解 (聖書の達人2聖書注解)
7節.前節後半の主の行おうとされることを受けている.主は預言者たちに示してから事を行われる.
日曜日 宣教使命
問1
【口語訳】 申 7:7,8
7:7 主があなたがたを愛し、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの国民よりも数が多かったからではない。あなたがたはよろずの民のうち、もっとも数の少ないものであった。 7:8 ただ主があなたがたを愛し、またあなたがたの先祖に誓われた誓いを守ろうとして、主は強い手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手から、あがない出されたのである。 【新共同訳】 申 7:7,8
7:7 主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。 7:8 ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。 【新改訳改訂3】 申 7:7,8
7:7 【主】があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。 7:8 しかし、【主】があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、【主】は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。 注解 (聖書の達人2聖書注解)
彼らの数が多かったから主が〈恋い慕って〉(〈ヘ〉ハーシャク)選ばれたのではなく,あなたがたに対する主の愛(〈ヘ〉アーハブ)の故である(7‐8).
【口語訳】 イザ 44:8 恐れてはならない、またおののいてはならない。わたしはこの事を昔から、あなたがたに聞かせなかったか、また告げなかったか。あなたがたはわが証人である。わたしのほかに神があるか。わたしのほかに岩はない。わたしはそのあることを知らない」。
【新共同訳】 イザ 44:8 恐れるな、おびえるな。既にわたしはあなたに聞かせ/告げてきたではないか。あなたたちはわたしの証人ではないか。わたしをおいて神があろうか、岩があろうか。わたしはそれを知らない。
【新改訳改訂第3版】 イザ 44:8 恐れるな、おののくな。わたしが、もう古くからあなたに聞かせ、告げてきたではないか。あなたがたはわたしの証人。わたしのほかに神があろうか。ほかに岩はない。わたしは知らない。
注解 (聖書の達人2聖書注解)
主権者である唯一神への信仰の特権と責任(6‐8).民を贖われるイスラエルの神は唯一の偉大な神であり,歴史の支配者としてご自分の計画を完成される方だから,この方に信頼するなら恐れる必要はない.また,この神が預言されることは偽りではあり得ず,必ず成就する.それだけに,神は,神の真実を体験し信仰する者に対し,〈あなたがたはわたしの証人〉(8)であると言われる.イスラエルの民,主の贖いの恵みにあずかった者には,昔も今も,この神こそ唯一にして真実な神であることを証言し,宣教する責任が課せられているのである
【口語訳】 イザ 49:6 主は言われる、「あなたがわがしもべとなって、ヤコブのもろもろの部族をおこし、イスラエルのうちの残った者を帰らせることは、いとも軽い事である。わたしはあなたを、もろもろの国びとの光となして、わが救を地の果にまでいたらせよう」と。
【新共同訳】 イザ 49:6 こう言われる。わたしはあなたを僕として/ヤコブの諸部族を立ち上がらせ/イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして/わたしはあなたを国々の光とし/わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。
【新改訳改訂第3版】 イザ 49:6 主は仰せられる。「ただ、あなたがわたしのしもべとなって、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのとどめられている者たちを帰らせるだけではない
わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」
注解 (聖書の達人2聖書注解)
主の語りかけとして,やがて起る捕囚からの解放を超え,〈あなたを諸国の民の光とし,地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする〉(6)と預言される.ここでの「あなた」は,イスラエルの民そのものというより,究極的には個人的なメシヤを指し,その来臨を預言している
*イスラエルの神は栄誉を語る
【新共同訳】 イザ 43:21 わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。
*諸国民のうちに神の栄光を現す
【新共同訳】 イザ 66:19 わたしは、彼らの間に一つのしるしをおき、彼らの中から生き残った者を諸国に遣わす。すなわち、タルシシュに、弓を巧みに引くプルとルドに、トバルとヤワンに、更にわたしの名声を聞いたことも、わたしの栄光を見たこともない、遠い島々に遣わす。彼らはわたしの栄光を国々に伝える。
問2
【口語訳】 マタ 28:19,20
28:19 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、 28:20 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。 【新共同訳】 マタ 28:19,20
28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 【新改訳改訂3】 マタ 28:19,20
28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、 28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」 注解 (聖書の達人2聖書注解)
全体として見れば「人の子」イエスの栄光は隠されていた.そこで,これまでのように制約されない,〈いっさいの権威〉が与えられていると言う.〈あなたがたは行って,(ユダヤ人だけでなく)あらゆる国の人々を弟子としなさい〉(19)という命令も,そうした権威の故である.19‐20節aは1つの文章で,その主動詞は「弟子をつくる」である.弟子づくりの内容が〈バプテスマを授け〉〈教えなさい〉と訳される2つの分詞で説明されている.洗礼はバプテスマのヨハネが授けていたもので,イエスは授けなかった(ヨハ4:2によれば弟子たちによるバプテスマはあった).しかし,イエスは今新たにヨハネのバプテスマと違う〈父,子,聖霊の御名によ〉る洗礼を命じる.すなわち三位一体の神との結合に至る,あるいは神への献身に至るバプテスマである.父,子,聖霊の三者はすでにイエスの受洗の場面で登場している(3:16‐17).しかし〈御名〉という単数形の名詞によって,今やその一体性が教えられる.弟子づくりはバプテスマで終らず,継続した教育が必要である.本書に記されているような,神に喜ばれるきよい生き方のすべてを教えるのである.イエスは〈世の終わりまで,いつも〉(20)そのような弟子づくりに励む弟子たちと共にいる.
月曜日 教育
問3
【口語訳】 創 18:19 わたしは彼が後の子らと家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公道とを行わせるために彼を知ったのである。これは主がかつてアブラハムについて言った事を彼の上に臨ませるためである」。
【新共同訳】 創 18:19 わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」
【新改訳改訂第3版】 創 18:19 わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて【主】の道を守らせ、正義と公正とを行わせるため、【主】が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」
【口語訳】 申 6:4-9
6:4 イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。 6:5 あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。 6:6 きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、 6:7 努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。 6:8 またあなたはこれをあなたの手につけてしるしとし、あなたの目の間に置いて覚えとし、 6:9 またあなたの家の入口の柱と、あなたの門とに書きしるさなければならない。 【新共同訳】 申 6:4-9
6:4 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。 6:5 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 6:6 今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、 6:7 子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。 6:8 更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、 6:9 あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。 【新改訳改訂3】 申 6:4-9
6:4 聞きなさい。イスラエル。【主】は私たちの神。【主】はただひとりである。 6:5 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、【主】を愛しなさい。 6:6 私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。 6:7 これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。 6:8 これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。 6:9 これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。 注解 (聖書の達人2聖書注解)
4節に始まる有名な〈ヘ〉シェマ・イスラーエール(〈聞きなさい.イスラエル〉)の部分においても,畏れに対応する主への愛を求めると共に,各々自分が正しいと思うことを行ってきたこれまでとは違って,客観的な神的啓示による基準に従い代々にわたって主を畏れることによって約束を得ることが諭される.〈主は私たちの神.主はただひとりである〉は,欄外注「私たちの神,主はただひとりの主である」のほうがよいと思われる.これは抽象的な神の唯一性の主張ではなく,イスラエルにとっては,「ヤハウェ」のほかに神も主もいないこと(参照5:7)の主張である.従って,〈あなたの神,主を愛しなさい〉(5)と言われる.〈精神〉(〈ヘ〉ネフェシュ)は,命,霊魂,理性,あるいは愛,喜び,畏れ,悲しみといったすべての感情の座としての「思い」を意味する.私たちにとって,主はこのお方のほかにはいないのだから,私のすべてをもって愛するということである.主イエスが,神の律法全体の要約として仰せられたのは周知の通りである.その愛は主なる神が求めておられる道で示すべきであるから,〈これらのことばを,あなたの心に〉(6)いつも存在させなければならない.更に,〈子どもたちによく(勤勉に)教え込みなさい〉と命じられるが,「あなたの」全生活における御言葉への従順のあかしによって,子供たちを培うようにということである.それは,単にこの律法の要約を「唱える」(語る),あるいは「シェマ」の告白の継承だけで教えられるのではない.7‐9節の〈これを〉(動詞の複数形語尾)は,6節の〈私がきょう,あなたに命じるこれらのことば〉を指しているのだから,律法の要約ではなく全体のことである.しかし,〈しるし〉や〈記章〉(8)を文字通り身につけるとなると,律法の要約ということになるだろう.この時代は各人が書かれた律法の書を持てる時代ではないから,絶えず思い起すために見えるしるしが必要であったとは考えられるが,要は手にしるしをつけ,額に記章をつけることによって,彼らの行動思想が主の民であることをあかししなければならないということである.少なくとも,これ以後の入国,定住生活において彼らが字義通り形式的にこれを行った言及は聖書には見られない
【口語訳】 申 6:20-25
6:20 後の日となって、あなたの子があなたに問うて言うであろう、『われわれの神、主があなたがたに命じられたこのあかしと、定めと、おきてとは、なんのためですか』。 6:21 その時あなたはその子に言わなければならない。『われわれはエジプトでパロの奴隷であったが、主は強い手をもって、われわれをエジプトから導き出された。
6:22 主はわれわれの目の前で、大きな恐ろしいしるしと不思議とをエジプトと、パロとその全家とに示され、
6:23 われわれをそこから導き出し、かつてわれわれの先祖に誓われた地にはいらせ、それをわれわれに賜わった。 6:24 そして主はこのすべての定めを行えと、われわれに命じられた。これはわれわれの神、主を恐れて、われわれが、つねにさいわいであり、また今日のように、主がわれわれを守って命を保たせるためである。 6:25 もしわれわれが、命じられたとおりに、このすべての命令をわれわれの神、主の前に守って行うならば、それはわれわれの義となるであろう』。 【新共同訳】 申 6:20-25
6:20 将来、あなたの子が、「我々の神、主が命じられたこれらの定めと掟と法は何のためですか」と尋ねるときには、 6:21 あなたの子にこう答えなさい。「我々はエジプトでファラオの奴隷であったが、主は力ある御手をもって我々をエジプトから導き出された。 6:22 主は我々の目の前で、エジプトとファラオとその宮廷全体に対して大きな恐ろしいしるしと奇跡を行い、 6:23 我々をそこから導き出し、我々の先祖に誓われたこの土地に導き入れ、それを我々に与えられた。 6:24 主は我々にこれらの掟をすべて行うように命じ、我々の神、主を畏れるようにし、今日あるように、常に幸いに生きるようにしてくださった。 6:25 我々が命じられたとおり、我々の神、主の御前で、この戒めをすべて忠実に行うよう注意するならば、我々は報いを受ける。」 【新改訳改訂3】 申 6:20-25
6:20 後になって、あなたの息子があなたに尋ねて、「私たちの神、【主】が、あなたがたに命じられた、このさとしとおきてと定めとは、どういうことか」と言うなら、 6:21 あなたは自分の息子にこう言いなさい。「私たちはエジプトでパロの奴隷であったが、【主】が力強い御手をもって、私たちをエジプトから連れ出された。 6:22 【主】は私たちの目の前で、エジプトに対し、パロとその全家族に対して大きくてむごいしるしと不思議とを行い、 6:23 私たちをそこから連れ出された。それは私たちの先祖たちに誓われた地に、私たちを入らせて、その地を私たちに与えるためであった。 6:24 それで、【主】は、私たちがこのすべてのおきてを行い、私たちの神、【主】を恐れるように命じられた。それは、今日のように、いつまでも私たちがしあわせであり、生き残るためである。 6:25 私たちの神、【主】が命じられたように、御前でこのすべての命令を守り行うことは、私たちの義となるのである。」 注解 (聖書の達人2聖書注解)
将来,あなたの息子が〈さとしとおきてと定めとは,どういうことか〉(20)と質問する時,あなたは,①私たちはパロの奴隷であったが,主が力強い御手をもってエジプトから導き出された,②主は私たちの目の前でパロの全家に恐るべきしるしを行われた,③そしてそこから私たちを父祖たちに誓われた地に導き入れるために連れ出された,④私たちが幸せで,いつまでも生き残るために,主を畏れてこれらのおきてに従うよう命じられた,⑤命じられた通りに気を付けて従うなら,私たちは義とされる,と答えなければならない 25節の〈命令を守り行なうことは(ならば),私たちの義となるのである(直訳「義が私たちにあるだろう」)〉は,「恵みの契約」(7:12)における「命令」への従順こそ信仰なのだから,決して信仰義認の教理と矛盾することが教えられていると理解すべきではない.命と幸いとに至る道は,旧・新約聖書全巻を一貫して,主なる神の恵みと御力への信頼と従順にある
火曜日 健康
問4
【口語訳】 出 15:26 言われた、「あなたが、もしあなたの神、主の声に良く聞き従い、その目に正しいと見られることを行い、その戒めに耳を傾け、すべての定めを守るならば、わたしは、かつてエジプトびとに下した病を一つもあなたに下さないであろう。わたしは主であって、あなたをいやすものである」。
【新共同訳】 出 15:26 言われた。「もしあなたが、あなたの神、主の声に必ず聞き従い、彼の目にかなう正しいことを行い、彼の命令に耳を傾け、すべての掟を守るならば、わたしがエジプト人に下した病をあなたには下さない。わたしはあなたをいやす主である。」
【新改訳改訂第3版】 出 15:26 そして、仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、【主】の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行い、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは【主】、あなたをいやす者である。」
注解 (聖書の達人2聖書注解)
26節はその内容を具体的に示すものである.〈もし〉〈なら〉の条件文で示されるのは,神の声に聞き従う,行う,耳を傾ける,守る,ことである.それに対する約束の言葉は,エジプトに下した病気をあなたには下さない,ということである.それに続く〈わたしは主〉(26)は約束に続く常套句であるが,その後の〈あなたをいやす者〉(26)という句は「エジプトの病」と対応している.出エジプトを経験したばかりのイスラエルにとって最も印象深いのは,エジプトにおける神の奇蹟である.エジプトがそれによってさばかれたことはイスラエル人の目にはっきりと焼き付いている.今,マラにおいてイスラエルは神から試みを受けている.エジプトとの違いを神の前で示すことが,イスラエルに求められていることである.しかし「あなたをいやす者」との言葉は,エジプトの病の患いを免れさせる者がヤハウェにほかならないことを示している.この試みに対するイスラエルの応答がどうであったかは記されていない.この段階ではまだすべてが簡潔である
【口語訳】 レビ 7:22-26
7:22 主はまたモーセに言われた、7:23 「イスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは、すべて牛、羊、やぎの脂肪を食べてはならない。 7:24 自然に死んだ獣の脂肪および裂き殺された獣の脂肪は、さまざまのことに使ってもよい。しかし、それは決して食べてはならない。 7:25 だれでも火祭として主にささげる獣の脂肪を食べるならば、これを食べる人は民のうちから断たれるであろう。 7:26 またあなたがたはすべてその住む所で、鳥にせよ、獣にせよ、すべてその血を食べてはならない。 【新共同訳】 レビ 7:22-26
7:22 主はまたモーセに仰せになった。 7:23 イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。牛、羊、山羊の脂肪を食べてはならない。 7:24 自然に死んだ動物や、野獣に殺された動物の脂肪は、いかなる用途に使ってもよいが、食べてはならない。 7:25 燃やして主にささげる物の脂肪を食べる者はすべて自分が属する民から断たれる。 7:26 あなたたちがどこに住もうとも、鳥類および動物の血は決して食用に供してはならない。 【新改訳改訂3】 レビ 7:22-26
7:22 ついで【主】はモーセに告げて仰せられた。 7:23 「イスラエル人に告げて言え。あなたがたは、牛や、羊、あるいはやぎの脂肪をいっさい食べてはならない。 7:24 死んだ動物の脂肪や野獣に引き裂かれた動物の脂肪は、何に使ってもさしつかえない。しかし、決してそれを食べてはならない。 7:25 すべて、火によるささげ物として【主】にささげる動物の脂肪を食べる者、これを食べる者は、その民から断ち切られるからである。 7:26 また、あなたがたのどこの居住地においても、鳥でも動物でも、その血をいっさい食べてはならない。 【口語訳】 レビ 11:1-8
11:1 主はまたモーセとアロンに言われた、 11:2 「イスラエルの人々に言いなさい、『地にあるすべての獣のうち、あなたがたの食べることができる動物は次のとおりである。 11:3 獣のうち、すべてひずめの分かれたもの、すなわち、ひずめの全く切れたもの、反芻するものは、これを食べることができる。 11:4 ただし、反芻するもの、またはひずめの分かれたもののうち、次のものは食べてはならない。すなわち、らくだ、これは、反芻するけれども、ひずめが分かれていないから、あなたがたには汚れたものである。 11:5 岩たぬき、これは、反芻するけれども、ひずめが分かれていないから、あなたがたには汚れたものである。 11:6 野うさぎ、これは、反芻するけれども、ひずめが分かれていないから、あなたがたには汚れたものである。 11:7 豚、これは、ひずめが分かれており、ひずめが全く切れているけれども、反芻することをしないから、あなたがたには汚れたものである。 11:8 あなたがたは、これらのものの肉を食べてはならない。またその死体に触れてはならない。これらは、あなたがたには汚れたものである。 【新共同訳】 レビ 11:1-8
11:1 主はモーセとアロンにこう仰せになった。 11:2 イスラエルの民に告げてこう言いなさい。地上のあらゆる動物のうちで、あなたたちの食べてよい生き物は、 11:3 ひづめが分かれ、完全に割れており、しかも反すうするものである。 11:4 従って反すうするだけか、あるいは、ひづめが分かれただけの生き物は食べてはならない。らくだは反すうするが、ひづめが分かれていないから、汚れたものである。 11:5 岩狸は反すうするが、ひづめが分かれていないから、汚れたものである。 11:6 野兎も反すうするが、ひづめが分かれていないから、汚れたものである。 11:7 いのししはひづめが分かれ、完全に割れているが、全く反すうしないから、汚れたものである。 11:8 これらの動物の肉を食べてはならない。死骸に触れてはならない。これらは汚れたものである。 【新改訳改訂3】 レビ 11:1-8
11:1 それから、【主】はモーセとアロンに告げて仰せられた。 11:2 「イスラエル人に告げて言え。地上のすべての動物のうちで、あなたがたが食べてもよい生き物は次のとおりである。 11:3 動物のうちで、ひづめが分かれ、そのひづめが完全に割れているもの、また、反芻するものはすべて、食べてもよい。 11:4 しかし、反芻するもの、あるいはひづめが分かれているもののうちでも、次のものは、食べてはならない。すなわち、らくだ。これは反芻するが、そのひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。 11:5 それから、岩だぬき。これも反芻するが、そのひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。 11:6 また、野うさぎ。これも反芻するが、そのひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。 11:7 それに、豚。これは、ひづめが分かれており、ひづめが完全に割れたものであるが、反芻しないので、あなたがたには汚れたものである。 11:8 あなたがたは、それらの肉を食べてはならない。またそれらの死体に触れてもいけない。それらは、あなたがたには汚れたものである。 注解 (聖書の達人2聖書注解)
食べてもよい動物は,〈ひづめが分かれ,そのひづめが完全に割れているもの,また,反芻するもの〉(3)である.この2つの条件のどちらか1つでも欠けるものは食べることが出来ない.らくだ,岩だぬき,野うさぎ,豚は,どちらかの条件が満たされず,「汚れたもの」であるので食べてはならず,死体に触れてもいけない(4‐8,参照申14:3‐8)
【口語訳】 レビ 13:46 その患部が身にある日の間は汚れた者としなければならない。その人は汚れた者であるから、離れて住まなければならない。すなわち、そのすまいは宿営の外でなければならない。
【新共同訳】 レビ 13:46 この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。
【新改訳改訂第3版】 レビ 13:46 その患部が彼にある間中、彼は汚れている。彼は汚れているので、ひとりで住み、その住まいは宿営の外でなければならない。
水曜日 出版
*モーセは神の言葉を書き記した最初の人
【新共同訳】 出 17:14 主はモーセに言われた。「このことを文書に書き記して記念とし、また、ヨシュアに読み聞かせよ。『わたしは、アマレクの記憶を天の下から完全にぬぐい去る』と。」 【新共同訳】 出 34:27 主はモーセに言われた。「これらの言葉を書き記しなさい。わたしは、これらの言葉に基づいてあなたと、またイスラエルと契約を結ぶ。」 【新共同訳】 申31:24 モーセは、この律法の言葉を余すところなく書物に書き終えると、 問6
【口語訳】 申 6:1-9
6:1 これはあなたがたの神、主があなたがたに教えよと命じられた命令と、定めと、おきてであって、あなたがたは渡って行って獲る地で、これを行わなければならない。 6:2 これはあなたが子や孫と共に、あなたの生きながらえる日の間、つねにあなたの神、主を恐れて、わたしが命じるもろもろの定めと、命令とを守らせるため、またあなたが長く命を保つことのできるためである。 6:3 それゆえ、イスラエルよ、聞いて、それを守り行え。そうすれば、あなたはさいわいを得、あなたの先祖の神、主があなたに言われたように、乳と蜜の流れる国で、あなたの数は大いに増すであろう。 6:4 イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。 6:5 あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。 6:6 きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、 6:7 努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。 6:8 またあなたはこれをあなたの手につけてしるしとし、あなたの目の間に置いて覚えとし、 6:9 またあなたの家の入口の柱と、あなたの門とに書きしるさなければならない。 【新共同訳】 申 6:1-9
6:1 これは、あなたたちの神、主があなたたちに教えよと命じられた戒めと掟と法であり、あなたたちが渡って行って得る土地で行うべきもの。 6:2 あなたもあなたの子孫も生きている限り、あなたの神、主を畏れ、わたしが命じるすべての掟と戒めを守って長く生きるためである。 6:3 イスラエルよ、あなたはよく聞いて、忠実に行いなさい。そうすれば、あなたは幸いを得、父祖の神、主が約束されたとおり、乳と蜜の流れる土地で大いに増える。 6:4 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。 6:5 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 6:6 今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、 6:7 子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。 6:8 更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、 6:9 あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。 【新改訳改訂3】 申 6:1-9
6:1 これは、あなたがたの神、【主】が、あなたがたに教えよと命じられた命令──おきてと定め──である。あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地で、行うためである。 6:2 それは、あなたの一生の間、あなたも、そしてあなたの子も孫も、あなたの神、【主】を恐れて、私の命じるすべての主のおきてと命令を守るため、またあなたが長く生きることのできるためである。 6:3 イスラエルよ。聞いて、守り行いなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、あなたの父祖の神、【主】があなたに告げられたように、あなたは乳と蜜の流れる国で大いにふえよう。 6:4 聞きなさい。イスラエル。【主】は私たちの神。【主】はただひとりである。 6:5 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、【主】を愛しなさい。 6:6 私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。 6:7 これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。 6:8 これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。 6:9 これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。 注解 (聖書の達人2聖書注解)
この命令は,主が,渡って行って所有する地で守り行うように,〈あなたがたに教えよと命じられた〉(1)おきてと定めである.それは,〈あなたも,そしてあなたの子も孫も〉(2),主を畏れるためであり,そして,命に至るためである.それ故,主が約束された〈乳と蜜の流れる国〉(3)で,幸せになり,大いに増えるよう,聞いて,行うように(気を付けなさい)と告げる.主の契約の約束を得るために,主に対する畏れを具体的に表すために,主の律法は与えられた
4節に始まる有名な〈ヘ〉シェマ・イスラーエール(〈聞きなさい.イスラエル〉)の部分においても,畏れに対応する主への愛を求めると共に,各々自分が正しいと思うことを行ってきたこれまでとは違って,客観的な神的啓示による基準に従い代々にわたって主を畏れることによって約束を得ることが諭される.〈主は私たちの神.主はただひとりである〉は,欄外注「私たちの神,主はただひとりの主である」のほうがよいと思われる.これは抽象的な神の唯一性の主張ではなく,イスラエルにとっては,「ヤハウェ」のほかに神も主もいないこと(参照5:7)の主張である.従って,〈あなたの神,主を愛しなさい〉(5)と言われる.〈精神〉(〈ヘ〉ネフェシュ)は,命,霊魂,理性,あるいは愛,喜び,畏れ,悲しみといったすべての感情の座としての「思い」を意味する.私たちにとって,主はこのお方のほかにはいないのだから,私のすべてをもって愛するということである.主イエスが,神の律法全体の要約として仰せられたのは周知の通りである.その愛は主なる神が求めておられる道で示すべきであるから,〈これらのことばを,あなたの心に〉(6)いつも存在させなければならない.更に,〈子どもたちによく(勤勉に)教え込みなさい〉と命じられるが,「あなたの」全生活における御言葉への従順のあかしによって,子供たちを培うようにということである.それは,単にこの律法の要約を「唱える」(語る),あるいは「シェマ」の告白の継承だけで教えられるのではない.7‐9節の〈これを〉(動詞の複数形語尾)は,6節の〈私がきょう,あなたに命じるこれらのことば〉を指しているのだから,律法の要約ではなく全体のことである.しかし,〈しるし〉や〈記章〉(8)を文字通り身につけるとなると,律法の要約ということになるだろう.この時代は各人が書かれた律法の書を持てる時代ではないから,絶えず思い起すために見えるしるしが必要であったとは考えられるが,要は手にしるしをつけ,額に記章をつけることによって,彼らの行動思想が主の民であることをあかししなければならないということである.少なくとも,これ以後の入国,定住生活において彼らが字義通り形式的にこれを行った言及は聖書には見られない
【口語訳】 申 11:18-20
11:18 それゆえ、これらのわたしの言葉を心と魂におさめ、またそれを手につけて、しるしとし、目の間に置いて覚えとし、 11:19 これを子供たちに教え、家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、それについて語り、 11:20 また家の入口の柱と、門にそれを書きしるさなければならない。 【新共同訳】 申 11 :18-20
11:18 あなたたちはこれらのわたしの言葉を心に留め、魂に刻み、これをしるしとして手に結び、覚えとして額に付け、 11:19 子供たちにもそれを教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、語り聞かせ、 11:20 あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。 【新改訳改訂3】 申 11:18-20
11:18 あなたがたは、私のこのことばを心とたましいに刻みつけ、それをしるしとして手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。 11:19 それをあなたがたの子どもたちに教えなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、それを唱えるように。 11:20 これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。 注解 (聖書の達人2聖書注解)
自分に気を付けるため,あなたの心とあなたの〈たましい〉(〈ヘ〉ネフェシュ,6:5で「精神」と訳されていた語)に,これらの言葉を〈刻みつけ〉(〈ヘ〉スーム,「置く,植える,建てる,課する」の意味),それらをあなたの手に〈しるし〉として,あなたの〈額〉(直訳「目の間」)に〈記章〉として結び付けなさい(18).これは心に刻み付けておくための記章であり,手のわざと頭の働きの根底に,主の言葉が基準として置かれなければならないことを象徴している.
木曜日 神学
参考 (聖書の達人2聖書辞典)
■はんしんろん 汎神論
〈英〉pantheism.神と世界を全面的に,あるいは部分的に同一視する思想を指す.汎神論は,英国の*理神論者ジョン・トーランド(1670―1722年)の命名によるとされる.神即自然という神と*世界を完全に同一視する汎神論のほかに,神と世界とを部分的に同一視する汎神論も存在するが,この汎神論は,神と世界との関係をどのようにとらえるかによって,宗教的にも,哲学的にも様々の形態がある.この汎神論は,強調点を神に置き,世界を神の一部分と見て,世界を神の中に吸収する立場と,世界に重点を置き,世界を唯一の実在とし,神を世界の一部分と見て,神を世界の中に吸収する立場とに分類される.
神と世界とを峻別し,世界に対する神の超越性を主張するキリスト教が支配的になった西洋世界においても,キリスト教の神観に敵対する汎神論の多彩な形態が認められる.神の超越性を否定する神観を提唱するきっかけは種々様々である.深い宗教体験の解釈から,神と人間との根源的同質性を導き出し,そのような根本前提から,神と人間と世界の関係を体系化しようとして,神の超越性を否定することもあるし,無限で絶対的な神の観念は神から独立した世界の存在を排除するという論理的整合性を貫徹することによって,唯一の絶対的実在としての神の中に世界を取り込もうとする場合もある.あるいは世界の悪の存在と世界の創造者なる神の善性とは矛盾しないのかという神義論的問題を回避しようとして,善悪のような概念上の二元的対立は,神の中には存在しない仮象と見なすために,仮象の世界を唯一の実在である神に融合させることによっても生れる. 新プラトン主義者プローティーノス(205年頃―270年)の汎神論はキリスト教神学に大きな影響を与えた.彼はすべての現実的存在の根源として超越的一者を想定し,光源から光が放射するように,この一者からあらゆる存在が必然的に流出するとした.この一者は流出する世界の最下端に位置する物質にまで内在している.ニュッサの*グレゴリオス,*アンブロシウス,*アウグスティーヌス,ボエーティウスのような*教会教父は,汎神論的な神観を受容することはなかったが,プローティーノス,ポルフェリオス,イアンブリコスなどの新プラトン主義の理念を吸収して,キリスト教神学を展開した.*ルネサンス期に,ジョルダーノ・ブルーノ(1548―1600年)は,世界の無限性を主張し,神を世界の生命的原理と見なした.彼によれば,神は世界の諸事物の包括者である限りにおいて,諸事物を超越しているが,世界の諸事物の展開者と解される限りにおいて,諸事物と本質的に一つである.*スピノーザ(1632―77年)は,近代を代表する汎神論者である.彼は神を唯一の絶対的実在とし,世界を構成している精神と物体は,人間によって認識され得る思考と延長という神の属性であると考えた.*ヘーゲル(1770―1831年)の哲学も,絶対者が世界の不断の運動・変化・発展の過程の中で必然的に自己を展開すると主張する点で,汎神論的である. 汎神論は多くの点でキリスト教の教説と相反する.神の超越性が否定されれば,創造者と被造世界との区別は解消され,世界は初めも終りもない永遠的なものになる.神と世界が一つに融合されれば,神の人格性が失われ,世界における真偽,善悪などの二元的対立も仮象になる.神との合一を主張する汎神論の宗教的形態においては,神について言い表したり,理論的考察をしたりすることは一切不可能とされ,神のことばとしての*聖書の権威は否定される.神と世界を峻別することを拒否するならば,聖書的な*救いや*恵みの観念が否定される.人間も根源において神的存在と一つと見なされ,その本性的能力によって神的原理の認識に到達可能とされるからである. 汎神論は*無神論と超越神論の中間的形態であると言われるが,根底において,神とその恵みに依存しない人間の生き方を肯定しており,偽装された実践的無神論と呼ばれてしかるべきものである.神の存在とその唯一性を主張しながら,世界の創造者,保持者としての人格神を否定するならば,汎神論的形態によってしか神は把握されないであろう.現代においても,汎神論は多様な形態において存在し得る可能性を持っている.→有神論,無神論,理神論,神論.(多井一雄)
■アリウス主義
御子従属主義はアリウスによって発展させられている.彼は,唯一神論の擁護のために,キリストを神の理性としてのロゴスから区別し,従って,神ではない存在,しかし,人間以上の存在と考えた.キリストは,超人間的な被造物として,あるいは,最初の被造物として表現されており,神ではないが,だからといって人間でもない存在とされた.アリウスは,サモサタのパウロスの影響を受けたし,オーリゲネースの思想を採用している.アリウスのキリスト論には,すでに,従属主義の中にその萌芽は存在していたのである.このアリウスの思想の危険性を見て取り,激しい論争を交したのが*アタナシオスである.アタナシオスは,御子と御父の同質(*ホモウシオス,homoousios)を主張,御子と御父の異質ahomoiosを主張するアリウス派を退けた.325年,*ニカイア総会議において,アタナシオスの立場が公認された.会議において,*半アリウス主義と呼ばれる御子の御父に対する類質(*ホモイウシオス,homoiousios)を主張した者たちも退けられた. このようにして,御子の全き神性が教会の教理として承認された時に,そこで問題となったのは,キリストの神性と人性の関係をどのように理解するかという問題であった. *アリウス主義を巡っての論争の間,イエスが,人間の霊魂を持っておられたかどうかの問題の意味はまだ認められていなかった.ある意味で,この問題におけるアリウス派とアタナシオス派との間にはある一致すら見られた.アリウス主義者は,受肉したロゴスにおける人間霊魂の存在を否定した.彼らによれば,ロゴスが霊魂の場を占めており,イエスの身体は,それ自体,霊魂を持たない身体であった.アタナシオスが問題にしたのは,人間霊魂の否定ということではなく,ロゴスが,人間霊魂の場を占めるならば,ロゴスは被造物であるという結論に対してであった.アタナシオスは,イエスの人間的霊魂の存在を否定しない.しかし,論争の初期の段階で,アタナシオスは,霊魂の存在の真の意味をとらえていたと言うことはできない.アタナシオスは,御子と御父との同質性を強調するあまり,イエス・キリストの全き人間性を犠牲にする危険を持っていた.彼の関心は,御子の全き神性だったのである.
■三位一体論争.
三位一体の真理内容は聖書の中に啓示されているが,三位一体の教理的表明は突如として出現したわけではない.三位一体論は,歴史的に言えば,異端との対決に触発されながら徐々に形成され,教理的により厳密に告白されていったのである. 三位一体論の教理的形成にとって重要な意味を持った異端として,まず挙げなければならないのは*モナルキア主義(〈英〉Monarchianism)であろう.モナルキア主義は,2―3世紀にかけて東方,西方の区別なく現れた.「モナルキア」とは「単独支配,独裁支配」とか「単一起源」という意味を持つ.従って,モナルキア主義は「独裁神論」あるいは「単一神論」と呼ばれる.その名の通り,この教えの特徴は神の単独支配性,神の単一性の強調にある.この異端にとって特に問題であったのは,当時の正統教会で発展していたロゴス・キリスト論であった.[+]ロゴス・キリスト論は,父なる神の*ロゴスとしてのキリストの中に神的存在を見出していた.この点が,この異端にとっては重大であった.それは二神論への道であり,神の単一性の侵害を意味したからである.そこで彼らは,ロゴス・キリスト論に対決して,二つの方法で神の単一性を擁護しようと努めた.第1のものは「勢力的モナルキア主義」(〈英〉Dynamic Monarchianism),第2のものは「様態的モナルキア主義」(〈英〉Modalistic Monarchianism)と呼ばれる. 第1の「[+]勢力的モナルキア主義」はイエスの人間性の強調によって神の単一性を堅持しようと試みた.イエスは単なる人間であったが,洗礼のとき聖霊を通して神の力(デュナミス)を受け,神性を得て,神の養子とされた.いわゆる「養子説」(〈英〉Adoptionism)の立場である.この説の代表的主唱者はテオドトスやサモサタのパウロスである. 第2の「[+]様態的モナルキア主義」はキリストの神性の強調によって神の単一性を堅持しようと試みた.神は単一者(モナス)であって,父,子,聖霊は同一の神の異なった顕現様態にすぎない.キリストは,天父自身の歴史における顕現様態であり,キリストの受難は天父自身の受難を意味する.いわゆる「天父受難説」(〈英〉Patripassianism)の立場である.この説の代表的主唱者はプラクセアスや[+]サベリウスである. 西方教会において,このようなモナルキア主義の異端と戦い,三位一体の教理的形成に大きな貢献をしたのは*テルトゥリアーヌスである.彼は,モナルキア主義,特に様態的モナルキア主義に対して,父と子と聖霊は三つの位格(〈ラ〉ペルソナ)であるが一つの実体(〈ラ〉スブスタンティア)であると主張した.それは,根と木と実がそれぞれ三つでありつつ同時に一つであるのと同様であると説明した.彼の意図は,一方では多神論であるというモナルキア主義の批判に対して神の単一性を一つの実体の主張によって確保し,他方では三者の区別性を三つの異なる位格的存在の主張によって堅持することにあった.テルトゥリアーヌスは,三位一体を〈三つの位格〉が〈一つの実体〉において存在することと陳述した最初の教父である.しかし,彼においても,例えば,父に対する子の従属性の概念が存在している.従って,テルトゥリアーヌスのところで三位一体の真理の明確な教理的陳述が登場したとはまだ言えないのである. 東方教会においてモナルキア主義と戦い,三位一体論の形成において重要な役割を演じたのは*オーリゲネースである.三位一体論との関連で特に注目されるのは,彼のロゴス・キリスト論である.オーリゲネースにとって神とロゴスの関係は,「本質において同一」(〈ギ〉*ホモウシオス)である.それは,心より意志が,太陽より輝きが生じるように,父より子が永遠不断に生れ続ける(「永遠生誕説」)関係と理解される.このような関係理解によって,神とロゴスの永遠の同質性と区別性が提示されており,*アタナシオスへの道,従って*ニカイア信条への基本的な道備えがされている.他方,オーリゲネースにも父に対するロゴスの従属性の概念がやはり残存している.このような*従属主義はアリオスへの道と結び付いている. 以上のように,モナルキア主義に対する戦いはテルトゥリアーヌスやオーリゲネースなどの教父によって遂行された.その場合,モナルキア主義の批判の矢が主としてロゴス・キリスト論に向けられたために,当然のことながら戦いはロゴス・キリスト論を中心にしてなされた.それは,三位一体の教理的形成において何よりもまずキリスト論的課題の整備が問題になった事情を明らかにしている.テルトゥリアーヌスやオーリゲネースは,この異端に対して神とロゴスの同質性と区別性の明確化に努めたが,従属主義を精算するには至らなかった.この精算がなされるのはニカイア信条においてである. ニカイア信条の成立の背後にはアタナシオスとアリオスとの有名な戦いがある. アリオスは,サモサタのパウロスの線に立脚して神の単一性を堅持しようと努めた.彼にとって,父のみが初めのない方,生れない方であり,子は初めがあり,世界の創造に先立って創造の仲保者として無から創造された者である.従って,父は単独で存在した時があったのであり,後で父になったのである.子は,〈創造に先立って〉という点で世界から区別されるが,〈無から創造された〉という点で被造物の側に立つ.つまり,子は,神と被造物の中間的存在であり,一種の〈半神半人的存在〉と性格付けられよう.ここでは父に対する子の従属性が明白な形で現れている. 一方,アタナシオスにとっては,子は永遠に父より生れ(「永遠の生誕」),父と同質(〈ギ〉ホモウシオス)である.また,子は造られたものではなく,被造物とは異質(〈ギ〉ヘテロウシオス)である.アタナシオスにあっては,父に対する子の従属性は徹底的に排除された. アタナシオスの立場は325年の*ニカイア総会議において確定され,子の〈父との同質〉が信条として表明され,ここに従属主義は公的に精算された.さらに,キリスト論的課題として次に問題となる〈二性一人格論〉は451年の*カルケドン総会議において解決を見,信条的に確定されたのである. 聖霊の問題についても従属主義が精算されねばならなかった.2―3世紀にはまだ聖霊について明白な概念に到達していない.オーリゲネースは聖霊を子に従属させ,子によって造られたものに数え入れた.4世紀になってアリオスは,オーリゲネースと一致しつつ,聖霊を子による最初の被造物とし,子に従属するものと考えた.これに対してアタナシオスは,聖霊が子の場合と同様に〈父と同質〉であると主張した.アタナシオスの立場をさらに前進させたのはカッパドキアの三教父,大バシレイオス,ニュッサの*グレゴリオス,ナジアンゾスのグレゴリオスの3人である.当時,アリオスと同じように聖霊を子に従属する一被造物と見なしていたマケドニオスとその一派に対して,彼ら三教父は聖霊の父との同質性を強調し,同時に聖霊が父及び子と等しい一位格であることを明確にした.三教父は三位一体のより厳密な内容規定の点でも重要な貢献をした.彼らによれば,〈ウシア〉は共通の本質,あるものの固有な性質を,〈ヒュポスタシス〉(位格)は他のあらゆるものから区別される個別的自存性を意味した.これによって,神には唯一の本質(ウシア)とともに相互に区別される三つの個別的存在(ヒュポスタシス)があることが明瞭に定義され,サベリウス主義が克服されたのである.最後的にマケドニオス派の誤謬(ごびゅう)が排斥されて,聖霊の神性についての鮮明な信条的定式化が起ったのは381年の*コンスタンティノポリス総会議においてである.325年のニカイア信条では単純に「聖霊を信じる」と表明されただけであった.しかし,このコンスタンティノポリス総会議では,
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