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작성자 Tongky 작성일09-02-10 08:31 조회3,862회 댓글0건첨부파일
- 第07課預言者の働き.docx (87.4K) 27회 다운로드 DATE : 2009-02-10 08:31:24
본문
第7課 預言者の働き
暗唱聖句
【口語訳】 ホセ 12:13 主はひとりの預言者によって、イスラエルをエジプトから導き出し、ひとりの預言者によってこれを守られた。
【新共同訳】 ホセ 12:14 主は一人の預言者によって/イスラエルをエジプトから導き上らせ/預言者によって彼らを守られた。
【新改訳改訂第3版】 ホセ 12:13 【主】はひとりの預言者によって、イスラエルをエジプトから連れ上り、ひとりの預言者によって、これを守られた。
【リビング・バイブル】 ホセ 12:13 神様はその国民をエジプトから連れ出すために一人の預言者を立て、彼らを導き、守るようにさせた。 <NKJV> Hos 12:13 By a prophet the Lord brought Israel out of Egypt,And by a prophet he was preserved.
<KJV> Hos 12:13 And by a prophet the LORD brought Israel out of Egypt, and by a prophet was he preserved. <NIV> Hos 12:13 The LORD used a prophet to bring Israel up from Egypt, / by a prophet he cared for him. <TEV> Hos 12:13 The Lord sent a prophet to rescue the people of Israel from slavery in Egypt and to take care of them.
J-ばいぶるHEBREW 原書講読画面
Hos 12:13
~yIr'c.Mimi laer'f.yI-ta, hw"hy> hl'[/h, aybin"b.W
rm'v.nI aybin"b.W
rmv aybin" B w ~yIr;c.mi !mi laer'f.yI tae hwhy hl[ aybin" B w
<文法解析ノート> Hos 12:13
1> w (接続詞) @PcN [51275] <10012>…と…
2> B (前置詞) @PpN [15799] <10007>中,(理由,代価,手段,場所,時の)で
3> aybin" (普通名詞男単) @ncmsN [317] <5030>預言者
4> hl[ (動詞Hif完3男単) @vhp3msN [894] <5927>上る,登る,ささげる
5> hwhy (固有名詞) @npN [6828] <3068>ヤーゥェ:まことの神の固有名詞 主
6> tae (定目的語記号) @PoN [11873] <853>目的格記号
7> laer'f.yI (固有名詞) @npN [2515] <3478>イスラエル
8> !mi (前置詞) @PpN [7717] <4480>~から,~より
9> ~yIr;c.mi (固有名詞) @npN [681] <4714>エジプト
10> w (接続詞) @PcN [51275] <10012>…と…
11> B (前置詞) @PpN [15799] <10007>中,(理由,代価,手段,場所,時の)で
12> aybin" (普通名詞男単) @ncmsN [317] <5030>預言者
13> rmv (動詞Nif完3男単) @vnp3msN [469] <8104>守る,見張る,気をつける
日曜日 福音を宣べ伝える
問1
【口語訳】 創 22:1-14
22:1 これらの事の後、神はアブラハムを試みて彼に言われた、「アブラハムよ」。彼は言った、「ここにおります」。 22:2 神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。 22:3 アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。 22:4 三日目に、アブラハムは目をあげて、はるかにその場所を見た。 22:5 そこでアブラハムは若者たちに言った、「あなたがたは、ろばと一緒にここにいなさい。わたしとわらべは向こうへ行って礼拝し、そののち、あなたがたの所に帰ってきます」。 22:6 アブラハムは燔祭のたきぎを取って、その子イサクに負わせ、手に火と刃物とを執って、ふたり一緒に行った。 22:7 やがてイサクは父アブラハムに言った、「父よ」。彼は答えた、「子よ、わたしはここにいます」。イサクは言った、「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」。 22:8 アブラハムは言った、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」。こうしてふたりは一緒に行った。 22:9 彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。 22:10 そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、 22:11 主の使が天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブラハムよ」。彼は答えた、「はい、ここにおります」。 22:12 み使が言った、「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。 22:13 この時アブラハムが目をあげて見ると、うしろに、角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行ってその雄羊を捕え、それをその子のかわりに燔祭としてささげた。 22:14 それでアブラハムはその所の名をアドナイ・エレと呼んだ。これにより、人々は今日もなお「主の山に備えあり」と言う。 【新共同訳】 創 22:1-14
22:1 これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、 22:2 神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」 22:3 次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。 22:4 三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、 22:5 アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」 22:6 アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。 22:7 イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」 22:8 アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。 22:9 神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。 22:10 そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。 22:11 そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、 22:12 御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」 22:13 アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。 22:14 アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。 【新改訳改訂3】 創 22:1-14
22:1 これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります」と答えた。 22:2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」
22:3 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。 22:4 三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。 22:5 それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る」と言った。 22:6 アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。 22:7 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」 22:8 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。 22:9 ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。 22:10 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。 22:11 そのとき、【主】の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」 22:12 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」 22:13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。 22:14 そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「【主】の山の上には備えがある」と言い伝えられている。
注解 (聖書の達人2聖書注解)
この時のアブラハムの年齢については直接の言及はないが,イサクはたきぎを負うことが出来たので(6)少なくとも14,5歳にはなっていただろう,とすると,アブラハムが114,5歳の頃ということになる イサクを全焼のいけにえとしてささげるようにとの衝撃的な神の言葉は,アブラハムにとって,神を畏れ,神の御声に聞き従えるかどうか(12,18)の最大の試練であった.それは,何ものをも自分の私物とせず,すべてを神にささげる生活を実践し,神への無条件の信仰を持つようにとの神の要求を意味した イサクはアブラハムに奇蹟的に与えられた老年の子,イシュマエルが去った後では文字通り残された愛する〈ひとり子〉(2)であった.その子をいけにえとすることは,自分の人間的な愛を神のために否定すること,それに自分の家系の存続を危うくすることであった.しかしこのことは単にアブラハムが自分の持っているもの,または将来持つであろうものを放棄する問題ではなく,宗教的,倫理的,論理的な難題でもあった.イサクは単に人間的な意味でのアブラハムの愛するひとり子であったのではなく,神の約束(12:2‐3,13:16,15:4‐5,17:4‐8,18:18‐19,22:17‐18)の成就に不可欠な者,要となる存在としての〈ひとり子〉であり(21:12,ヘブ11:18),そのことはアブラハムにも知らされていた.そのイサクをいけにえにせよということは,人間的に言えば神の約束に逆らえということになり,そのように仰せられる神は自己矛盾の神ということになる.また人身をいけにえとすることは,むしろ異邦宗教の習わしであって,聖書ではモーセの律法で厳しく禁じられており(レビ18:21,申18:10),それに殺人行為でもある しかしアブラハムにとって,それでも神は唯一の信頼すべきお方である.「すべての人を偽り者としても,神は真実な方である」(ロマ3:4).人間の理性では受け入れられなくても神の約束は確実に成就する.「彼は望みえないときに望みを抱いて信じ」(ロマ4:18),人間的には矛盾する神の言葉をそのまま受け入れた.これを通して復活の望みをさえ与えられたのである(ロマ4:17,ヘブ11:19) かくしてアブラハムは,神の特別なあわれみにより,選びの民の父にふさわしく,信仰の父として自分の信仰を実際に行いに具体化し(ヤコ2:21‐24),あかしを立てることが許されたのである 神の御声に聞き従ってのカラン出立(12:4)がアブラハムの信仰の出発点だとすれば,神のお言葉通り愛するひとり子イサクをささげ得た体験はアブラハムの信仰生活の頂点だと言える.聖書の記述としては,神のアブラハムへの直接の語りかけはこの機が最後になっている 〈神はアブラハムを試練に会わせられた〉(1).読者(聴衆)のための情報で,アブラハムには知らされていない事実 〈モリヤの地〉(2).後にソロモンが神殿を建てたモリヤ山(Ⅱ歴3:1)のある地域であろう.〈1つの山〉がモリヤ山であった可能性は大きい.モリヤ山が主の山と呼ばれるようになったのは,主がダビデにご自身を現されてから(Ⅱ歴3:1)ではなく,恐らくそれ以前にすでにアブラハムの時代からであったと考えられる.すでにその地はメルキゼデクとの関連でアブラハムには特別の地として記憶されていたのだろう(14:18‐20,シャレム=シオン,詩76:2).アブラハムがモリヤの地に行き神の示す1つの山でイサクをささげるように言われた時,その地点を知っていたと思われるのは(3‐4)そのためだろう 〈自分の子イサクを縛り〉(9).詳細は一切記されていないが,恐らくイサクの同意を得てのことだろう.イサクはアブラハムの神への従順に従った.イサクはそのようなことが可能なように育てられていただろうし,この時は特に神のあわれみがあったと思われる 〈雄羊を……自分の子の代わりに,全焼のいけにえとして〉(13).レビ記に規定されている代償のいけにえ(例:レビ1:4)に先行するもの
【口語訳】 レビ 4:27-31
4:27 また一般の人がもしあやまって罪を犯し、主のいましめにそむいて、してはならないことの一つをして、とがを得、 4:28 その犯した罪を知るようになったときは、その犯した罪のために供え物として雌やぎの全きものを連れてきて、 4:29 その罪祭の頭に手を置き、燔祭をほふる場所で、その罪祭をほふらなければならない。 4:30 そして祭司は指でその血を取り、燔祭の祭壇の角にこれを塗り、残りの血をことごとく祭壇のもとに注がなければならない。 4:31 またそのすべての脂肪は酬恩祭の犠牲から脂肪を取るのと同じように取り、これを祭壇の上で焼いて主にささげる香ばしいかおりとしなければならない。こうして祭司が彼のためにあがないをするならば、彼はゆるされるであろう。 【新共同訳】 レビ 4:27-31
4:27 一般の人のだれかが過って罪を犯し、禁じられている主の戒めを一つでも破って責めを負い、 4:28 犯した罪に気づいたときは、献げ物として無傷の雌山羊を引いて行き、 4:29 献げ物の頭に手を置き、焼き尽くす献げ物を屠る場所で贖罪の献げ物を屠る。 4:30 祭司はその血を指につけて、焼き尽くす献げ物の祭壇の四隅の角に塗り、残りの血は全部、祭壇の基に流す。 4:31 奉納者は和解の献げ物から脂肪を切り取ったように、雌山羊の脂肪をすべて切り取る。祭司は主を宥める香りとしてそれを祭壇で燃やして煙にする。祭司がこうして彼のために罪を贖う儀式を行うと、彼の罪は赦される。 【新改訳改訂3】 レビ 4:27-31
4:27 また、もし一般の人々のひとりが、【主】がするなと命じたことの一つでも行い、あやまって罪を犯し、後で咎を覚える場合、 4:28 または、彼が犯した罪が自分に知らされたなら、彼は犯した罪のために、そのささげ物として、傷のない雌やぎを連れて来て、 4:29 その罪のためのいけにえの頭の上に手を置き、全焼のいけにえの場所で罪のためのいけにえをほふりなさい。 4:30 祭司は指で、その血を取り、それを全焼のいけにえの祭壇の角に塗りなさい。その血は全部、祭壇の土台に注がなければならない。 4:31 また、脂肪が和解のいけにえから取り除かれる場合と同様に、その脂肪全部を取り除かなければならない。祭司は【主】へのなだめのかおりとして、それを祭壇の上で焼いて煙にしなさい。祭司は、その人のために贖いをしなさい。その人は赦される。
【口語訳】 イザ 53 章
53:1 だれがわれわれの聞いたことを/信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。 53:2 彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。 53:3 彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。 53:4 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。 53:5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。 53:6 われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。 53:7 彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。 53:8 彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。 53:9 彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。 53:10 しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。 53:11 彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。 53:12 それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に/物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。 【新共同訳】 イザ 53 章
53:1 わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。 53:2 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。 53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。 53:4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。 53:5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。 53:6 わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。 53:7 苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。 53:8 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。 53:9 彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。 53:10 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。 53:11 彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。 53:12 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。 【新改訳改訂3】 イザ 53 章
53:1 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。【主】の御腕は、だれに現れたのか。 53:2 彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。 53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。 53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。 53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、【主】は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。 53:7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。 53:8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。 53:9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。 53:10 しかし、彼を砕いて、痛めることは【主】のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、【主】のみこころは彼によって成し遂げられる。 53:11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。 53:12 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。
注解 (聖書の達人2聖書注解)
53章 その苦難のしもべを最もよく告げているのが53章である.〈私たち〉(1)との冒頭の表現は,イザヤ自身を含めたイスラエルの民を意識したもので,通常では想像も出来ないような特異な仕方で神の主権的御旨が啓示されたことを強調している.今まで誰にも知らされなかったような特別な方法で神はご自分の計画を啓示されるのである.究極的には,預言としてのメシヤによる贖罪の唯一性を意味している.新約的に言えば,キリストの十字架の代償死の絶対的唯一性とも言い得る.この「苦難のしもべ」は〈若枝のように芽生え〉(2)る.すなわちメシヤでありながら,その生れ育つ状況は苦難に満ちたものであり,決して人々があこがれるようなものではなかった.むしろ,人々からはあざけられ,のけ者にされ,疎外され,いじめられるような存在である.最後には,イザヤは自分をも含める表現で,〈私たちも彼を尊ばなかった〉(3)と言う苦難のしもべのそのような苦難は,彼自身に理由があるのではなく,他の人々のためのものであり,身代り的,代償的なものである.自分自身が何か悪事をなし,報いとして災いを受けるというのではなく,刑罰を受けるべき者たちの身代りとなって刑罰を受け,傷つけられ,苦しめられるのである.苦難のしもべは,〈私たち〉(5)に平和を与え,いやしを与えるために,身代りになった.イザヤは自分自身をも含めてこの「私たち」を反復する.注目すべきは,〈主は,私たちのすべての咎を彼に負わせた〉(6)という言葉である.この「苦難のしもべ」である「主のしもべ」は,まさにイエス・キリストの代償死としての十字架の苦難と,それに至るまでの主キリストご自身の生涯を預言していると言い得る 次の箇所(7‐9)は,「主のしもべ」がその苦難を「どのように」歩み,どのように生涯を終えるかを示している.すなわち彼は,人々の身代りとなるという目的の完成のために,極度のあざけりと暴力の中を忍耐と服従をもって歩み,人々の賞賛を受けようともせず,その生涯を終える.〈悪者ども〉は犯罪人や囚人を指し,〈富む者〉は不正をもって民衆を圧迫し,財を築いた者を指していると思われる(9).ピラトの庭からヴィア・ドロロサ(苦難の道)を通り,重い十字架をかつぎながらゴルゴタの丘へと,ひとり歩いて行かれるイエスの姿を見るようである 最後の部分(10‐12)において注目すべきは,6節の「主は,私たちのすべての咎を彼に負わせた」との言葉が,更に明瞭にされていることである.「主のしもべ」が苦難の道を歩み,代償死を遂げることは,〈主のみこころであった〉(10).また,繰り返すように〈主のみこころは彼によって成し遂げられる〉(10)とも述べられている.「主のしもべ」自身も,「主(神)のみこころ」を成し遂げることに最善の喜びと満足を覚える(11).この「主のしもべ」の苦難と死なくしては,神の救済のみわざは成し遂げられなかったと言い得る.メシヤとしてのキリストの十字架上の死が,敗北でなく,勝利の道であったことが,〈分捕り物としてわかちとる〉(12)という表現に見られる.また,その「主のしもべ」であればこそ,大祭司として〈多くの人の罪を負い,そむいた人たちのためにとりなしをする〉(12)ことの出来るメシヤたり得るのである.私たちの主,イエスこそ,その大祭司である(参照ヘブ4:14‐16)
参考 (聖書の達人2聖書辞典)
■すくい 救い 救いと訳されるおもな原語に〈ヘ〉イェーシャ,〈ギ〉ソーテーリアがある.〈ヘ〉イェーシャは,広さ,拡大などの原意を持ち,後に安楽,安全,戦いに勝つなどを意味するようになった.また〈ギ〉ソーテーリアは,治癒,回復,贖い,救済,解放などの意味に用いられている.いずれの語も,人間を不幸にする圧迫,脅威,危険から人間を解放し,健康,自由,真の幸福を与えることを意味している. どのような宗教にも共通して見られることは,その神が信奉者を救出するという概念を持っていることである.旧約聖書の前半部分において救いは,神がそのしもべ個人個人に敵の手から逃れる道を備えたり,束縛からの解放や広大な地での建国などへの助力を与えることを意味し,後半の部分では,道徳的,霊的状態の祝福,国境を越えて拡大する至福の生活などを強調している.新約聖書においては,人の罪への隷属や危険からの救いが,キリストのみに見出されるものとして示されている. このように聖書は救いについてまず人間の経験を出発点とし,具体的状況からの救出を意味する語を用い,さらにその内容が道徳的,霊的救いという神の働きの最も本質的なものへと向かっている.そしてまた神がいかに救いのための基盤を備え,与え,神御自身が救いそのものであるかを明示している.実に救いは聖書理解のかぎとなる主題である. 1.旧約聖書における救い.(1)歴史的出来事と救い.イスラエル人は初め,救いをこの地上的なことに焦点をおいて考えていたようである.その内容を端的に表すものとして,長命と繁栄,物質的祝福,豊かな土地,収穫などがあげられている(申5:16,7:13‐15).これらの救いは律法,戒めを遵守するという倫理的行動に伴って神から与えられるものである(申4:40,5:33). また,イスラエルが民族的危機に直面した時,神は必ず彼らを救うとの確信が旧約聖書の底流となっている.それは,この民の過去の歴史における最も重大な出来事である出エジプトを通して現された神の救いのわざに基づいている.神は出エジプトに際して,イスラエルの民をエジプトにおける隷属状態から贖い出し,解放して救い出したのである(出6:6,14:13,15:1‐18).やがて「救い」は,国民的勝利と同一に見なされ,イスラエルに反抗する敵が打ち破られると,それは神がイスラエルのために直接手を下した結果である,と受け止められるようになった(申20:3‐4).その後のイスラエルの歩みにおいても,この救いの概念は変らず,民のうちに持ち続けられた.戒めを破り,背信し,偶像礼拝を行うなどの罪を犯し,その罰として敵の足下に隷属させられるが,悔い改めて神に立ち返ると,神が遣わされた指導者を通して,あるいは御手のわざによって救い出される.この罪と救いの循環的な繰返しのサイクルの中に,敵に対する勝利としての救いを見出すことができる(士3:7‐15).そして真の神の臨在こそが,彼らの救いの源であることが明らかにされていく. (2)民の罪と救い.初め救いの単位は,民全体か,少なくとも家族ごとであった(創6:18,19:12).家族の一人の罪により,他の者たちまでが救いを失い,共同体全体が苦しみ,さばきを受けた(ヨシ7:24,Ⅱサム21:6).しかし個人の罪の責任の概念も少しずつ把握されていき(申24:16,エレ31:29‐30,エゼ14:14,18:4),罪を犯さない者は一人もいない(Ⅰ列8:46,伝7:20)と表明されるようになった.人が民族の安定と福祉を破壊するような社会的罪,不正・不義などの倫理的罪,祭儀の規定や食事の規定などを破る祭儀的罪,そして背信・偶像礼拝などの霊的罪を犯した時に「救い」を喪失し,神およびその民との交わりを絶たれる.しかしある種の罪は,悔改めと供犠により神のさばきを免れた. 正しき者の危機・苦しみからの救いは,その祈りの中に示されている.義人の救いは神からくる(詩33:18‐19).危険にさらされた時,神だけが救いの確証であり,多くの人々が主の御名を呼び求めて救い出されている(詩107:13,19,ダニ3:28,6:27).人の力を頼みとする高慢と尊大さとが打ち砕かれ,神に対する謙遜と信頼,服従のあるところに救いが実現している. (3)終末的な預言と救い.旧新約聖書の両方に共通していることは,救いがその時点において真実であり,すでに成就しており,その力は人々のうちに働いているが,しかしすべての悩みや苦難がなくなる全的な実現,すなわち最終的完成は未来のこととしていることである.旧約において神の救いは出エジプト,荒野での救助と導き,侵入してきたアッシリヤ軍の打破,バビロン捕囚からの解放などにすでに現されているが,神の民の最終的な贖いは「終りの時」「主の日」まで待つことになる(イザ35:4,45:17,52:10,エゼ34:14).2.新約聖書における救い.(1)福音書における救い.バプテスマのヨハネは「神の国」の出現が間近いことを告げ,それに先立つ悪しき者への火のさばきと義なる者への聖霊の授与とを約束している(マタ3:2,ルカ3:2‐17).ヨハネの告げる神の国は,神の終末的,王的支配を意味するが,彼はその備えのために,民族的特権への過信に対する警告のメッセージを伝え,悔改めを迫り,その外的しるしとして水のバプテスマを施した. バプテスマのヨハネによって進められた終末的信仰覚醒運動は,イエスによって受け継がれ,「悔い改めなさい.天の御国が近づいたから」(マタ4:17)と宣言された.この宣言は「さばきが近づいた.悔い改めて,さばかれないようにしなさい」という意味である.イエスの教えはこのように未来的な内容を持ち,積極的には神の国に入ることを,消極的にはやがてくるさばきからの救いを示している. 共観福音書では,イエスによる「救い」が病人のいやし(参照マタ9:21‐22欄外注)から進められ,預言の成就としてのメシヤの到来が強調されている(ルカ4:18‐21).またガリラヤ湖の嵐を静めて弟子たちを救い(マタ8:23‐27),おぼれかかったペテロを助けて(マタ14:31),イエスへの信仰を求めている.そして身体的な苦しみと霊的な罪からの救い主として病人をいやし(マコ2:10),罪深い者に罪の赦しと救いの訪れとを告げている(ルカ7:48,19:9).ヨハネの福音書は,イエスが神の御子であることを明らかにする奇蹟(しるし)を7つ取り上げ,イエスこそキリストであり,彼を信じ受け入れる者を「神の子ども」とし,これに永遠のいのちを与え,滅びから「救う」ことを示している(ヨハ1:12,3:36). このように神の終末的,王的支配はイエスと共に到来した.イエスはこの世をさばくためではなく,人々を罪責,律法の束縛,苦難,死,悪魔,滅びから解放し,失われた者を尋ね出して救い,豊かにいのちを与えるために世に来られたのである. (2)使徒たちの教え.イエスの復活と聖霊の降臨の後,使徒たちは「救い」が旧約の預言通り成就したことをその宣教の主題とした.また彼らがイエスの名によって行った奇蹟も,この宣教の主題を確認するものであった(使3:6,4:9‐12,16:18).この曲った時代から救われる条件は,イエスを信じること(使16:31),その名を呼び求めること(使2:21)であった.そしてこの福音は,まずユダヤ人に,次に異邦の民へと伝えられていったのである(使11:19,28:28). 福音の前進に伴い,「救い」と罪の概念はさらに明確にされていった.罪とは神の律法の侵犯であり(Ⅰヨハ3:4),神の正義に対するとが,神の聖に対する汚れ,不信である(ロマ1:24).この罪の結果は,神へのきよい愛の欠如,道徳的性質の腐敗,悪に偏向した堕落と,神の怒り(ロマ1:18)の罪責,肉体的,霊的,永遠的の三重の性格を持つ死の刑罰をもたらした(ロマ6:23,エペ2:1).この罪の力に束縛された人類に,神は御子を遣わし,「すべての人が救われて,真理を知るようになるのを望んでおられる」(Ⅰテモ2:4,Ⅰヨハ4:14).御子イエスは十字架の死と復活により罪の贖いのわざを完成し,「従うすべての人々に対して,とこしえの救いを与える者」となられた(ヘブ5:9).このイエス・キリストの出来事を伝える福音は「信じるすべての人にとって,救いを得させる神の力」であり(ロマ1:16),信じて信仰を告白する者は救われ(ロマ10:9),バプテスマを受けることにより,確かなものとされる(Ⅰペテ3:21).実に救いは,人間のわざによるのではなく,神のあわれみと恵みと聖霊の働きにより与えられるのである(Ⅱテモ1:9,テト3:5). (3)救いの完成を目指して.「救い」は,キリストの贖いのわざによって現実化し,信じ受け入れる者はこの世においてその祝福を先取りすることができるが,この「救い」の最終的完成は歴史の終りの時まで待つべきものとされている(Ⅰペテ1:5).人の「救い」の体験は時間的に見ると,過去,現在,未来の三重の様相を呈しており,それぞれを救いの所有性,進展性,待望性と表現することができる. a.所有性.信仰者は「救い」の相続者とされ(ヘブ1:14),その罪を赦され完全に義なる者とされている(ロマ5:1).そしてキリストの贖いにより神と和解し(Ⅱコリ5:18),すべての悪からきよめられ(Ⅰヨハ1:9),神の子供である確信を聖霊によって与えられている(ロマ8:16).これらは人が信じて救われた時に,神から与えられた恵みの賜物である. b.進展性.神の恵みによって始められた救いのわざを信じ受け入れた者は,聖霊の助けにより,救いの達成に努めなければならない(ピリ2:12).そして,不敬虔と汚れと世的欲望が渦巻く邪悪な時代の中にあって,世の光として輝くことを求められている(ピリ2:16).そのために,たましいを救う力を有し,信仰を養い,神のみこころを示すみことばに親しみ,それに従うことが肝要である(Ⅱテモ3:15,ヤコ1:21).また聖霊の助けにより聖化の実現をはかり(Ⅱコリ7:1),ますます神の御性質にあずかる者となり(Ⅱペテ1:4),愛の奉仕にいそしみ,多くの実を結び,神に栄光を帰す者となるのである(ヨハ15:8,ガラ5:22‐23). c.待望性.信仰者はこの世にあってすでに「救い」の恵みと力にあずかり,その祝福を味わうことができるが,救いのすべてが完全に実現しているわけではない(ヘブ9:28).永遠の祝福,からだの贖い,神のさばき,キリストの再臨など,将来の「この望みによって救われている」(ロマ8:24)のである.信仰者は「救い」を得るように定められているが(Ⅰテサ5:9),終りの時までその救いによって相続するものを待たなければならない(Ⅰペテ1:5).信仰者は,この救いの完成の時が間近になっていることを覚え,信仰の歩みを確かにすることが求められている(ロマ13:11).そして救いが完成する時,信仰者は悪と病気と苦難,死などから全く解放され,生ける真の神を賛美しつつ,御前に親しく仕えるようになるのである.それは神なるキリストの悪魔の勢力に対する真の勝利と共に実現する(黙7:10,21:3‐4).(本辞典「あがない」の項を参照).
参考 (聖書の達人2聖書辞典)
■さいし 祭司
1.聖所と祭司.旧約聖書で祭司に当る語は〈ヘ〉コーヘーンである.新約聖書では〈ギ〉ヒエリュースである.イスラエルではレビ部族の者が祭司になった.祭司のおもな働きはいけにえをささげ,契約の律法を教えることであった.しかし神にいけにえをささげ,律法を教える者がすべて祭司なのではない.ノアは主に祭壇を築いて,いけにえをその上にささげた(創8:20).アブラハムも祭壇を築き(創12:7,13:18,22:9),いけにえをささげた(創22:13).イサクも同様にした(創26:25).ヤコブもベテルに祭壇を築いている(創35:7).しかしこれらの族長たちが祭司と呼ばれたことはない.モーセも祭壇を築き,従者である若者にいけにえをささげさせた(出24:4‐5,17:15).しかしモーセは祭司とは呼ばれていない.レビ系の祭司制度が確立し,聖所が建てられて後にも,民の指導者が祭壇を築いたりいけにえをささげたりすることは行われていた.ヨシュア(ヨシ8:30‐31),ダビデ(Ⅱサム6:17以下),ソロモン(Ⅰ列8:5,63‐64)などがそうである.一般的には,聖所が設立され,そこにおいて中心的な奉仕をする職務を与えられた者が祭司と呼ばれる.旧約聖書において最初に祭司という名称が用いられるのはシャレムの王メルキゼデクであり,彼は「いと高き神の祭司」と呼ばれている.彼は,東方の王たちの連合軍を打ち破り,おいのロトを無事に救出して帰還したアブラハムを祝福した.彼はカナンの神の祭司であったが,その神は「天と地を造られた方,いと高き神」であった(創14:19).アブラハムはメルキゼデクに,戦いで得たものの十分の一を与えただけでなく,彼自身も誓いのことばの中で「天と地を造られた方,いと高き神,主」と呼んでおり,彼に現れ,召命と約束を与えた神と,メルキゼデクの神とが同一の神であることを認めている.シャレムは後のエルサレムであり,そこに神殿が建てられ,神殿を建てたソロモン王を補佐する祭司ツァドクとのつながりを見ることができる.メルキゼデク(〈ヘ〉マルキーツェデク)は,シャレム(〈ヘ〉シャーレームは,〈ヘ〉シャーロームと同じ意味に用いられる.これはまたソロモン王,〈ヘ〉シェローモーともつながる)において「いと高き神」(〈ヘ〉エール・エルヨーン)にささげられた神殿あるいは聖所で,祭司として仕えていた.また,モーセがパロのもとから逃亡してその庇護を受けたイテロ(レウエル)はミデヤンの祭司と呼ばれ,モーセはその娘チッポラと結婚した(出2:16‐21).イテロが祭司と呼ばれたのは,やはりミデヤンに聖所があったからであろう.このイテロは後に,エジプトを出たイスラエルとシナイの荒野で出会い,イスラエルの神,主の偉大さを認めている(出18:10‐11). モーセはアロンとその息子たちを聖別して祭司に任じ幕屋での奉仕に当らせた.彼はまたレビ部族を聖別し幕屋の運搬の仕事に当らせた.しかしモーセは民数記において,幕屋がカナンにおいて定住の地を得て後に,レビ部族の働きがどうなるかについて規定しなかった.幕屋が定住の状態になった時,アロンの子らの数だけでは祭司の職務は十分に果せなくなる.そのために,申命記ではレビ人の中の多くの者が祭司職に属する仕事をするように規定されている.このように,五書の中にも,すでに祭司職についての教えの発展がある.イスラエルにおいて聖所はシナイにおける啓示によって初めて造られた.出エジプト記は大きく分ければ,神の民の救出による神の勝利の賛美と,救われた神の民が神の家である聖所を建て,それを中心にした聖なる民としてつくり上げられていくという2つの主題から成っている.出15章の,モーセとイスラエルが歌った葦の海(紅海)の歌はこの2つの主題の関係をよく示している.すなわち12節までが民の救出であり13節以下が聖所の建設である.イスラエルの民が「祭司の王国」(出19:6)と呼ばれるのは,彼らが聖所を持ち,これに仕える生活を中心として形成されるからである.したがってシナイ律法の中心は,幕屋すなわち聖所の建設とそこで奉仕する祭司の任職のことである.イスラエルの生活は,聖所を中心とし,その中心に近いものほど聖の度合が濃いものと考えられる.出エジプト記はアロンの年に1度の至聖所における贖罪の働きを「最も聖なるもの」とし,これを取り巻くような形で聖なる物,人,時を配置するのである(出30:10).また,この聖所の運搬に当るレビ人は一般の人々に比べるならば聖なる者であるとされる.そして聖所が一定の場所に建てられる時,運搬のための働きは必要でなくなる代りに,多くのレビ人が聖所における複雑な用に当るために,祭司として用いられるようになるのである.エゼキエルは,捕囚の時代に,理想の神殿とそこにおける聖なる祭司の働きについての啓示を与えられた.長いイスラエルの歴史の中で,レビ人たち多くの祭司の補助者が,宮の物を汚すような愚かなことを行ったことの罰として,その仕事から除かれ,忠実な祭司ツァドクの子孫のレビ人の祭司たち(エゼ44:15)のみが祭司の仕事をするように命じられる.これは,荒野の時代にアロンとその子らのみが聖所で仕えた時を理想とする考えである.イスラエルが約束の土地カナンに入った時,聖所が建てられる地として最初に選ばれたのはシロであった(ヨシ18:1).ところが士師の時代になると聖所も祭司制も乱れ始めた.エフライム族のミカは聖所を持ち,その息子を自分の祭司とした(士17:1‐6).後に彼はレビ人を祭司とし(士17:7‐13),その後ダン部族がこの聖所と祭司を奪って自分たちのものとした(士18:1‐31).シロの聖所はエリが祭司であった時にペリシテ人によって破壊された(Ⅰサム4:11,エレ7:12).その後エリの子孫がノブに聖所を建てた.ノブは「祭司の町」(Ⅰサム22:19)と呼ばれているが,ヨシュア記に出てくるレビ人の町のリストの中にはない.ノブはエルサレムとアナトテの間にあった(イザ10:32).この聖所には契約の箱はなかったから,正規の聖所とは言えない.契約の箱のある聖所はダビデ王の時代にエルサレムが首都と定められた時にやっと実現した(Ⅱサム6:16‐17).それと共に聖所で仕える祭司職も確定した.「アヒトブの子ツァドクとエブヤタルの子アヒメレクは祭司」(Ⅱサム8:17)と記されている.ところがダビデの死後,王位継承を巡ってエブヤタルとツァドクが対立し,結局ソロモンについたツァドクが正規の唯一の祭司となり,アドニヤについたエブヤタルは王の怒りを買い,アナトテに追放された(Ⅰ列1:5‐8,2:26).エブヤタルはエリの子孫であり,かつてエリについて預言者が語った通りになった(Ⅰサム2:27‐36,Ⅰ列2:27).こうしてエルサレム神殿と結びつく祭司はツァドクの家系となった.歴代誌の系図はアロンの子孫である祭司として,このツァドクに至る系図を記している(Ⅰ歴6:3‐15,50‐53).エゼキエルは捕囚後の理想の祭司をこのツァドクの子孫に求めたのである. 2.祭司の聖別.出28‐29章に祭司の聖別と任職について詳細に述べられている.レビ8章には,幕屋の完成後に行われた任職について記されている.出28章にはまずアロンのため「栄光と美を表わす聖なる装束を作れ」という命令と共に,きわめて複雑で美しい祭服の製作が指示されている.この服を着用して聖所で奉仕することが,祭司としての本質に属することである.祭司の服には,全イスラエルを記念する名を刻んだ石がつけられている(出28:9‐12).また12個の宝石が胸当てにつけられるが,これも12部族を表すものである.また着物のすそには鈴がつけられるが,これは祭司が務めを行う時,神の怒りを受けて死ぬことがないためである(出28:33‐35).そしてその頭には「主への聖なるもの」と記した札をつけたかぶり物をかぶる.アロンがこれを身につける時は,「イスラエル人の聖別する聖なる物,すなわち,彼らのすべての聖なるささげ物に関しての咎を負う」(出28:36‐38)と言われ,これはイスラエルが神に受け入れられるためにアロンの祭司としての働きが不可欠であることを示している.アロンが死ぬと祭服はその子に受け継がれる(出29:29,民20:28).任職のための聖別には,油注ぎがなされる(出28:41,29:7,レビ8:12).「任命する」(出28:41)と訳されていることばは,直訳すれば「手を満たす」という句である(出29:29,レビ16:32).この句は,アッシリヤ,バビロニヤにおいて,「任命する」(祭司とはかぎらない)という意味に用いられる.これは,任職される祭司が任職式の7日間に特別に聖なる物を食べるという規定と関係していると思われる.彼らはその間,「任職用の雄羊の肉」と「かごの中のパン」を食する(出29:31‐37,レビ8:31).「手を満たす」というのは,任職の雄羊とかごの中のパンがアロンとその子らの「手のひらに載せ」られ,奉献物として揺り動かされるという特別な動作と関係しているのであろう(出29:24,レビ8:27).この句は,ミカがレビ人を自分の家の聖所の祭司とした時にも用いられ(士17:12「任命」),王国分裂後ヤロブアム王が,北王国イスラエルに自ら定めた聖所に一般の人々の中から祭司を任命した時にも用いられている(Ⅰ列13:33).「手を満たす」ということは,聖所の祭壇にいけにえとしてささげられた物によって生活するということであるとすれば,祭司職といけにえの奉献との強い関連性を示すものであろう.また任職のための油注ぎは,祭司自身になされるだけでなく,祭壇にも聖別のために油が注がれる(出29:36).レビ8:10‐11によれば油は「幕屋とその中にあるすべてのもの」「祭壇の上に7たび」「祭壇とその用具全部,また洗盤とその台」に注がれる.つまり祭司と祭司が奉仕するものが共に一つの油によって聖別されるのである.これは,祭司と聖所,特に祭壇が一つの目的のために聖別されることを示しており,祭司にとって,祭壇でいけにえをささげることが最も大切な奉仕のわざであることを示すものである.油を注ぐことは古代近東の各地で行われる聖別あるいは任職の行為であるが,これを祭壇と共に行うのはイスラエル独自のものであると言われる.このように祭司は祭壇において主のためにいけにえをささげる務めに任じられるのであるが,任職の儀式はさらに,祭司自身の罪のための贖いが必要であることを教えている.まず1頭の雄牛が祭司のために罪のためのいけにえとしてささげられる.また雄羊が1頭,全焼のいけにえとしてささげられる.これも祭司の罪のためのいけにえである.第2の雄羊もほふられ,その血はアロンの右の耳たぶと,その子らの耳たぶ,彼らの右手の親指と,右足の親指につけられる(出29:20以下).これも聖別のためであるが,耳と手足が選ばれたのは,彼らが聞くことと行うことにおいて神の用に聖別されることを示している.第2の雄羊のよい部分は特に任職の雄羊と呼ばれる(出29:22).この肉と共にかごに入れたパンが主の前に揺り動かされる.動物は血の供え物であり,パンは血を伴わない供え物である.そしてそれぞれが罪の償いと献身とを表している.そしてそれが祭司の手に置かれて主の前に揺り動かされるというのは,主の前に差し出す動作(ささげる)と,主からそれを下賜されることを表す引く動作から成っている.祭司は,こうして罪をきよめられ,主に身をささげ,主からの賜物によって生かされるものとなるのである.聖別された祭司は,イスラエルのために聖所において奉仕することができるようになる.またこのようにきよめられ,生かされている祭司が主の聖所にいるということ自体が,イスラエルの民の本質的な姿を示しているのである.このように祭司は,イスラエルの聖性を代表するものであるから,たといアロンの子孫であっても,肉体的に欠陥のある者は祭司として奉仕することができなかった(レビ21:16‐24).しかしこれは身体障害者への偏見ととるべきではなく,神の聖性の持つ完全性の象徴として,肉体に目立った欠陥がないことが要求されていると理解すべきである. 3.祭司の任務.祭司の任務は大別すれば,聖所に関することとそれ以外のことに分けられる.聖所の務め以外の奉仕としては,民を祝福すること,きよめに関すること,ラッパを吹き鳴らすこと,律法を教えること,などが含まれる.聖所の任務の中で最も重要なことは,動物のいけにえ,穀物のささげ物をささげることである.それによってイスラエルの罪が贖われると共に,イスラエルは聖別されたものとして主にささげられるのである.またささげ物のたぐいはすべて聖所の祭壇に持ってこられるから,祭壇の火は絶やすことなく常に燃え続けるようにしなければならない(レビ6:12‐13).祭司は,神にささげられるものが,律法にかなっているかどうかを常に注意深く見守っていなければならない.また,すべてのことが規定通りに行われるように熟練しなければならない.荒野で宿営する時,イスラエルの各部族は,幕屋を中心にして,これを取り巻くように陣営を張ったが,幕屋の入口,つまり東側に近く宿営するのはモーセと祭司たちに限られ,それ以外の者が近づくことは許されなかった(民3:38).宿営を移す時,聖所の器具に直接ふれることができるのも祭司たちだけであった(民4:5‐15).祭司は聖所の中のともしびを絶えずともし続けなければならない(出27:20‐21).聖所は「会見の天幕」である.それは主がモーセに啓示を与える所であり,そこでイスラエルと会見する所だからである.したがってその中には絶えずともしびによる光がなければならない.聖所において朝夕香をたくことも祭司の大事な務めである.香の壇は「あかしの箱の上の『贖いのふた』の手前」に置かれる.神とイスラエルの和解の結果ささげられる祈りを象徴する香がその上でたかれる.香が祈りを象徴していることは,詩141:2,黙5:8,8:3‐4によって明らかである.聖所外の祭司の任務としては,第1に,民を祝福することである(民6:23‐27).祭司が「わたしの名でイスラエル人のために祈る」時,イ
暗唱聖句
【口語訳】 ホセ 12:13 主はひとりの預言者によって、イスラエルをエジプトから導き出し、ひとりの預言者によってこれを守られた。
【新共同訳】 ホセ 12:14 主は一人の預言者によって/イスラエルをエジプトから導き上らせ/預言者によって彼らを守られた。
【新改訳改訂第3版】 ホセ 12:13 【主】はひとりの預言者によって、イスラエルをエジプトから連れ上り、ひとりの預言者によって、これを守られた。
【リビング・バイブル】 ホセ 12:13 神様はその国民をエジプトから連れ出すために一人の預言者を立て、彼らを導き、守るようにさせた。 <NKJV> Hos 12:13 By a prophet the Lord brought Israel out of Egypt,And by a prophet he was preserved.
<KJV> Hos 12:13 And by a prophet the LORD brought Israel out of Egypt, and by a prophet was he preserved. <NIV> Hos 12:13 The LORD used a prophet to bring Israel up from Egypt, / by a prophet he cared for him. <TEV> Hos 12:13 The Lord sent a prophet to rescue the people of Israel from slavery in Egypt and to take care of them.
J-ばいぶるHEBREW 原書講読画面
Hos 12:13
~yIr'c.Mimi laer'f.yI-ta, hw"hy> hl'[/h, aybin"b.W
rm'v.nI aybin"b.W
rmv aybin" B w ~yIr;c.mi !mi laer'f.yI tae hwhy hl[ aybin" B w
<文法解析ノート> Hos 12:13
1> w (接続詞) @PcN [51275] <10012>…と…
2> B (前置詞) @PpN [15799] <10007>中,(理由,代価,手段,場所,時の)で
3> aybin" (普通名詞男単) @ncmsN [317] <5030>預言者
4> hl[ (動詞Hif完3男単) @vhp3msN [894] <5927>上る,登る,ささげる
5> hwhy (固有名詞) @npN [6828] <3068>ヤーゥェ:まことの神の固有名詞 主
6> tae (定目的語記号) @PoN [11873] <853>目的格記号
7> laer'f.yI (固有名詞) @npN [2515] <3478>イスラエル
8> !mi (前置詞) @PpN [7717] <4480>~から,~より
9> ~yIr;c.mi (固有名詞) @npN [681] <4714>エジプト
10> w (接続詞) @PcN [51275] <10012>…と…
11> B (前置詞) @PpN [15799] <10007>中,(理由,代価,手段,場所,時の)で
12> aybin" (普通名詞男単) @ncmsN [317] <5030>預言者
13> rmv (動詞Nif完3男単) @vnp3msN [469] <8104>守る,見張る,気をつける
日曜日 福音を宣べ伝える
問1
【口語訳】 創 22:1-14
22:1 これらの事の後、神はアブラハムを試みて彼に言われた、「アブラハムよ」。彼は言った、「ここにおります」。 22:2 神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。 22:3 アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。 22:4 三日目に、アブラハムは目をあげて、はるかにその場所を見た。 22:5 そこでアブラハムは若者たちに言った、「あなたがたは、ろばと一緒にここにいなさい。わたしとわらべは向こうへ行って礼拝し、そののち、あなたがたの所に帰ってきます」。 22:6 アブラハムは燔祭のたきぎを取って、その子イサクに負わせ、手に火と刃物とを執って、ふたり一緒に行った。 22:7 やがてイサクは父アブラハムに言った、「父よ」。彼は答えた、「子よ、わたしはここにいます」。イサクは言った、「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」。 22:8 アブラハムは言った、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」。こうしてふたりは一緒に行った。 22:9 彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。 22:10 そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、 22:11 主の使が天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブラハムよ」。彼は答えた、「はい、ここにおります」。 22:12 み使が言った、「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。 22:13 この時アブラハムが目をあげて見ると、うしろに、角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行ってその雄羊を捕え、それをその子のかわりに燔祭としてささげた。 22:14 それでアブラハムはその所の名をアドナイ・エレと呼んだ。これにより、人々は今日もなお「主の山に備えあり」と言う。 【新共同訳】 創 22:1-14
22:1 これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、 22:2 神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」 22:3 次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。 22:4 三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、 22:5 アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」 22:6 アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。 22:7 イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」 22:8 アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。 22:9 神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。 22:10 そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。 22:11 そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、 22:12 御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」 22:13 アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。 22:14 アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。 【新改訳改訂3】 創 22:1-14
22:1 これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります」と答えた。 22:2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」
22:3 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。 22:4 三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。 22:5 それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る」と言った。 22:6 アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。 22:7 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」 22:8 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。 22:9 ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。 22:10 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。 22:11 そのとき、【主】の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」 22:12 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」 22:13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。 22:14 そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「【主】の山の上には備えがある」と言い伝えられている。
注解 (聖書の達人2聖書注解)
この時のアブラハムの年齢については直接の言及はないが,イサクはたきぎを負うことが出来たので(6)少なくとも14,5歳にはなっていただろう,とすると,アブラハムが114,5歳の頃ということになる イサクを全焼のいけにえとしてささげるようにとの衝撃的な神の言葉は,アブラハムにとって,神を畏れ,神の御声に聞き従えるかどうか(12,18)の最大の試練であった.それは,何ものをも自分の私物とせず,すべてを神にささげる生活を実践し,神への無条件の信仰を持つようにとの神の要求を意味した イサクはアブラハムに奇蹟的に与えられた老年の子,イシュマエルが去った後では文字通り残された愛する〈ひとり子〉(2)であった.その子をいけにえとすることは,自分の人間的な愛を神のために否定すること,それに自分の家系の存続を危うくすることであった.しかしこのことは単にアブラハムが自分の持っているもの,または将来持つであろうものを放棄する問題ではなく,宗教的,倫理的,論理的な難題でもあった.イサクは単に人間的な意味でのアブラハムの愛するひとり子であったのではなく,神の約束(12:2‐3,13:16,15:4‐5,17:4‐8,18:18‐19,22:17‐18)の成就に不可欠な者,要となる存在としての〈ひとり子〉であり(21:12,ヘブ11:18),そのことはアブラハムにも知らされていた.そのイサクをいけにえにせよということは,人間的に言えば神の約束に逆らえということになり,そのように仰せられる神は自己矛盾の神ということになる.また人身をいけにえとすることは,むしろ異邦宗教の習わしであって,聖書ではモーセの律法で厳しく禁じられており(レビ18:21,申18:10),それに殺人行為でもある しかしアブラハムにとって,それでも神は唯一の信頼すべきお方である.「すべての人を偽り者としても,神は真実な方である」(ロマ3:4).人間の理性では受け入れられなくても神の約束は確実に成就する.「彼は望みえないときに望みを抱いて信じ」(ロマ4:18),人間的には矛盾する神の言葉をそのまま受け入れた.これを通して復活の望みをさえ与えられたのである(ロマ4:17,ヘブ11:19) かくしてアブラハムは,神の特別なあわれみにより,選びの民の父にふさわしく,信仰の父として自分の信仰を実際に行いに具体化し(ヤコ2:21‐24),あかしを立てることが許されたのである 神の御声に聞き従ってのカラン出立(12:4)がアブラハムの信仰の出発点だとすれば,神のお言葉通り愛するひとり子イサクをささげ得た体験はアブラハムの信仰生活の頂点だと言える.聖書の記述としては,神のアブラハムへの直接の語りかけはこの機が最後になっている 〈神はアブラハムを試練に会わせられた〉(1).読者(聴衆)のための情報で,アブラハムには知らされていない事実 〈モリヤの地〉(2).後にソロモンが神殿を建てたモリヤ山(Ⅱ歴3:1)のある地域であろう.〈1つの山〉がモリヤ山であった可能性は大きい.モリヤ山が主の山と呼ばれるようになったのは,主がダビデにご自身を現されてから(Ⅱ歴3:1)ではなく,恐らくそれ以前にすでにアブラハムの時代からであったと考えられる.すでにその地はメルキゼデクとの関連でアブラハムには特別の地として記憶されていたのだろう(14:18‐20,シャレム=シオン,詩76:2).アブラハムがモリヤの地に行き神の示す1つの山でイサクをささげるように言われた時,その地点を知っていたと思われるのは(3‐4)そのためだろう 〈自分の子イサクを縛り〉(9).詳細は一切記されていないが,恐らくイサクの同意を得てのことだろう.イサクはアブラハムの神への従順に従った.イサクはそのようなことが可能なように育てられていただろうし,この時は特に神のあわれみがあったと思われる 〈雄羊を……自分の子の代わりに,全焼のいけにえとして〉(13).レビ記に規定されている代償のいけにえ(例:レビ1:4)に先行するもの
【口語訳】 レビ 4:27-31
4:27 また一般の人がもしあやまって罪を犯し、主のいましめにそむいて、してはならないことの一つをして、とがを得、 4:28 その犯した罪を知るようになったときは、その犯した罪のために供え物として雌やぎの全きものを連れてきて、 4:29 その罪祭の頭に手を置き、燔祭をほふる場所で、その罪祭をほふらなければならない。 4:30 そして祭司は指でその血を取り、燔祭の祭壇の角にこれを塗り、残りの血をことごとく祭壇のもとに注がなければならない。 4:31 またそのすべての脂肪は酬恩祭の犠牲から脂肪を取るのと同じように取り、これを祭壇の上で焼いて主にささげる香ばしいかおりとしなければならない。こうして祭司が彼のためにあがないをするならば、彼はゆるされるであろう。 【新共同訳】 レビ 4:27-31
4:27 一般の人のだれかが過って罪を犯し、禁じられている主の戒めを一つでも破って責めを負い、 4:28 犯した罪に気づいたときは、献げ物として無傷の雌山羊を引いて行き、 4:29 献げ物の頭に手を置き、焼き尽くす献げ物を屠る場所で贖罪の献げ物を屠る。 4:30 祭司はその血を指につけて、焼き尽くす献げ物の祭壇の四隅の角に塗り、残りの血は全部、祭壇の基に流す。 4:31 奉納者は和解の献げ物から脂肪を切り取ったように、雌山羊の脂肪をすべて切り取る。祭司は主を宥める香りとしてそれを祭壇で燃やして煙にする。祭司がこうして彼のために罪を贖う儀式を行うと、彼の罪は赦される。 【新改訳改訂3】 レビ 4:27-31
4:27 また、もし一般の人々のひとりが、【主】がするなと命じたことの一つでも行い、あやまって罪を犯し、後で咎を覚える場合、 4:28 または、彼が犯した罪が自分に知らされたなら、彼は犯した罪のために、そのささげ物として、傷のない雌やぎを連れて来て、 4:29 その罪のためのいけにえの頭の上に手を置き、全焼のいけにえの場所で罪のためのいけにえをほふりなさい。 4:30 祭司は指で、その血を取り、それを全焼のいけにえの祭壇の角に塗りなさい。その血は全部、祭壇の土台に注がなければならない。 4:31 また、脂肪が和解のいけにえから取り除かれる場合と同様に、その脂肪全部を取り除かなければならない。祭司は【主】へのなだめのかおりとして、それを祭壇の上で焼いて煙にしなさい。祭司は、その人のために贖いをしなさい。その人は赦される。
【口語訳】 イザ 53 章
53:1 だれがわれわれの聞いたことを/信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。 53:2 彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。 53:3 彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。 53:4 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。 53:5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。 53:6 われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。 53:7 彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。 53:8 彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。 53:9 彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。 53:10 しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。 53:11 彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。 53:12 それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に/物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。 【新共同訳】 イザ 53 章
53:1 わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。 53:2 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。 53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。 53:4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。 53:5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。 53:6 わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。 53:7 苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。 53:8 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。 53:9 彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。 53:10 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。 53:11 彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。 53:12 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。 【新改訳改訂3】 イザ 53 章
53:1 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。【主】の御腕は、だれに現れたのか。 53:2 彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。 53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。 53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。 53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、【主】は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。 53:7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。 53:8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。 53:9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。 53:10 しかし、彼を砕いて、痛めることは【主】のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、【主】のみこころは彼によって成し遂げられる。 53:11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。 53:12 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。
注解 (聖書の達人2聖書注解)
53章 その苦難のしもべを最もよく告げているのが53章である.〈私たち〉(1)との冒頭の表現は,イザヤ自身を含めたイスラエルの民を意識したもので,通常では想像も出来ないような特異な仕方で神の主権的御旨が啓示されたことを強調している.今まで誰にも知らされなかったような特別な方法で神はご自分の計画を啓示されるのである.究極的には,預言としてのメシヤによる贖罪の唯一性を意味している.新約的に言えば,キリストの十字架の代償死の絶対的唯一性とも言い得る.この「苦難のしもべ」は〈若枝のように芽生え〉(2)る.すなわちメシヤでありながら,その生れ育つ状況は苦難に満ちたものであり,決して人々があこがれるようなものではなかった.むしろ,人々からはあざけられ,のけ者にされ,疎外され,いじめられるような存在である.最後には,イザヤは自分をも含める表現で,〈私たちも彼を尊ばなかった〉(3)と言う苦難のしもべのそのような苦難は,彼自身に理由があるのではなく,他の人々のためのものであり,身代り的,代償的なものである.自分自身が何か悪事をなし,報いとして災いを受けるというのではなく,刑罰を受けるべき者たちの身代りとなって刑罰を受け,傷つけられ,苦しめられるのである.苦難のしもべは,〈私たち〉(5)に平和を与え,いやしを与えるために,身代りになった.イザヤは自分自身をも含めてこの「私たち」を反復する.注目すべきは,〈主は,私たちのすべての咎を彼に負わせた〉(6)という言葉である.この「苦難のしもべ」である「主のしもべ」は,まさにイエス・キリストの代償死としての十字架の苦難と,それに至るまでの主キリストご自身の生涯を預言していると言い得る 次の箇所(7‐9)は,「主のしもべ」がその苦難を「どのように」歩み,どのように生涯を終えるかを示している.すなわち彼は,人々の身代りとなるという目的の完成のために,極度のあざけりと暴力の中を忍耐と服従をもって歩み,人々の賞賛を受けようともせず,その生涯を終える.〈悪者ども〉は犯罪人や囚人を指し,〈富む者〉は不正をもって民衆を圧迫し,財を築いた者を指していると思われる(9).ピラトの庭からヴィア・ドロロサ(苦難の道)を通り,重い十字架をかつぎながらゴルゴタの丘へと,ひとり歩いて行かれるイエスの姿を見るようである 最後の部分(10‐12)において注目すべきは,6節の「主は,私たちのすべての咎を彼に負わせた」との言葉が,更に明瞭にされていることである.「主のしもべ」が苦難の道を歩み,代償死を遂げることは,〈主のみこころであった〉(10).また,繰り返すように〈主のみこころは彼によって成し遂げられる〉(10)とも述べられている.「主のしもべ」自身も,「主(神)のみこころ」を成し遂げることに最善の喜びと満足を覚える(11).この「主のしもべ」の苦難と死なくしては,神の救済のみわざは成し遂げられなかったと言い得る.メシヤとしてのキリストの十字架上の死が,敗北でなく,勝利の道であったことが,〈分捕り物としてわかちとる〉(12)という表現に見られる.また,その「主のしもべ」であればこそ,大祭司として〈多くの人の罪を負い,そむいた人たちのためにとりなしをする〉(12)ことの出来るメシヤたり得るのである.私たちの主,イエスこそ,その大祭司である(参照ヘブ4:14‐16)
参考 (聖書の達人2聖書辞典)
■すくい 救い 救いと訳されるおもな原語に〈ヘ〉イェーシャ,〈ギ〉ソーテーリアがある.〈ヘ〉イェーシャは,広さ,拡大などの原意を持ち,後に安楽,安全,戦いに勝つなどを意味するようになった.また〈ギ〉ソーテーリアは,治癒,回復,贖い,救済,解放などの意味に用いられている.いずれの語も,人間を不幸にする圧迫,脅威,危険から人間を解放し,健康,自由,真の幸福を与えることを意味している. どのような宗教にも共通して見られることは,その神が信奉者を救出するという概念を持っていることである.旧約聖書の前半部分において救いは,神がそのしもべ個人個人に敵の手から逃れる道を備えたり,束縛からの解放や広大な地での建国などへの助力を与えることを意味し,後半の部分では,道徳的,霊的状態の祝福,国境を越えて拡大する至福の生活などを強調している.新約聖書においては,人の罪への隷属や危険からの救いが,キリストのみに見出されるものとして示されている. このように聖書は救いについてまず人間の経験を出発点とし,具体的状況からの救出を意味する語を用い,さらにその内容が道徳的,霊的救いという神の働きの最も本質的なものへと向かっている.そしてまた神がいかに救いのための基盤を備え,与え,神御自身が救いそのものであるかを明示している.実に救いは聖書理解のかぎとなる主題である. 1.旧約聖書における救い.(1)歴史的出来事と救い.イスラエル人は初め,救いをこの地上的なことに焦点をおいて考えていたようである.その内容を端的に表すものとして,長命と繁栄,物質的祝福,豊かな土地,収穫などがあげられている(申5:16,7:13‐15).これらの救いは律法,戒めを遵守するという倫理的行動に伴って神から与えられるものである(申4:40,5:33). また,イスラエルが民族的危機に直面した時,神は必ず彼らを救うとの確信が旧約聖書の底流となっている.それは,この民の過去の歴史における最も重大な出来事である出エジプトを通して現された神の救いのわざに基づいている.神は出エジプトに際して,イスラエルの民をエジプトにおける隷属状態から贖い出し,解放して救い出したのである(出6:6,14:13,15:1‐18).やがて「救い」は,国民的勝利と同一に見なされ,イスラエルに反抗する敵が打ち破られると,それは神がイスラエルのために直接手を下した結果である,と受け止められるようになった(申20:3‐4).その後のイスラエルの歩みにおいても,この救いの概念は変らず,民のうちに持ち続けられた.戒めを破り,背信し,偶像礼拝を行うなどの罪を犯し,その罰として敵の足下に隷属させられるが,悔い改めて神に立ち返ると,神が遣わされた指導者を通して,あるいは御手のわざによって救い出される.この罪と救いの循環的な繰返しのサイクルの中に,敵に対する勝利としての救いを見出すことができる(士3:7‐15).そして真の神の臨在こそが,彼らの救いの源であることが明らかにされていく. (2)民の罪と救い.初め救いの単位は,民全体か,少なくとも家族ごとであった(創6:18,19:12).家族の一人の罪により,他の者たちまでが救いを失い,共同体全体が苦しみ,さばきを受けた(ヨシ7:24,Ⅱサム21:6).しかし個人の罪の責任の概念も少しずつ把握されていき(申24:16,エレ31:29‐30,エゼ14:14,18:4),罪を犯さない者は一人もいない(Ⅰ列8:46,伝7:20)と表明されるようになった.人が民族の安定と福祉を破壊するような社会的罪,不正・不義などの倫理的罪,祭儀の規定や食事の規定などを破る祭儀的罪,そして背信・偶像礼拝などの霊的罪を犯した時に「救い」を喪失し,神およびその民との交わりを絶たれる.しかしある種の罪は,悔改めと供犠により神のさばきを免れた. 正しき者の危機・苦しみからの救いは,その祈りの中に示されている.義人の救いは神からくる(詩33:18‐19).危険にさらされた時,神だけが救いの確証であり,多くの人々が主の御名を呼び求めて救い出されている(詩107:13,19,ダニ3:28,6:27).人の力を頼みとする高慢と尊大さとが打ち砕かれ,神に対する謙遜と信頼,服従のあるところに救いが実現している. (3)終末的な預言と救い.旧新約聖書の両方に共通していることは,救いがその時点において真実であり,すでに成就しており,その力は人々のうちに働いているが,しかしすべての悩みや苦難がなくなる全的な実現,すなわち最終的完成は未来のこととしていることである.旧約において神の救いは出エジプト,荒野での救助と導き,侵入してきたアッシリヤ軍の打破,バビロン捕囚からの解放などにすでに現されているが,神の民の最終的な贖いは「終りの時」「主の日」まで待つことになる(イザ35:4,45:17,52:10,エゼ34:14).2.新約聖書における救い.(1)福音書における救い.バプテスマのヨハネは「神の国」の出現が間近いことを告げ,それに先立つ悪しき者への火のさばきと義なる者への聖霊の授与とを約束している(マタ3:2,ルカ3:2‐17).ヨハネの告げる神の国は,神の終末的,王的支配を意味するが,彼はその備えのために,民族的特権への過信に対する警告のメッセージを伝え,悔改めを迫り,その外的しるしとして水のバプテスマを施した. バプテスマのヨハネによって進められた終末的信仰覚醒運動は,イエスによって受け継がれ,「悔い改めなさい.天の御国が近づいたから」(マタ4:17)と宣言された.この宣言は「さばきが近づいた.悔い改めて,さばかれないようにしなさい」という意味である.イエスの教えはこのように未来的な内容を持ち,積極的には神の国に入ることを,消極的にはやがてくるさばきからの救いを示している. 共観福音書では,イエスによる「救い」が病人のいやし(参照マタ9:21‐22欄外注)から進められ,預言の成就としてのメシヤの到来が強調されている(ルカ4:18‐21).またガリラヤ湖の嵐を静めて弟子たちを救い(マタ8:23‐27),おぼれかかったペテロを助けて(マタ14:31),イエスへの信仰を求めている.そして身体的な苦しみと霊的な罪からの救い主として病人をいやし(マコ2:10),罪深い者に罪の赦しと救いの訪れとを告げている(ルカ7:48,19:9).ヨハネの福音書は,イエスが神の御子であることを明らかにする奇蹟(しるし)を7つ取り上げ,イエスこそキリストであり,彼を信じ受け入れる者を「神の子ども」とし,これに永遠のいのちを与え,滅びから「救う」ことを示している(ヨハ1:12,3:36). このように神の終末的,王的支配はイエスと共に到来した.イエスはこの世をさばくためではなく,人々を罪責,律法の束縛,苦難,死,悪魔,滅びから解放し,失われた者を尋ね出して救い,豊かにいのちを与えるために世に来られたのである. (2)使徒たちの教え.イエスの復活と聖霊の降臨の後,使徒たちは「救い」が旧約の預言通り成就したことをその宣教の主題とした.また彼らがイエスの名によって行った奇蹟も,この宣教の主題を確認するものであった(使3:6,4:9‐12,16:18).この曲った時代から救われる条件は,イエスを信じること(使16:31),その名を呼び求めること(使2:21)であった.そしてこの福音は,まずユダヤ人に,次に異邦の民へと伝えられていったのである(使11:19,28:28). 福音の前進に伴い,「救い」と罪の概念はさらに明確にされていった.罪とは神の律法の侵犯であり(Ⅰヨハ3:4),神の正義に対するとが,神の聖に対する汚れ,不信である(ロマ1:24).この罪の結果は,神へのきよい愛の欠如,道徳的性質の腐敗,悪に偏向した堕落と,神の怒り(ロマ1:18)の罪責,肉体的,霊的,永遠的の三重の性格を持つ死の刑罰をもたらした(ロマ6:23,エペ2:1).この罪の力に束縛された人類に,神は御子を遣わし,「すべての人が救われて,真理を知るようになるのを望んでおられる」(Ⅰテモ2:4,Ⅰヨハ4:14).御子イエスは十字架の死と復活により罪の贖いのわざを完成し,「従うすべての人々に対して,とこしえの救いを与える者」となられた(ヘブ5:9).このイエス・キリストの出来事を伝える福音は「信じるすべての人にとって,救いを得させる神の力」であり(ロマ1:16),信じて信仰を告白する者は救われ(ロマ10:9),バプテスマを受けることにより,確かなものとされる(Ⅰペテ3:21).実に救いは,人間のわざによるのではなく,神のあわれみと恵みと聖霊の働きにより与えられるのである(Ⅱテモ1:9,テト3:5). (3)救いの完成を目指して.「救い」は,キリストの贖いのわざによって現実化し,信じ受け入れる者はこの世においてその祝福を先取りすることができるが,この「救い」の最終的完成は歴史の終りの時まで待つべきものとされている(Ⅰペテ1:5).人の「救い」の体験は時間的に見ると,過去,現在,未来の三重の様相を呈しており,それぞれを救いの所有性,進展性,待望性と表現することができる. a.所有性.信仰者は「救い」の相続者とされ(ヘブ1:14),その罪を赦され完全に義なる者とされている(ロマ5:1).そしてキリストの贖いにより神と和解し(Ⅱコリ5:18),すべての悪からきよめられ(Ⅰヨハ1:9),神の子供である確信を聖霊によって与えられている(ロマ8:16).これらは人が信じて救われた時に,神から与えられた恵みの賜物である. b.進展性.神の恵みによって始められた救いのわざを信じ受け入れた者は,聖霊の助けにより,救いの達成に努めなければならない(ピリ2:12).そして,不敬虔と汚れと世的欲望が渦巻く邪悪な時代の中にあって,世の光として輝くことを求められている(ピリ2:16).そのために,たましいを救う力を有し,信仰を養い,神のみこころを示すみことばに親しみ,それに従うことが肝要である(Ⅱテモ3:15,ヤコ1:21).また聖霊の助けにより聖化の実現をはかり(Ⅱコリ7:1),ますます神の御性質にあずかる者となり(Ⅱペテ1:4),愛の奉仕にいそしみ,多くの実を結び,神に栄光を帰す者となるのである(ヨハ15:8,ガラ5:22‐23). c.待望性.信仰者はこの世にあってすでに「救い」の恵みと力にあずかり,その祝福を味わうことができるが,救いのすべてが完全に実現しているわけではない(ヘブ9:28).永遠の祝福,からだの贖い,神のさばき,キリストの再臨など,将来の「この望みによって救われている」(ロマ8:24)のである.信仰者は「救い」を得るように定められているが(Ⅰテサ5:9),終りの時までその救いによって相続するものを待たなければならない(Ⅰペテ1:5).信仰者は,この救いの完成の時が間近になっていることを覚え,信仰の歩みを確かにすることが求められている(ロマ13:11).そして救いが完成する時,信仰者は悪と病気と苦難,死などから全く解放され,生ける真の神を賛美しつつ,御前に親しく仕えるようになるのである.それは神なるキリストの悪魔の勢力に対する真の勝利と共に実現する(黙7:10,21:3‐4).(本辞典「あがない」の項を参照).
参考 (聖書の達人2聖書辞典)
■さいし 祭司
1.聖所と祭司.旧約聖書で祭司に当る語は〈ヘ〉コーヘーンである.新約聖書では〈ギ〉ヒエリュースである.イスラエルではレビ部族の者が祭司になった.祭司のおもな働きはいけにえをささげ,契約の律法を教えることであった.しかし神にいけにえをささげ,律法を教える者がすべて祭司なのではない.ノアは主に祭壇を築いて,いけにえをその上にささげた(創8:20).アブラハムも祭壇を築き(創12:7,13:18,22:9),いけにえをささげた(創22:13).イサクも同様にした(創26:25).ヤコブもベテルに祭壇を築いている(創35:7).しかしこれらの族長たちが祭司と呼ばれたことはない.モーセも祭壇を築き,従者である若者にいけにえをささげさせた(出24:4‐5,17:15).しかしモーセは祭司とは呼ばれていない.レビ系の祭司制度が確立し,聖所が建てられて後にも,民の指導者が祭壇を築いたりいけにえをささげたりすることは行われていた.ヨシュア(ヨシ8:30‐31),ダビデ(Ⅱサム6:17以下),ソロモン(Ⅰ列8:5,63‐64)などがそうである.一般的には,聖所が設立され,そこにおいて中心的な奉仕をする職務を与えられた者が祭司と呼ばれる.旧約聖書において最初に祭司という名称が用いられるのはシャレムの王メルキゼデクであり,彼は「いと高き神の祭司」と呼ばれている.彼は,東方の王たちの連合軍を打ち破り,おいのロトを無事に救出して帰還したアブラハムを祝福した.彼はカナンの神の祭司であったが,その神は「天と地を造られた方,いと高き神」であった(創14:19).アブラハムはメルキゼデクに,戦いで得たものの十分の一を与えただけでなく,彼自身も誓いのことばの中で「天と地を造られた方,いと高き神,主」と呼んでおり,彼に現れ,召命と約束を与えた神と,メルキゼデクの神とが同一の神であることを認めている.シャレムは後のエルサレムであり,そこに神殿が建てられ,神殿を建てたソロモン王を補佐する祭司ツァドクとのつながりを見ることができる.メルキゼデク(〈ヘ〉マルキーツェデク)は,シャレム(〈ヘ〉シャーレームは,〈ヘ〉シャーロームと同じ意味に用いられる.これはまたソロモン王,〈ヘ〉シェローモーともつながる)において「いと高き神」(〈ヘ〉エール・エルヨーン)にささげられた神殿あるいは聖所で,祭司として仕えていた.また,モーセがパロのもとから逃亡してその庇護を受けたイテロ(レウエル)はミデヤンの祭司と呼ばれ,モーセはその娘チッポラと結婚した(出2:16‐21).イテロが祭司と呼ばれたのは,やはりミデヤンに聖所があったからであろう.このイテロは後に,エジプトを出たイスラエルとシナイの荒野で出会い,イスラエルの神,主の偉大さを認めている(出18:10‐11). モーセはアロンとその息子たちを聖別して祭司に任じ幕屋での奉仕に当らせた.彼はまたレビ部族を聖別し幕屋の運搬の仕事に当らせた.しかしモーセは民数記において,幕屋がカナンにおいて定住の地を得て後に,レビ部族の働きがどうなるかについて規定しなかった.幕屋が定住の状態になった時,アロンの子らの数だけでは祭司の職務は十分に果せなくなる.そのために,申命記ではレビ人の中の多くの者が祭司職に属する仕事をするように規定されている.このように,五書の中にも,すでに祭司職についての教えの発展がある.イスラエルにおいて聖所はシナイにおける啓示によって初めて造られた.出エジプト記は大きく分ければ,神の民の救出による神の勝利の賛美と,救われた神の民が神の家である聖所を建て,それを中心にした聖なる民としてつくり上げられていくという2つの主題から成っている.出15章の,モーセとイスラエルが歌った葦の海(紅海)の歌はこの2つの主題の関係をよく示している.すなわち12節までが民の救出であり13節以下が聖所の建設である.イスラエルの民が「祭司の王国」(出19:6)と呼ばれるのは,彼らが聖所を持ち,これに仕える生活を中心として形成されるからである.したがってシナイ律法の中心は,幕屋すなわち聖所の建設とそこで奉仕する祭司の任職のことである.イスラエルの生活は,聖所を中心とし,その中心に近いものほど聖の度合が濃いものと考えられる.出エジプト記はアロンの年に1度の至聖所における贖罪の働きを「最も聖なるもの」とし,これを取り巻くような形で聖なる物,人,時を配置するのである(出30:10).また,この聖所の運搬に当るレビ人は一般の人々に比べるならば聖なる者であるとされる.そして聖所が一定の場所に建てられる時,運搬のための働きは必要でなくなる代りに,多くのレビ人が聖所における複雑な用に当るために,祭司として用いられるようになるのである.エゼキエルは,捕囚の時代に,理想の神殿とそこにおける聖なる祭司の働きについての啓示を与えられた.長いイスラエルの歴史の中で,レビ人たち多くの祭司の補助者が,宮の物を汚すような愚かなことを行ったことの罰として,その仕事から除かれ,忠実な祭司ツァドクの子孫のレビ人の祭司たち(エゼ44:15)のみが祭司の仕事をするように命じられる.これは,荒野の時代にアロンとその子らのみが聖所で仕えた時を理想とする考えである.イスラエルが約束の土地カナンに入った時,聖所が建てられる地として最初に選ばれたのはシロであった(ヨシ18:1).ところが士師の時代になると聖所も祭司制も乱れ始めた.エフライム族のミカは聖所を持ち,その息子を自分の祭司とした(士17:1‐6).後に彼はレビ人を祭司とし(士17:7‐13),その後ダン部族がこの聖所と祭司を奪って自分たちのものとした(士18:1‐31).シロの聖所はエリが祭司であった時にペリシテ人によって破壊された(Ⅰサム4:11,エレ7:12).その後エリの子孫がノブに聖所を建てた.ノブは「祭司の町」(Ⅰサム22:19)と呼ばれているが,ヨシュア記に出てくるレビ人の町のリストの中にはない.ノブはエルサレムとアナトテの間にあった(イザ10:32).この聖所には契約の箱はなかったから,正規の聖所とは言えない.契約の箱のある聖所はダビデ王の時代にエルサレムが首都と定められた時にやっと実現した(Ⅱサム6:16‐17).それと共に聖所で仕える祭司職も確定した.「アヒトブの子ツァドクとエブヤタルの子アヒメレクは祭司」(Ⅱサム8:17)と記されている.ところがダビデの死後,王位継承を巡ってエブヤタルとツァドクが対立し,結局ソロモンについたツァドクが正規の唯一の祭司となり,アドニヤについたエブヤタルは王の怒りを買い,アナトテに追放された(Ⅰ列1:5‐8,2:26).エブヤタルはエリの子孫であり,かつてエリについて預言者が語った通りになった(Ⅰサム2:27‐36,Ⅰ列2:27).こうしてエルサレム神殿と結びつく祭司はツァドクの家系となった.歴代誌の系図はアロンの子孫である祭司として,このツァドクに至る系図を記している(Ⅰ歴6:3‐15,50‐53).エゼキエルは捕囚後の理想の祭司をこのツァドクの子孫に求めたのである. 2.祭司の聖別.出28‐29章に祭司の聖別と任職について詳細に述べられている.レビ8章には,幕屋の完成後に行われた任職について記されている.出28章にはまずアロンのため「栄光と美を表わす聖なる装束を作れ」という命令と共に,きわめて複雑で美しい祭服の製作が指示されている.この服を着用して聖所で奉仕することが,祭司としての本質に属することである.祭司の服には,全イスラエルを記念する名を刻んだ石がつけられている(出28:9‐12).また12個の宝石が胸当てにつけられるが,これも12部族を表すものである.また着物のすそには鈴がつけられるが,これは祭司が務めを行う時,神の怒りを受けて死ぬことがないためである(出28:33‐35).そしてその頭には「主への聖なるもの」と記した札をつけたかぶり物をかぶる.アロンがこれを身につける時は,「イスラエル人の聖別する聖なる物,すなわち,彼らのすべての聖なるささげ物に関しての咎を負う」(出28:36‐38)と言われ,これはイスラエルが神に受け入れられるためにアロンの祭司としての働きが不可欠であることを示している.アロンが死ぬと祭服はその子に受け継がれる(出29:29,民20:28).任職のための聖別には,油注ぎがなされる(出28:41,29:7,レビ8:12).「任命する」(出28:41)と訳されていることばは,直訳すれば「手を満たす」という句である(出29:29,レビ16:32).この句は,アッシリヤ,バビロニヤにおいて,「任命する」(祭司とはかぎらない)という意味に用いられる.これは,任職される祭司が任職式の7日間に特別に聖なる物を食べるという規定と関係していると思われる.彼らはその間,「任職用の雄羊の肉」と「かごの中のパン」を食する(出29:31‐37,レビ8:31).「手を満たす」というのは,任職の雄羊とかごの中のパンがアロンとその子らの「手のひらに載せ」られ,奉献物として揺り動かされるという特別な動作と関係しているのであろう(出29:24,レビ8:27).この句は,ミカがレビ人を自分の家の聖所の祭司とした時にも用いられ(士17:12「任命」),王国分裂後ヤロブアム王が,北王国イスラエルに自ら定めた聖所に一般の人々の中から祭司を任命した時にも用いられている(Ⅰ列13:33).「手を満たす」ということは,聖所の祭壇にいけにえとしてささげられた物によって生活するということであるとすれば,祭司職といけにえの奉献との強い関連性を示すものであろう.また任職のための油注ぎは,祭司自身になされるだけでなく,祭壇にも聖別のために油が注がれる(出29:36).レビ8:10‐11によれば油は「幕屋とその中にあるすべてのもの」「祭壇の上に7たび」「祭壇とその用具全部,また洗盤とその台」に注がれる.つまり祭司と祭司が奉仕するものが共に一つの油によって聖別されるのである.これは,祭司と聖所,特に祭壇が一つの目的のために聖別されることを示しており,祭司にとって,祭壇でいけにえをささげることが最も大切な奉仕のわざであることを示すものである.油を注ぐことは古代近東の各地で行われる聖別あるいは任職の行為であるが,これを祭壇と共に行うのはイスラエル独自のものであると言われる.このように祭司は祭壇において主のためにいけにえをささげる務めに任じられるのであるが,任職の儀式はさらに,祭司自身の罪のための贖いが必要であることを教えている.まず1頭の雄牛が祭司のために罪のためのいけにえとしてささげられる.また雄羊が1頭,全焼のいけにえとしてささげられる.これも祭司の罪のためのいけにえである.第2の雄羊もほふられ,その血はアロンの右の耳たぶと,その子らの耳たぶ,彼らの右手の親指と,右足の親指につけられる(出29:20以下).これも聖別のためであるが,耳と手足が選ばれたのは,彼らが聞くことと行うことにおいて神の用に聖別されることを示している.第2の雄羊のよい部分は特に任職の雄羊と呼ばれる(出29:22).この肉と共にかごに入れたパンが主の前に揺り動かされる.動物は血の供え物であり,パンは血を伴わない供え物である.そしてそれぞれが罪の償いと献身とを表している.そしてそれが祭司の手に置かれて主の前に揺り動かされるというのは,主の前に差し出す動作(ささげる)と,主からそれを下賜されることを表す引く動作から成っている.祭司は,こうして罪をきよめられ,主に身をささげ,主からの賜物によって生かされるものとなるのである.聖別された祭司は,イスラエルのために聖所において奉仕することができるようになる.またこのようにきよめられ,生かされている祭司が主の聖所にいるということ自体が,イスラエルの民の本質的な姿を示しているのである.このように祭司は,イスラエルの聖性を代表するものであるから,たといアロンの子孫であっても,肉体的に欠陥のある者は祭司として奉仕することができなかった(レビ21:16‐24).しかしこれは身体障害者への偏見ととるべきではなく,神の聖性の持つ完全性の象徴として,肉体に目立った欠陥がないことが要求されていると理解すべきである. 3.祭司の任務.祭司の任務は大別すれば,聖所に関することとそれ以外のことに分けられる.聖所の務め以外の奉仕としては,民を祝福すること,きよめに関すること,ラッパを吹き鳴らすこと,律法を教えること,などが含まれる.聖所の任務の中で最も重要なことは,動物のいけにえ,穀物のささげ物をささげることである.それによってイスラエルの罪が贖われると共に,イスラエルは聖別されたものとして主にささげられるのである.またささげ物のたぐいはすべて聖所の祭壇に持ってこられるから,祭壇の火は絶やすことなく常に燃え続けるようにしなければならない(レビ6:12‐13).祭司は,神にささげられるものが,律法にかなっているかどうかを常に注意深く見守っていなければならない.また,すべてのことが規定通りに行われるように熟練しなければならない.荒野で宿営する時,イスラエルの各部族は,幕屋を中心にして,これを取り巻くように陣営を張ったが,幕屋の入口,つまり東側に近く宿営するのはモーセと祭司たちに限られ,それ以外の者が近づくことは許されなかった(民3:38).宿営を移す時,聖所の器具に直接ふれることができるのも祭司たちだけであった(民4:5‐15).祭司は聖所の中のともしびを絶えずともし続けなければならない(出27:20‐21).聖所は「会見の天幕」である.それは主がモーセに啓示を与える所であり,そこでイスラエルと会見する所だからである.したがってその中には絶えずともしびによる光がなければならない.聖所において朝夕香をたくことも祭司の大事な務めである.香の壇は「あかしの箱の上の『贖いのふた』の手前」に置かれる.神とイスラエルの和解の結果ささげられる祈りを象徴する香がその上でたかれる.香が祈りを象徴していることは,詩141:2,黙5:8,8:3‐4によって明らかである.聖所外の祭司の任務としては,第1に,民を祝福することである(民6:23‐27).祭司が「わたしの名でイスラエル人のために祈る」時,イ
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