第11課 預言的文書の解釈
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작성자 나도람 작성일09-03-03 22:12 조회4,283회 댓글0건첨부파일
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본문
暗唱聖句
【口語訳】 ルカ 24:27 こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。
【新共同訳】 ルカ 24:27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
【新改訳改訂第3版】 ルカ 24:27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。
【リビング・バイブル】 ルカ 24:27 それからイエスは、創世記から始めて、聖書(旧約)全体にわたって次から次へと預言者のことばを引用しては、救い主についての教えを説き明かしました。 <NKJV> Luk 24:27 And beginning at Moses and all the Prophets, He expounded to them in all the Scriptures the things concerning Himself.
<KJV> Luk 24:27 And beginning at Moses and all the prophets, he expounded unto them in all the scriptures the things concerning himself.
<NIV> Luk 24:27 And beginning with Moses and all the Prophets, he explained to them what was said in all the Scriptures concerning himself. <TEV> Luk 24:27 And Jesus explained to them what was said about himself in all the Scriptures, beginning with the books of Moses and the writings of all the prophets.
J-ばいぶるGREEK 原書講読画面
Luk 24:27
kai. avrxa,menoj avpo. Mwu?se,wj kai. avpo. pa,ntwn tw/n profhtw/n diermh,neusen auvtoi/j evn pa,saij tai/j grafai/j ta. peri. e`autou/Å
<文法解析ノート> Luk 24:27
@1# kai, kai. cc 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば
@2# a;rcw avrxa,menoj vpamnm-s 分)アオ中主男単 支配する、始める
@3# avpo, avpo. pg 前)属 ~から、のうちの、によって
@4# Mwu?sh/j Mwu?se,wj
@5# kai, kai. cc 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば
@6# avpo, avpo. pg 前)属 ~から、のうちの、によって
@7# pa/j pa,ntwn a--gm-p 形)属 全部で、すべての、どんな~でも、あらゆる、あらんかぎりの、1つも欠けが無い
@8# o` tw/n dgmp 冠)属男 冠詞(この、その)
@9# profh,thj profhtw/n n-gm-p 名)属男複 預言者
@10# diermhneu,w diermh,neusen viaa--3s 動)直アオ能3単 説き明かす
@11# auvto,j auvtoi/j npdm3p 代)与男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに
@12# evn evn pd 前)与 中に、間に、で、よって、に、
@13# pa/j pa,saij a--df-p 形)与 全部で、すべての、どんな~でも、あらゆる、あらんかぎりの、1つも欠けが無い
@14# o` tai/j ddfp 冠)与女 冠詞(この、その)
@15# grafh, grafai/j n-df-p 名)与女複 書、聖書
@16# o` ta. danp+ 冠)対中 冠詞(この、その)
@17# peri, peri. pg 前)属 ~のこと
@18# e`autou/ e`autou/) npgm3s 代)属男3単 彼自身、自分自身、
安息日午後
参考 (聖書の達人2聖書辞典)
■れいかん 霊感 神の息が吹き込まれること.ちょうどそれによって人が生きるものとなったように(創2:7),聖書も神の息,すなわち聖霊に動かされた人々によって書かれたものである(Ⅱペテ1:21).パウロはⅡテモ3:16‐17において「霊感」について次のように語っている.(1)「すべて」は,十全なる霊感を指す.(2)「聖書はすべて」は,十全霊感が直接には旧約に関するものであるが,新約をも含むものであることを意味する(参照Ⅱペテ3:16).(3)「神の」は,聖書の原著者は神であり,この神が人間である著者の個性を用いて誤りなく神のことばを書くように霊感されたことを意味する.(4)聖書の有益性(価値)は,「教えと戒めと矯正と義の訓練」にある.(5)聖書の目的は,「神の人が,すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるため」である.
日曜日 釈義
問1
【口語訳】 ロマ 2:14-16
2:14 すなわち、律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである。 2:15 彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し、そのことを彼らの良心も共にあかしをして、その判断が互にあるいは訴え、あるいは弁明し合うのである。 2:16 そして、これらのことは、わたしの福音によれば、神がキリスト・イエスによって人々の隠れた事がらをさばかれるその日に、明らかにされるであろう。 【新共同訳】 ロマ 2:14-16
2:14 たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。 2:15 こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。 2:16 そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。 【新改訳改訂3】 ロマ 2:14-16
2:14 ──律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行いをする場合は、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。 2:15 彼らはこのようにして、律法の命じる行いが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。── 2:16 私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行われるのです。 注解 (聖書の達人2聖書注解)
異邦人について言えば,律法を知らされていないのに,律法によってさばかれるのは公平を欠くのではないかと言う者があるかもしれない.確かに異邦人はモーセを通して与えられた石の板に刻まれた律法は持っていない.しかし〈律法の命じる行ないが彼らの心に書かれている〉(15)のである.神は異邦人にも,善悪をわきまえる感覚を備えておられる.このことは,彼らは〈自分自身が自分に対する律法〉(14)であるということを示している.異邦人は,心に記されている〈律法の命じる行ない〉(15,直訳「律法の働き」)のほかに,それと共にあかしをし,互いに責め合ったり,弁明し合ったりするものとして〈良心〉を与えられている.だから,特別啓示としての律法について知らないとしても,神のかたちに似せて創造された道徳的存在として守らなければならない律法について全く無知であったのではない.むしろ,人間が創造された際,エデンの園において啓示されていたと考えることが出来る.故に,たとい不完全であっても,異邦人も律法の知識を持っているのであるから,神は,ユダヤ人であれ異邦人であれ,等しく神の律法に基づいて公平にさばかれると言うことが出来る しかし,このさばきの公正なことが決定的な形で示されるのは,神がイエス・キリストによって終りの日に行われるさばきにおいてである(16).その時,今の世において一見,不公平に処理されていると思われるすべての行為に対して,完全に公平で正しい審判が行われるのである(詩73:13‐20).この決定的な神のさばきこそ,パウロが,〈私の福音によれば〉(16)と語るように,福音の中心的メッセージの1つなのである
【口語訳】 エゼ 3:17-19
3:17 「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家のために見守る者とした。あなたはわたしの口から言葉を聞くたびに、わたしに代って彼らを戒めなさい。 3:18 わたしが悪人に『あなたは必ず死ぬ』と言うとき、あなたは彼の命を救うために彼を戒めず、また悪人を戒めて、その悪い道から離れるように語らないなら、その悪人は自分の悪のために死ぬ。しかしその血をわたしはあなたの手から求める。 3:19 しかし、もしあなたが悪人を戒めても、彼がその悪をも、またその悪い道をも離れないなら、彼はその悪のために死ぬ。しかしあなたは自分の命を救う。 【新共同訳】 エゼ 3:17-19
3:17 「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの家の見張りとする。わたしの口から言葉を聞くなら、あなたはわたしに代わって彼らに警告せねばならない。 3:18 わたしが悪人に向かって、『お前は必ず死ぬ』と言うとき、もしあなたがその悪人に警告して、悪人が悪の道から離れて命を得るように諭さないなら、悪人は自分の罪のゆえに死ぬが、彼の死の責任をあなたに問う。 3:19 しかし、あなたが悪人に警告したのに、悪人が自分の悪と悪の道から立ち帰らなかった場合には、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。 【新改訳改訂3】 エゼ 3:17-19
3:17 「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。 3:18 わたしが悪者に、『あなたは必ず死ぬ』と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪者に悪の道から離れて生きのびるように語って、警告しないなら、その悪者は自分の不義のために死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。 3:19 もしあなたが悪者に警告を与えても、彼がその悪を悔い改めず、その悪の道から立ち返らないなら、彼は自分の不義のために死ななければならない。しかしあなたは自分のいのちを救うことになる。 注解 (聖書の達人2聖書注解)
主はエゼキエルを〈イスラエルの家の見張り人〉(17)として召して下さった.〈見張り人〉は主の預言者の任務で(エレ6:17,ホセ9:8,ハバ2:1,参照イザ56:10),迫って来ている危険を見て,警告しなければならない.霊的な事柄における見張りであるから,主の御言葉の光の下で霊的危機を見分けなければならない(17b).警告は〈悪者〉に対して(18,19)と,正しい人が不正を行うようになった時(20‐21)になされる.〈正しい人〉は罪のない人ではなく,主の契約(贖いの恵みを備えている)に忠実に歩んでいる人を指す.〈あなたは必ず死ぬ〉(18)は,律法において死刑を表す(出21:12,レビ20:10).この主のさばきが執行される前に警告を与えることが,預言者の任務である.「わたしは彼の血をあなたの手に求める」(18節直訳)は,主の報復を示す言葉(創9:5,42:22,レビ20:9等).19節と21節を比較すると,正しい人の場合には,主からの警告によって悔い改めに至る可能性が強調されている.
【口語訳】 ロマ 10:12-17
10:12 ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。10:13 なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。 10:14 しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。 10:15 つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。 10:16 しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っている。 10:17 したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。 【新共同訳】 ロマ 10:12-17
10:12 ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。 10:13 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。 10:14 ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。 10:15 遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。 10:16 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。 10:17 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。 【新改訳改訂3】 ロマ 10:12-17
10:12 ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。 10:13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。 10:14 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。 10:15 遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」 10:16 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか」とイザヤは言っています。 10:17 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。
注解 (聖書の達人2聖書注解) 12節.〈望みを抱いて喜び,患難に耐え,絶えず祈りに励みなさい〉.初代教会の聖徒たちの交わりの美しい情景をほうふつとさせる勧めの言葉である.現在,見失われている情景ではないだろうか 13節.貧しい聖徒たちを助けることの義務が教えられている.カルヴァンは次のように注解している.「貧しさによって最もはげしく責め立てられ,助けられる必要のある人が,最も顧みられない,ということが一般に行われているのであるから,神は,とりわけ,特別に,この行いを強くすすめたもうのである」.今日の教会に特に有益な勧めである 14節.〈迫害する者を祝福しなさい〉.赦しと愛の精神を,教会の中だけでなく,教会の外に,迫害する者にも向けるべきことが教えられる.イエスの山上の説教の中の御言葉へと思いを向けられる(マタ5:44) 15節.〈喜ぶ者といっしょに喜び,泣く者といっしょに泣きなさい〉.再び,信徒相互の交わりのあり方が教えられる.教会は,喜びと悲しみを共有する共同体である.他人の喜び,他人の悲しみに無関心であってはならないということである 16節.〈互いに一つ心になり〉は,文字通りには「互いに同じことを思う」という意味.価値観を共有することは一致のために大切なことである.その上に,〈高ぶった思いを持たず,かえって身分の低い者に順応しなさい.自分こそ知者だなどと思ってはいけません〉という厳しい助言に従うことが大切である17節.〈悪に悪を報いる〉ことが当然なことと受け止められているこの世にあって,キリスト者は,〈だれに対してでも,悪に悪を報いることをせず,すべての人が良いと思うことを図りなさい〉と勧められる
*律法をまもることによって救われる?新約聖書はそれをはっきり否定している
【新共同訳】 ロマ3:28 なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。 【新共同訳】 ガラ2:16 けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。 *聖書にはっきりと書いてある
【新共同訳】 ロマ3:10 次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。
月曜日 説教学
問2
【口語訳】 マル 1:15 「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。
【新共同訳】 マル 1:15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
【新改訳改訂第3版】 マル 1:15 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」
注解 (聖書の達人2聖書注解)
〈神の国は近くなった〉(15)は,「神の国がまさに出現しようとしている」(ウィリアムソン)と解釈するのが自然であろう.宣言通りに,神の国はイエスの言葉とわざの内に現れる.もちろん,その完全な実現はなお将来にあるが,汚れた霊が敗北し,らい病がきよめられ,罪が赦されていく中,人々は神の国の到来を体験する(→緒論3.).2‐13節の「期待」のトーンと対照的に,これ以降は,時が満ちたという「成就」のトーンで展開する.その中で,人々は今までの悔い改めに加え,〈信じなさい〉(15)と言われている
*マルコ1:17によれば
【新共同訳】 マル 1:17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
*コヘレトの言葉の引用
【新共同訳】 コヘ 7:29 ただし見よ、見いだしたことがある。神は人間をまっすぐに造られたが/人間は複雑な考え方をしたがる、ということ。
火曜日 時と場合
問3
【口語訳】 エレ 4:23-26
4:23 わたしは地を見たが、それは形がなく、またむなしかった。天をあおいだが、そこには光がなかった。 4:24 わたしは山を見たが、みな震え、もろもろの丘は動いていた。 4:25 わたしは見たが、人はひとりもおらず、空の鳥はみな飛び去っていた。 4:26 わたしは見たが、豊かな地は荒れ地となり、そのすべての町は、主の前に、その激しい怒りの前に、破壊されていた。 【新共同訳】 エレ 4:23-26
4:23 わたしは見た。見よ、大地は混沌とし/空には光がなかった。 4:24 わたしは見た。見よ、山は揺れ動き/すべての丘は震えていた。 4:25 わたしは見た。見よ、人はうせ/空の鳥はことごとく逃げ去っていた。 4:26 わたしは見た。見よ、実り豊かな地は荒れ野に変わり/町々はことごとく、主の御前に/主の激しい怒りによって打ち倒されていた。 【新改訳改訂3】 エレ 4:23-26
4:23 私が地を見ると、見よ、茫漠として何もなく、天を見ると、その光はなかった。 4:24 私が山々を見ると、見よ、揺れ動き、すべての丘は震えていた。 4:25 私が見ると、見よ、人はひとりもいなく、空の鳥もみな飛び去っていた。 4:26 私が見ると、見よ、果樹園は荒野となり、町々は【主】の御前で、その燃える怒りによって、取りこわされていた。 注解 (聖書の達人2聖書注解)
エレミヤは,神のさばきは自然が全く破壊されてしまうほどの激しいものであることを幻の中で示される(23‐26).
参考 (聖書の達人2聖書辞典)
■よけい,よけいろん 予型,予型論
1.用語. 予型ということばは,ギリシヤ語のテュポスから来ている.テュポスは基本的に,「原型」を表すこともあるし,その「写し」を表すこともある.新約聖書では14回用いられており,おもに(原)型や模範を表している.予型の意味で用いられているのはローマ5:14のみで,「アダムはきたるべき方のひな型です」と言われている.この「*ひな型」は,テュポスと対になるアンティテュポスによっても表されることがある(ヘブル9:24,Ⅰぺテロ3:21).
2.予型論とその前提. 予型は聖書解釈における重要な問題の一つであり,それを取り扱うものが予型論である.予型論は,神の*創造と*救済のみわざが歴史的なものであることと,相互に関連していることを踏まえている.神はこの世界を,時間とともに進展し,完成に至る歴史的な世界としてお造りになった.救済は,創造によって始まった世界の歴史的な意味を完成する.*終末は,救済のみわざの完成の時であるだけでなく,創造の目的の完成の時でもある.そして,この二つの完成は一致する. 予型とは,神の創造と救済のみわざの歴史において,より早い時期に現れた事物,人物,出来事,制度などで,後に来る成就や完成を指し示すもののことである.予型はおもに,救済の歴史の古い*契約の時代のものが,新しい契約の時代における成就や完成を指し示すという形で理解されるが,より広くは,創造をも含めて考えられる.*アダム(とその子孫との関係.ローマ5:14)のように,創造によるものも予型としての意味を持っていることがある. 予型は神のみわざの歴史のより早い時期に現れたものが,後に来る成就や完成を指し示すが,神のみわざは最終的にキリストにおいて成就し,完成する.従って,予型は基本的にキリストにおける成就,完成をあかしする. 3.預言,象徴,類比との関係. 予型の理解にとって大切なことは,予型と*預言,象徴,*類比との関係である. (1) 預言との関係.予型は,後に来る成就や完成を指し示すという点で,預言としての意味を持っている.予型は預言の一種である.予型として用いられるものは,事物,人物,出来事,制度などである.預言にはそのようなものが用いられることもあるが,おもにことばが用いられる.預言のほうが予型よりも広いのである. (2) 象徴との関係.予型と象徴との関係についてはいろいろな見方があるが,予型に象徴としての意味があることは認められる.しかし,象徴としての意味があるものが,すべて予型であるとは限らない.この意味で,予型は特殊な象徴であると言うことができる.すでに述べたように,予型は後に来る成就や完成を指し示すという点で,歴史的な次元で理解されるべきものである.しかし,象徴そのものにとっては,この歴史的な次元は本質的なものではない.時間を越えたものや,一つの時代だけに当てはまることなどの象徴もあり得るのである. 予型は後に来るものを象徴的に表示するだけではない.予型は同時に,それが与えられた時代にとっても象徴としての意味を持っている.それが与えられた時代に対して象徴としての意味を持ちつつ,後に来る成就や完成を象徴的に指し示すものが,予型である. 予型が象徴的な意味を持っているということは,予型が指し示していることには限界があるということである.予型に基づいて過剰な解釈がなされてはならないことを意味する. (3) 類比との関係.予型と類比の関係は微妙である.ここで言う類比とは,神のみわざのなされ方には原理的な一貫性があるために,救済の歴史の中には,似たようなことが繰り返し起ることがある,ということを意味する.予型は類比の一種であるが,すべての類比が予型なのではない.後に来るものを指し示すという意味を持たない類比もあるのである.例えば,主にある義人が苦しみを受けるということは,いつの時代にも見られることである.確かに,イエス・キリストの*苦難はその頂点にあると言える.しかし,ある特定の人物の苦難がキリストの苦難の予型であるとか,キリストの苦難がある特定の人物の苦難の成就であるということではない. 予型と類比の区別は微妙であるため,すべての類比を予型と考えてしまう危険がある.予型は単なる類比ではなく,預言的な意味を持つ類比である.神の民が置かれている「状況」に,いつの時代にも共通する面があるために,同じようなことが繰り返し起ったのであれば,それは単なる類比である.例えば主にある義人の苦難を生み出す状況は,主に敵対する力が働いていることであるが,これはどの時代にも共通している. あるものが予型であるかどうかの判断が難しい時には,聖書の中で予型として明示されているものだけを予型として認める,という基準に従うのが安全である. 4.予型の種類. 予型には,その与えられ方からすると,二種類ある.一つは,青銅のへび,マナ,「岩」(Ⅰコリント10:3,4)などのように,救済の歴史の出来事の流れの中で与えられたものである.もう一つは,聖所,いけにえの制度,大贖罪の日などのように,制度化されたものとして与えられたものである. 5.予型論的解釈. 予型との関連で注目すべきことに,聖書の予型論的解釈がある.予型論的解釈においては,予型の意味がこれまで述べてきたことよりも広くとらえられており,むしろ,予型をも含む類比に近い.予型論的解釈においても,神のみわざに原理的な一貫性があることが踏まえられている.そこでは,過去になされた神のみわざとその啓示(された解釈)が,救済の歴史の進展の中で生じる新しい事態を理解するための枠組みとなっている.
予型論的解釈において,救済の歴史の新しい事態を理解するための枠組みとなる神のみわざは,おもに,創造のみわざと,出エジプトからカナン侵入までの出来事の二つである.このことはすでに旧約聖書の中に繰り返し現れてきて,新約聖書に受け継がれている. 例えば,洪水後の秩序の確立は,神の創造的なみわざとして示されている(創世8:22‐9:7).主の救いのみわざの完成が,新しい創造としてとらえられていることも同じである(イザヤ65:17以下,66:22‐24,Ⅱコリント5:17,黙示録21:1‐4,22:1,2).また,イザヤ40章以下では,バビロンの捕囚からの帰還が,創造のみわざと出エジプトの出来事を枠組みとして語られている.イエス・キリストによる救いのみわざも,新しい創造として理解されるだけでなく,新しい出エジプトとしても理解されている(マタイ2:15,ルカ22:15,16,Ⅰコリント5:7,8). さらにⅠコリント10:1‐11には,予型と考えられるもの(1‐4節)も含めて,出エジプトの時代に起ったことが,後の時代への教訓であると言われている.同様のことはヘブル3:1‐4:11にも見られる.これらは予型より意味の広い予型論的解釈の例である.→聖書解釈学. 〔参考文献〕B・ラム『聖書解釈学概論』pp.278―308,聖書図書刊行会,1963;Vos, G., Biblical Theology, pp.161ff., Eerdmans, 1948 ; Bruce, F. F., “Typology,” The Illustrated Bible Dictionary, Tyndale, 1980 ; Baker, D. L., Two Testaments : One Bible, pp.239―70, IVP, 1976.(清水武夫)
水曜日 直截的文脈
問4
【口語訳】 イザ 65:17 見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。さきの事はおぼえられることなく、心に思い起すことはない。
【新共同訳】 イザ 65:17 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。
【新改訳改訂第3版】 イザ 65:17 見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。
注解 (聖書の達人2聖書注解)
これこそ,終末において実現する新しい創造のみわざである.キリストにおける新しい創造はその具体化であり,終末の希望をより確実にし,私たちをも黙示録的永遠の希望へと導くものである(黙21:1‐4).65章の最後の部分(17‐25)は,まさにその終末的新天新地の栄光に輝く神の主権のもとにある祝福が美しく描写されている.新しいエルサレムが創造され,贖われた神の民は,時の制限もなく,恐怖からも解放され,神の統治のもとで生かされるというのである.17‐25節は「旧約における最も美しい終末のメッセージで,イザヤ書はここで閉じられてもよいほどである」
*イザヤは言っている
【新共同訳】 イザ 65:20 そこには、もはや若死にする者も/年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬ者は若者とされ/百歳に達しない者は呪われた者とされる。
*諸国の光
【新共同訳】 イザ 42:6 主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び/あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として/あなたを形づくり、あなたを立てた。
問5
【口語訳】 一ヨハ 5:12-13
5:12 御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない。 5:13 これらのことをあなたがたに書きおくったのは、神の子の御名を信じるあなたがたに、永遠のいのちを持っていることを、悟らせるためである。 【新共同訳】 一ヨハ 5:2-13
5:12 御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。 ◆永遠の命 5:13 神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。 【新改訳改訂3】 Ⅰヨハ 5:12-13
5:12 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。 5:13 私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。 注解 (聖書の達人2聖書注解)
その〈いのち〉の根源である〈御子を持つ者は〉今すでに〈いのちを持っており〉,〈神の御子を持たない者〉は必然的に〈いのちを持っていません〉ということになる(12) この手紙の終りの部分に差しかかり,彼らがすでに与えられているものに対する確信を促す ここはヨハ20:31「これらのことが書かれたのは……」を思い出させるが,ヨハネの福音書の場合は命を得させるのが目的であった.それに対してこの手紙は,〈あなたがたが永遠のいのちを持っていることを,あなたがたによくわからせるため〉であるとしてその意図を明らかにしている.〈持っている〉(〈ギ〉エケテ)は現在形だが,滅びつつあるこの世界に住み,限りある肉体の命に生きる私たちなのに,今,現に,〈永遠のいのちを持っている〉と確信出来るというのは考えてみると驚くべきことである.それは〈御子の名を信じている〉者だけが持ち得る確信ということが出来よう
木曜日 全体的文書
問6
【口語訳】 エペ 2:8-9
2:8 あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。 2:9 決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。 【新共同訳】 エペ 2:8-9
2:8 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 2:9 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。 【新改訳改訂3】 エペ 2:8-9
2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。 2:9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。 注解 (聖書の達人2聖書注解)
8 〈恵みのゆえに〉.〈恵み〉には定冠詞が付いている.漠然とした話ではない.前節の「キリスト・イエス(の十字架)において私たちに賜わる慈愛」のことであろう.その恵みは,無媒介にばらまかれるのではない.〈信仰によって〉.「によって」は〈ギ〉ディア(~を通して)という前置詞.人はイエスを自分の救い主として受け入れる信仰を管として,その恵みを受けるのである(参照ヨハ1:12).〈それは……神からの賜物〉.「それは」〈ギ〉トゥートは中性であり,①「救われたのは」(カルヴァン),②「信仰(信じたの)は」(クリュソストモス)のどちらともとれるが,救いは神の賜物というより恵みであろう.信仰は「神から純粋に賜わり贈られた」もの(第1スイス信条)である 9 〈行ないによるのではありません〉.前節の駄目押し.いかなる形でも人の功績が顔を出す余地はない.「我らのする善き業に対しては,我らは神に負うている」(ベルギー信条)
【口語訳】 ヤコブ 2:14-26
2:14 わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。 2:15 ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、 2:16 あなたがたのうち、だれかが、「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。 2:17 信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。 2:18 しかし、「ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある」と言う者があろう。それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう。 2:19 あなたは、神はただひとりであると信じているのか。それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている。 2:20 ああ、愚かな人よ。行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか。 2:21 わたしたちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげた時、行いによって義とされたのではなかったか。 2:22 あなたが知っているとおり、彼においては、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ、 2:23 こうして、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」という聖書の言葉が成就し、そして、彼は「神の友」と唱えられたのである。 2:24 これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。 2:25 同じように、かの遊女ラハブでさえも、使者たちをもてなし、彼らを別な道から送り出した時、行いによって義とされたではないか。 2:26 霊魂のないからだが死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのである。 【新共同訳】 ヤコブ 2:14-26
2:14 わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。 2:15 もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、 2:16 あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。 2:17 信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。 2:18 しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。 2:19 あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。 2:20 ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。 2:21 神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。 2:22 アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。 2:23 「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。 2:24 これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。 2:25 同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。
2:26 魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。 【新改訳改訂3】 ヤコブ 2:14-26
2:14 私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。 2:15 もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、 2:16 あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。 2:17 それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。 2:18 さらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行いを持っています。行いのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行いによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」 2:19 あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。 2:20 ああ愚かな人よ。あなたは行いのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。 2:21 私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行いによって義と認められたではありませんか。 2:22 あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ、 2:23 そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。 2:24 人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。 2:25 同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行いによって義と認められたではありませんか。 2:26 たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。 注解 (聖書の達人2聖書注解)
御言葉を実行すること,すなわち,律法を守り行うこと,特に隣人愛の「最高の律法」を守り行うことについて語ってきたヤコブは,ここで行いと信仰との関係について論じる.行い,特に愛の行いを伴わない信仰は役に立たない死んだものである.本当の信仰は行いと共に働き,行いによって全うされることを,ヤコブはアブラハムとラハブという旧約聖書の人物の信仰の行いによって例証する 14 ヤコブはまず,行いを伴わない信仰は口先だけのもので役に立たないものであると言う.ここで言う信仰とは,単なる知識としての信仰,あるいは言葉や儀式としての信仰である.〈何の役に立ちましょう〉は,最後の審判の時にその人を救うことが出来ないという意味(参照マタ7:21) 15‐16 〈もし,兄弟また姉妹のだれかが〉と教会の中で困っている人を想定した言い方をしているが,1‐2章から,実際に困窮していた者が少なくなかったと思われる.さばきの時に役に立たない信仰のたとえとして語られているが,これには主イエスの教え(マタ25:42‐46)が下敷きになっているのかもしれない 17 ヤコブにとっては行いを伴わない信仰はあり得ない.本当の信仰なら必ず行い,特に愛の行いを生み出す.もし行いを伴わない信仰があるとすれば,それは死んだものである(参照ガラ5:6,エペ2:10) 18 この節は,〈こう言う人〉とは誰で,その言葉をどこまでとするかによって解釈が分れる.口語訳は「ある人には信仰があり,またほかの人には行いがある」と訳し,色々な異なる賜物の場合と同じように信仰を持つ人と行いを持つ人があってよいと考える人の言葉と見る.新改訳はこの人の言葉を節の終りまでとして,ヤコブの賛同者が彼に代って行いのない信仰を持っている人に対して迫っている言葉と見る 19 〈神はおひとりだと信じています〉は,ユダヤ人の信仰告白であるシェマの朗唱への言及であろう(参照申6:4).ここで言う信仰は信条に対する知的賛同だけであって,人格的な信頼や服従の信仰ではない.ヤコブはそのような信仰なら悪霊でも持っていると皮肉を言う(参照マコ5:7) 20 〈むなしい〉は「無益」ないし「役に立たない」の意 21 〈行ないによって義と認められた〉という表現を,ヤコブは24節と25節で繰り返している.この言葉は,しばしばパウロの信仰による義認の教えと対立するものとされる.しかし,ヤコブはパウロとは異なる文脈で,異なる意味で論じていることを忘れてはならない.パウロは,罪人が律法の要求を満たそうとする行いによってではなく,ただイエス・キリストに対する信仰によって神の前に罪のない者と見なされることを信仰義認の教えとして主張しているのである(参照ロマ4章,ガラ3章,エペ2:8‐9).このことの例証としてパウロはアブラハムの信仰を挙げる.しかしヤコブは,すでにキリストを信じている者の信仰が神に受け入れられる生きた信仰であるなら必ず愛の行いを生み出すものであると主張する.このことの例証としてアブラハムの信仰,すなわち彼の行いと共に働いた信仰を取り上げる.この場合,〈義と認められた〉は,その信仰を行いを通して表したアブラハムを神がよしと認められた,という意味である.〈アブラハムは,その子イサクを祭壇にささげたとき〉と創22章の記事に言及するのもそのためである 22 〈彼の信仰は彼の行ないとともに働いた〉は,アブラハムの信仰が彼の行いを助け,自分の子をささげる服従の行いにまで彼を導いた,の意.〈信仰は行ないによって全うされ〉は,彼の信仰がその服従の行いによって成熟したものになった,の意 23 〈アブラハムは神を信じ,その信仰が彼の義とみなされた〉は創15:6の引用.この〈聖書のことば〉はイサクの生れる前にアブラハムが神の約束を信じた信仰について語っているが,約30年後に彼がイサクをささげた行いによってそれが〈実現し〉たとヤコブは主張する.これはイサクについての神の約束(創15:1‐5)が成就したことと見る見方もあるが,むしろ,彼の義と見なされたアブラハムの信仰がこの行いによって完全に表されたと見るほうが文脈に合っている.〈神の友〉はユダヤ教においてアブラハムに与えられていた称号で,彼がその信仰の故に神に喜ばれ,受け入れられたことを示している(参照Ⅱ歴20:7,イザ41:8) 24 〈人は〉とヤコブはここで結論を一般的に述べる.真の信仰は必ず行いを伴うものであるから,行いなしに信仰だけで神に喜ばれ,受け入れられるのではない(参照マタ7:21‐23) 25 〈遊女ラハブ〉はユダヤ教文書の中で多く言及され,異邦人の改宗者の型とされていた.彼女の信仰についてはヘブ11:31でも賞賛されているが,ヤコブは彼女もアブラハムと同じように信仰に伴う具体的な行いによって神に喜ばれ,受け入れられたことを強調する(参照ヨシ2章) 26 信仰と行いとの関係を体と魂との関係にたとえて,ヤコブは今まで述べてきたことを締めくくる.〈たましいを離れたからだ〉は創2:7に基づくと思われるが,それは行いを伴わない信仰と同じように全く命のない死んだものである
【口語訳】 ロマ 3:21-28
3:21 しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。 3:22 それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。 3:23 すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、 3:24 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。 3:25 神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、 3:26 それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。 3:27 すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。 3:28 わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。 【新共同訳】 ロマ 3:21-28
3:21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。 3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。 3:23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。 3:25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。 3:26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。 3:27 では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。 3:28 なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。 【新改訳改訂3】 ロマ 3:21-28
3:21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。 3:22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。 3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。 3:25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。 3:26 それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。 3:27 それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。 3:28 人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。 注解 (聖書の達人2聖書注解)
信仰による義認の教理の本質を解明するこの部分は,本書前半の教理的部分の総論的役割を果す.更に,ルターが指摘したように,「本書だけでなく,聖書全体の中心的位置を占める」ものでもある 21節.〈しかし,今は〉.人間の罪について語ってきたパウロは,ここで,神の恩恵について語り始める.神の救いのみわざによってもたらされた劇的転換が,〈しかし,今は〉の2語によって表現される.「聖書の中で,この,『しかし,今は』(But now)の2つの言葉以上の素晴らしい言葉はない」(ロイド‐ジョウンズ).この〈今〉は,〈神の義が示されました〉と言われる今の時である 〈神の義〉は,福音の本質を解明するこの部分のキーワードである.この義は,〈律法とは別に〉示されたものである.〈律法とは別に〉は,文字通りには「律法なしに」と訳せる.この言葉は,義とされるために,律法の行いは全く役に立たないことを示す.この義は,〈今〉示されたものではあるが,すでに〈律法と預言者によってあかしされ〉たものである.〈律法と預言者〉という表現は,旧約聖書全体を指す言い回しである.旧約聖書全体が,律法とは別に与えられる義,福音において現された神の義をあかししている(ルカ24:27,44) 22節.この神の義が,〈イエス・キリストを信じる信仰による神の義〉と言われる.信仰〈による〉(〈ギ〉ディア)は,信仰「を通して」の意味であって,信仰の価値,功績によるという意味は全くない.信仰は,神の義を受け取る手にすぎない.この信仰は,〈イエス・キリストを信じる信仰〉でなければならない.なぜなら,イエス・キリストこそ神の義だからである.故に神の義は,信仰のみを条件として,すべての人に平等に与えられるものである.神の義は,〈すべての信じる人に与えられ〉るものであって,信仰以外に〈何の差別もありません〉と言われる 23節.〈すべての人は,罪を犯したので,神からの栄誉を受けることができず〉.ユダヤ人も異邦人も共に義を欠いており,従って,神の義であるキリストを必要とすることにおいて差別は全く存在しない.「罪の行為は過去形で示されている.罪の現在的,永続的結果は,神の栄光を欠いていることである」(C・ホッジ).神からの栄誉を受けることの出来ない人間は,何一つ義を行い得ない存在である24節.だから,〈義と認められる〉ことは,〈ただ,神の恵みにより〉与えられる.神の恩恵によるということは,神の一方的な,自由な贈り物として与えられるということであり,〈価なしに〉与えられるのである.私たちが価なしに受けることが出来るのは,神がその価を払っていて下さるからである.神の支払われる価こそ,〈キリスト・イエスによる贖い〉にほかならない.〈贖い〉(〈ギ〉アポリュトゥローシス)は,単なる解放ではなく,身の代金を支払うことによる解放である.キリストは,多くの人のための贖いの代価として自分の生命を与えるために来られた(マタ20:28) 25‐26節.ここで義認のもう1つの根拠が明らかにされる.それはまた,十字架が神に対して持つ意義を示す.すなわち,神の怒りに対する〈なだめ〉である.〈なだめの供え物〉(〈ギ〉ヒラステーリオン)は,人々のあらゆる不敬虔と不正とに対して啓示された「神の怒り」をなだめるためのものである.「あがないの供え物」(口語訳)との訳は,この区別を見失わせる.そのなだめの供え物は,キリスト・イエスの十字架で流された犠牲の血によるものであるが,またそれは,そのなだめの供え物を信じる信仰を手段として与えられるものである.ここで,キリスト・イエスをなだめの供え物として〈公にお示しにな〉った(〈ギ〉プロエセト)方が父なる神ご自身であること,従って,〈なだめの供え物〉は,神が,ご自身に対して,公にお示しになっているものであることに力点が置かれている.その目的は,〈ご自身の義を現わすためです〉と言われる.この義は,5節の場合と同様,神の属性としての義,すなわち神の正義を意味する.神が人間の犯す罪に対してその正義を現されなかったのは,〈神の忍耐をもって見のがして来られたからです〉と説明される.「見逃すこと」「先へ延すこと」は,決して赦すことではない.しかし,そのように「見逃されること」を,神がご自分の正義を全うする熱心を失っているのではないかと罪人は考えがちである故に,罪に対する神の正義,神の怒りが示されなければならなかった だから,〈今の時にご自身の義を現わすため〉(26),キリスト・イエスをなだめの供え物として与えられたのである.ヨハネが,私たちの罪のための「なだめの供え物」として義なるイエス・キリストが立てられたと語るのは,このことにほかならない(Ⅰヨハ2:2) 〈こうして神ご自身が義であり,また,イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです〉.神は,ご自身の義を確立することなしに,罪人を義とすることはあり得ない.罪のない方を罪人として罰することにおいても,罪人の罪を赦して義とすることにおいても,少しも不義の入り込む余地を残すことなく
【口語訳】 ルカ 24:27 こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。
【新共同訳】 ルカ 24:27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
【新改訳改訂第3版】 ルカ 24:27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。
【リビング・バイブル】 ルカ 24:27 それからイエスは、創世記から始めて、聖書(旧約)全体にわたって次から次へと預言者のことばを引用しては、救い主についての教えを説き明かしました。 <NKJV> Luk 24:27 And beginning at Moses and all the Prophets, He expounded to them in all the Scriptures the things concerning Himself.
<KJV> Luk 24:27 And beginning at Moses and all the prophets, he expounded unto them in all the scriptures the things concerning himself.
<NIV> Luk 24:27 And beginning with Moses and all the Prophets, he explained to them what was said in all the Scriptures concerning himself. <TEV> Luk 24:27 And Jesus explained to them what was said about himself in all the Scriptures, beginning with the books of Moses and the writings of all the prophets.
J-ばいぶるGREEK 原書講読画面
Luk 24:27
kai. avrxa,menoj avpo. Mwu?se,wj kai. avpo. pa,ntwn tw/n profhtw/n diermh,neusen auvtoi/j evn pa,saij tai/j grafai/j ta. peri. e`autou/Å
<文法解析ノート> Luk 24:27
@1# kai, kai. cc 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば
@2# a;rcw avrxa,menoj vpamnm-s 分)アオ中主男単 支配する、始める
@3# avpo, avpo. pg 前)属 ~から、のうちの、によって
@4# Mwu?sh/j Mwu?se,wj
@5# kai, kai. cc 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば
@6# avpo, avpo. pg 前)属 ~から、のうちの、によって
@7# pa/j pa,ntwn a--gm-p 形)属 全部で、すべての、どんな~でも、あらゆる、あらんかぎりの、1つも欠けが無い
@8# o` tw/n dgmp 冠)属男 冠詞(この、その)
@9# profh,thj profhtw/n n-gm-p 名)属男複 預言者
@10# diermhneu,w diermh,neusen viaa--3s 動)直アオ能3単 説き明かす
@11# auvto,j auvtoi/j npdm3p 代)与男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに
@12# evn evn pd 前)与 中に、間に、で、よって、に、
@13# pa/j pa,saij a--df-p 形)与 全部で、すべての、どんな~でも、あらゆる、あらんかぎりの、1つも欠けが無い
@14# o` tai/j ddfp 冠)与女 冠詞(この、その)
@15# grafh, grafai/j n-df-p 名)与女複 書、聖書
@16# o` ta. danp+ 冠)対中 冠詞(この、その)
@17# peri, peri. pg 前)属 ~のこと
@18# e`autou/ e`autou/) npgm3s 代)属男3単 彼自身、自分自身、
安息日午後
参考 (聖書の達人2聖書辞典)
■れいかん 霊感 神の息が吹き込まれること.ちょうどそれによって人が生きるものとなったように(創2:7),聖書も神の息,すなわち聖霊に動かされた人々によって書かれたものである(Ⅱペテ1:21).パウロはⅡテモ3:16‐17において「霊感」について次のように語っている.(1)「すべて」は,十全なる霊感を指す.(2)「聖書はすべて」は,十全霊感が直接には旧約に関するものであるが,新約をも含むものであることを意味する(参照Ⅱペテ3:16).(3)「神の」は,聖書の原著者は神であり,この神が人間である著者の個性を用いて誤りなく神のことばを書くように霊感されたことを意味する.(4)聖書の有益性(価値)は,「教えと戒めと矯正と義の訓練」にある.(5)聖書の目的は,「神の人が,すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるため」である.
日曜日 釈義
問1
【口語訳】 ロマ 2:14-16
2:14 すなわち、律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである。 2:15 彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し、そのことを彼らの良心も共にあかしをして、その判断が互にあるいは訴え、あるいは弁明し合うのである。 2:16 そして、これらのことは、わたしの福音によれば、神がキリスト・イエスによって人々の隠れた事がらをさばかれるその日に、明らかにされるであろう。 【新共同訳】 ロマ 2:14-16
2:14 たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。 2:15 こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。 2:16 そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。 【新改訳改訂3】 ロマ 2:14-16
2:14 ──律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行いをする場合は、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。 2:15 彼らはこのようにして、律法の命じる行いが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。── 2:16 私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行われるのです。 注解 (聖書の達人2聖書注解)
異邦人について言えば,律法を知らされていないのに,律法によってさばかれるのは公平を欠くのではないかと言う者があるかもしれない.確かに異邦人はモーセを通して与えられた石の板に刻まれた律法は持っていない.しかし〈律法の命じる行ないが彼らの心に書かれている〉(15)のである.神は異邦人にも,善悪をわきまえる感覚を備えておられる.このことは,彼らは〈自分自身が自分に対する律法〉(14)であるということを示している.異邦人は,心に記されている〈律法の命じる行ない〉(15,直訳「律法の働き」)のほかに,それと共にあかしをし,互いに責め合ったり,弁明し合ったりするものとして〈良心〉を与えられている.だから,特別啓示としての律法について知らないとしても,神のかたちに似せて創造された道徳的存在として守らなければならない律法について全く無知であったのではない.むしろ,人間が創造された際,エデンの園において啓示されていたと考えることが出来る.故に,たとい不完全であっても,異邦人も律法の知識を持っているのであるから,神は,ユダヤ人であれ異邦人であれ,等しく神の律法に基づいて公平にさばかれると言うことが出来る しかし,このさばきの公正なことが決定的な形で示されるのは,神がイエス・キリストによって終りの日に行われるさばきにおいてである(16).その時,今の世において一見,不公平に処理されていると思われるすべての行為に対して,完全に公平で正しい審判が行われるのである(詩73:13‐20).この決定的な神のさばきこそ,パウロが,〈私の福音によれば〉(16)と語るように,福音の中心的メッセージの1つなのである
【口語訳】 エゼ 3:17-19
3:17 「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家のために見守る者とした。あなたはわたしの口から言葉を聞くたびに、わたしに代って彼らを戒めなさい。 3:18 わたしが悪人に『あなたは必ず死ぬ』と言うとき、あなたは彼の命を救うために彼を戒めず、また悪人を戒めて、その悪い道から離れるように語らないなら、その悪人は自分の悪のために死ぬ。しかしその血をわたしはあなたの手から求める。 3:19 しかし、もしあなたが悪人を戒めても、彼がその悪をも、またその悪い道をも離れないなら、彼はその悪のために死ぬ。しかしあなたは自分の命を救う。 【新共同訳】 エゼ 3:17-19
3:17 「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの家の見張りとする。わたしの口から言葉を聞くなら、あなたはわたしに代わって彼らに警告せねばならない。 3:18 わたしが悪人に向かって、『お前は必ず死ぬ』と言うとき、もしあなたがその悪人に警告して、悪人が悪の道から離れて命を得るように諭さないなら、悪人は自分の罪のゆえに死ぬが、彼の死の責任をあなたに問う。 3:19 しかし、あなたが悪人に警告したのに、悪人が自分の悪と悪の道から立ち帰らなかった場合には、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。 【新改訳改訂3】 エゼ 3:17-19
3:17 「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。 3:18 わたしが悪者に、『あなたは必ず死ぬ』と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪者に悪の道から離れて生きのびるように語って、警告しないなら、その悪者は自分の不義のために死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。 3:19 もしあなたが悪者に警告を与えても、彼がその悪を悔い改めず、その悪の道から立ち返らないなら、彼は自分の不義のために死ななければならない。しかしあなたは自分のいのちを救うことになる。 注解 (聖書の達人2聖書注解)
主はエゼキエルを〈イスラエルの家の見張り人〉(17)として召して下さった.〈見張り人〉は主の預言者の任務で(エレ6:17,ホセ9:8,ハバ2:1,参照イザ56:10),迫って来ている危険を見て,警告しなければならない.霊的な事柄における見張りであるから,主の御言葉の光の下で霊的危機を見分けなければならない(17b).警告は〈悪者〉に対して(18,19)と,正しい人が不正を行うようになった時(20‐21)になされる.〈正しい人〉は罪のない人ではなく,主の契約(贖いの恵みを備えている)に忠実に歩んでいる人を指す.〈あなたは必ず死ぬ〉(18)は,律法において死刑を表す(出21:12,レビ20:10).この主のさばきが執行される前に警告を与えることが,預言者の任務である.「わたしは彼の血をあなたの手に求める」(18節直訳)は,主の報復を示す言葉(創9:5,42:22,レビ20:9等).19節と21節を比較すると,正しい人の場合には,主からの警告によって悔い改めに至る可能性が強調されている.
【口語訳】 ロマ 10:12-17
10:12 ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。10:13 なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。 10:14 しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。 10:15 つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。 10:16 しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っている。 10:17 したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。 【新共同訳】 ロマ 10:12-17
10:12 ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。 10:13 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。 10:14 ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。 10:15 遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。 10:16 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。 10:17 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。 【新改訳改訂3】 ロマ 10:12-17
10:12 ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。 10:13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。 10:14 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。 10:15 遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」 10:16 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか」とイザヤは言っています。 10:17 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。
注解 (聖書の達人2聖書注解) 12節.〈望みを抱いて喜び,患難に耐え,絶えず祈りに励みなさい〉.初代教会の聖徒たちの交わりの美しい情景をほうふつとさせる勧めの言葉である.現在,見失われている情景ではないだろうか 13節.貧しい聖徒たちを助けることの義務が教えられている.カルヴァンは次のように注解している.「貧しさによって最もはげしく責め立てられ,助けられる必要のある人が,最も顧みられない,ということが一般に行われているのであるから,神は,とりわけ,特別に,この行いを強くすすめたもうのである」.今日の教会に特に有益な勧めである 14節.〈迫害する者を祝福しなさい〉.赦しと愛の精神を,教会の中だけでなく,教会の外に,迫害する者にも向けるべきことが教えられる.イエスの山上の説教の中の御言葉へと思いを向けられる(マタ5:44) 15節.〈喜ぶ者といっしょに喜び,泣く者といっしょに泣きなさい〉.再び,信徒相互の交わりのあり方が教えられる.教会は,喜びと悲しみを共有する共同体である.他人の喜び,他人の悲しみに無関心であってはならないということである 16節.〈互いに一つ心になり〉は,文字通りには「互いに同じことを思う」という意味.価値観を共有することは一致のために大切なことである.その上に,〈高ぶった思いを持たず,かえって身分の低い者に順応しなさい.自分こそ知者だなどと思ってはいけません〉という厳しい助言に従うことが大切である17節.〈悪に悪を報いる〉ことが当然なことと受け止められているこの世にあって,キリスト者は,〈だれに対してでも,悪に悪を報いることをせず,すべての人が良いと思うことを図りなさい〉と勧められる
*律法をまもることによって救われる?新約聖書はそれをはっきり否定している
【新共同訳】 ロマ3:28 なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。 【新共同訳】 ガラ2:16 けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。 *聖書にはっきりと書いてある
【新共同訳】 ロマ3:10 次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。
月曜日 説教学
問2
【口語訳】 マル 1:15 「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。
【新共同訳】 マル 1:15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
【新改訳改訂第3版】 マル 1:15 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」
注解 (聖書の達人2聖書注解)
〈神の国は近くなった〉(15)は,「神の国がまさに出現しようとしている」(ウィリアムソン)と解釈するのが自然であろう.宣言通りに,神の国はイエスの言葉とわざの内に現れる.もちろん,その完全な実現はなお将来にあるが,汚れた霊が敗北し,らい病がきよめられ,罪が赦されていく中,人々は神の国の到来を体験する(→緒論3.).2‐13節の「期待」のトーンと対照的に,これ以降は,時が満ちたという「成就」のトーンで展開する.その中で,人々は今までの悔い改めに加え,〈信じなさい〉(15)と言われている
*マルコ1:17によれば
【新共同訳】 マル 1:17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
*コヘレトの言葉の引用
【新共同訳】 コヘ 7:29 ただし見よ、見いだしたことがある。神は人間をまっすぐに造られたが/人間は複雑な考え方をしたがる、ということ。
火曜日 時と場合
問3
【口語訳】 エレ 4:23-26
4:23 わたしは地を見たが、それは形がなく、またむなしかった。天をあおいだが、そこには光がなかった。 4:24 わたしは山を見たが、みな震え、もろもろの丘は動いていた。 4:25 わたしは見たが、人はひとりもおらず、空の鳥はみな飛び去っていた。 4:26 わたしは見たが、豊かな地は荒れ地となり、そのすべての町は、主の前に、その激しい怒りの前に、破壊されていた。 【新共同訳】 エレ 4:23-26
4:23 わたしは見た。見よ、大地は混沌とし/空には光がなかった。 4:24 わたしは見た。見よ、山は揺れ動き/すべての丘は震えていた。 4:25 わたしは見た。見よ、人はうせ/空の鳥はことごとく逃げ去っていた。 4:26 わたしは見た。見よ、実り豊かな地は荒れ野に変わり/町々はことごとく、主の御前に/主の激しい怒りによって打ち倒されていた。 【新改訳改訂3】 エレ 4:23-26
4:23 私が地を見ると、見よ、茫漠として何もなく、天を見ると、その光はなかった。 4:24 私が山々を見ると、見よ、揺れ動き、すべての丘は震えていた。 4:25 私が見ると、見よ、人はひとりもいなく、空の鳥もみな飛び去っていた。 4:26 私が見ると、見よ、果樹園は荒野となり、町々は【主】の御前で、その燃える怒りによって、取りこわされていた。 注解 (聖書の達人2聖書注解)
エレミヤは,神のさばきは自然が全く破壊されてしまうほどの激しいものであることを幻の中で示される(23‐26).
参考 (聖書の達人2聖書辞典)
■よけい,よけいろん 予型,予型論
1.用語. 予型ということばは,ギリシヤ語のテュポスから来ている.テュポスは基本的に,「原型」を表すこともあるし,その「写し」を表すこともある.新約聖書では14回用いられており,おもに(原)型や模範を表している.予型の意味で用いられているのはローマ5:14のみで,「アダムはきたるべき方のひな型です」と言われている.この「*ひな型」は,テュポスと対になるアンティテュポスによっても表されることがある(ヘブル9:24,Ⅰぺテロ3:21).
2.予型論とその前提. 予型は聖書解釈における重要な問題の一つであり,それを取り扱うものが予型論である.予型論は,神の*創造と*救済のみわざが歴史的なものであることと,相互に関連していることを踏まえている.神はこの世界を,時間とともに進展し,完成に至る歴史的な世界としてお造りになった.救済は,創造によって始まった世界の歴史的な意味を完成する.*終末は,救済のみわざの完成の時であるだけでなく,創造の目的の完成の時でもある.そして,この二つの完成は一致する. 予型とは,神の創造と救済のみわざの歴史において,より早い時期に現れた事物,人物,出来事,制度などで,後に来る成就や完成を指し示すもののことである.予型はおもに,救済の歴史の古い*契約の時代のものが,新しい契約の時代における成就や完成を指し示すという形で理解されるが,より広くは,創造をも含めて考えられる.*アダム(とその子孫との関係.ローマ5:14)のように,創造によるものも予型としての意味を持っていることがある. 予型は神のみわざの歴史のより早い時期に現れたものが,後に来る成就や完成を指し示すが,神のみわざは最終的にキリストにおいて成就し,完成する.従って,予型は基本的にキリストにおける成就,完成をあかしする. 3.預言,象徴,類比との関係. 予型の理解にとって大切なことは,予型と*預言,象徴,*類比との関係である. (1) 預言との関係.予型は,後に来る成就や完成を指し示すという点で,預言としての意味を持っている.予型は預言の一種である.予型として用いられるものは,事物,人物,出来事,制度などである.預言にはそのようなものが用いられることもあるが,おもにことばが用いられる.預言のほうが予型よりも広いのである. (2) 象徴との関係.予型と象徴との関係についてはいろいろな見方があるが,予型に象徴としての意味があることは認められる.しかし,象徴としての意味があるものが,すべて予型であるとは限らない.この意味で,予型は特殊な象徴であると言うことができる.すでに述べたように,予型は後に来る成就や完成を指し示すという点で,歴史的な次元で理解されるべきものである.しかし,象徴そのものにとっては,この歴史的な次元は本質的なものではない.時間を越えたものや,一つの時代だけに当てはまることなどの象徴もあり得るのである. 予型は後に来るものを象徴的に表示するだけではない.予型は同時に,それが与えられた時代にとっても象徴としての意味を持っている.それが与えられた時代に対して象徴としての意味を持ちつつ,後に来る成就や完成を象徴的に指し示すものが,予型である. 予型が象徴的な意味を持っているということは,予型が指し示していることには限界があるということである.予型に基づいて過剰な解釈がなされてはならないことを意味する. (3) 類比との関係.予型と類比の関係は微妙である.ここで言う類比とは,神のみわざのなされ方には原理的な一貫性があるために,救済の歴史の中には,似たようなことが繰り返し起ることがある,ということを意味する.予型は類比の一種であるが,すべての類比が予型なのではない.後に来るものを指し示すという意味を持たない類比もあるのである.例えば,主にある義人が苦しみを受けるということは,いつの時代にも見られることである.確かに,イエス・キリストの*苦難はその頂点にあると言える.しかし,ある特定の人物の苦難がキリストの苦難の予型であるとか,キリストの苦難がある特定の人物の苦難の成就であるということではない. 予型と類比の区別は微妙であるため,すべての類比を予型と考えてしまう危険がある.予型は単なる類比ではなく,預言的な意味を持つ類比である.神の民が置かれている「状況」に,いつの時代にも共通する面があるために,同じようなことが繰り返し起ったのであれば,それは単なる類比である.例えば主にある義人の苦難を生み出す状況は,主に敵対する力が働いていることであるが,これはどの時代にも共通している. あるものが予型であるかどうかの判断が難しい時には,聖書の中で予型として明示されているものだけを予型として認める,という基準に従うのが安全である. 4.予型の種類. 予型には,その与えられ方からすると,二種類ある.一つは,青銅のへび,マナ,「岩」(Ⅰコリント10:3,4)などのように,救済の歴史の出来事の流れの中で与えられたものである.もう一つは,聖所,いけにえの制度,大贖罪の日などのように,制度化されたものとして与えられたものである. 5.予型論的解釈. 予型との関連で注目すべきことに,聖書の予型論的解釈がある.予型論的解釈においては,予型の意味がこれまで述べてきたことよりも広くとらえられており,むしろ,予型をも含む類比に近い.予型論的解釈においても,神のみわざに原理的な一貫性があることが踏まえられている.そこでは,過去になされた神のみわざとその啓示(された解釈)が,救済の歴史の進展の中で生じる新しい事態を理解するための枠組みとなっている.
予型論的解釈において,救済の歴史の新しい事態を理解するための枠組みとなる神のみわざは,おもに,創造のみわざと,出エジプトからカナン侵入までの出来事の二つである.このことはすでに旧約聖書の中に繰り返し現れてきて,新約聖書に受け継がれている. 例えば,洪水後の秩序の確立は,神の創造的なみわざとして示されている(創世8:22‐9:7).主の救いのみわざの完成が,新しい創造としてとらえられていることも同じである(イザヤ65:17以下,66:22‐24,Ⅱコリント5:17,黙示録21:1‐4,22:1,2).また,イザヤ40章以下では,バビロンの捕囚からの帰還が,創造のみわざと出エジプトの出来事を枠組みとして語られている.イエス・キリストによる救いのみわざも,新しい創造として理解されるだけでなく,新しい出エジプトとしても理解されている(マタイ2:15,ルカ22:15,16,Ⅰコリント5:7,8). さらにⅠコリント10:1‐11には,予型と考えられるもの(1‐4節)も含めて,出エジプトの時代に起ったことが,後の時代への教訓であると言われている.同様のことはヘブル3:1‐4:11にも見られる.これらは予型より意味の広い予型論的解釈の例である.→聖書解釈学. 〔参考文献〕B・ラム『聖書解釈学概論』pp.278―308,聖書図書刊行会,1963;Vos, G., Biblical Theology, pp.161ff., Eerdmans, 1948 ; Bruce, F. F., “Typology,” The Illustrated Bible Dictionary, Tyndale, 1980 ; Baker, D. L., Two Testaments : One Bible, pp.239―70, IVP, 1976.(清水武夫)
水曜日 直截的文脈
問4
【口語訳】 イザ 65:17 見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。さきの事はおぼえられることなく、心に思い起すことはない。
【新共同訳】 イザ 65:17 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。
【新改訳改訂第3版】 イザ 65:17 見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。
注解 (聖書の達人2聖書注解)
これこそ,終末において実現する新しい創造のみわざである.キリストにおける新しい創造はその具体化であり,終末の希望をより確実にし,私たちをも黙示録的永遠の希望へと導くものである(黙21:1‐4).65章の最後の部分(17‐25)は,まさにその終末的新天新地の栄光に輝く神の主権のもとにある祝福が美しく描写されている.新しいエルサレムが創造され,贖われた神の民は,時の制限もなく,恐怖からも解放され,神の統治のもとで生かされるというのである.17‐25節は「旧約における最も美しい終末のメッセージで,イザヤ書はここで閉じられてもよいほどである」
*イザヤは言っている
【新共同訳】 イザ 65:20 そこには、もはや若死にする者も/年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬ者は若者とされ/百歳に達しない者は呪われた者とされる。
*諸国の光
【新共同訳】 イザ 42:6 主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び/あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として/あなたを形づくり、あなたを立てた。
問5
【口語訳】 一ヨハ 5:12-13
5:12 御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない。 5:13 これらのことをあなたがたに書きおくったのは、神の子の御名を信じるあなたがたに、永遠のいのちを持っていることを、悟らせるためである。 【新共同訳】 一ヨハ 5:2-13
5:12 御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。 ◆永遠の命 5:13 神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。 【新改訳改訂3】 Ⅰヨハ 5:12-13
5:12 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。 5:13 私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。 注解 (聖書の達人2聖書注解)
その〈いのち〉の根源である〈御子を持つ者は〉今すでに〈いのちを持っており〉,〈神の御子を持たない者〉は必然的に〈いのちを持っていません〉ということになる(12) この手紙の終りの部分に差しかかり,彼らがすでに与えられているものに対する確信を促す ここはヨハ20:31「これらのことが書かれたのは……」を思い出させるが,ヨハネの福音書の場合は命を得させるのが目的であった.それに対してこの手紙は,〈あなたがたが永遠のいのちを持っていることを,あなたがたによくわからせるため〉であるとしてその意図を明らかにしている.〈持っている〉(〈ギ〉エケテ)は現在形だが,滅びつつあるこの世界に住み,限りある肉体の命に生きる私たちなのに,今,現に,〈永遠のいのちを持っている〉と確信出来るというのは考えてみると驚くべきことである.それは〈御子の名を信じている〉者だけが持ち得る確信ということが出来よう
木曜日 全体的文書
問6
【口語訳】 エペ 2:8-9
2:8 あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。 2:9 決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。 【新共同訳】 エペ 2:8-9
2:8 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 2:9 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。 【新改訳改訂3】 エペ 2:8-9
2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。 2:9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。 注解 (聖書の達人2聖書注解)
8 〈恵みのゆえに〉.〈恵み〉には定冠詞が付いている.漠然とした話ではない.前節の「キリスト・イエス(の十字架)において私たちに賜わる慈愛」のことであろう.その恵みは,無媒介にばらまかれるのではない.〈信仰によって〉.「によって」は〈ギ〉ディア(~を通して)という前置詞.人はイエスを自分の救い主として受け入れる信仰を管として,その恵みを受けるのである(参照ヨハ1:12).〈それは……神からの賜物〉.「それは」〈ギ〉トゥートは中性であり,①「救われたのは」(カルヴァン),②「信仰(信じたの)は」(クリュソストモス)のどちらともとれるが,救いは神の賜物というより恵みであろう.信仰は「神から純粋に賜わり贈られた」もの(第1スイス信条)である 9 〈行ないによるのではありません〉.前節の駄目押し.いかなる形でも人の功績が顔を出す余地はない.「我らのする善き業に対しては,我らは神に負うている」(ベルギー信条)
【口語訳】 ヤコブ 2:14-26
2:14 わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。 2:15 ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、 2:16 あなたがたのうち、だれかが、「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。 2:17 信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。 2:18 しかし、「ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある」と言う者があろう。それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう。 2:19 あなたは、神はただひとりであると信じているのか。それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている。 2:20 ああ、愚かな人よ。行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか。 2:21 わたしたちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげた時、行いによって義とされたのではなかったか。 2:22 あなたが知っているとおり、彼においては、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ、 2:23 こうして、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」という聖書の言葉が成就し、そして、彼は「神の友」と唱えられたのである。 2:24 これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。 2:25 同じように、かの遊女ラハブでさえも、使者たちをもてなし、彼らを別な道から送り出した時、行いによって義とされたではないか。 2:26 霊魂のないからだが死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのである。 【新共同訳】 ヤコブ 2:14-26
2:14 わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。 2:15 もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、 2:16 あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。 2:17 信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。 2:18 しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。 2:19 あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。 2:20 ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。 2:21 神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。 2:22 アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。 2:23 「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。 2:24 これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。 2:25 同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。
2:26 魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。 【新改訳改訂3】 ヤコブ 2:14-26
2:14 私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。 2:15 もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、 2:16 あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。 2:17 それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。 2:18 さらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行いを持っています。行いのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行いによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」 2:19 あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。 2:20 ああ愚かな人よ。あなたは行いのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。 2:21 私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行いによって義と認められたではありませんか。 2:22 あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ、 2:23 そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。 2:24 人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。 2:25 同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行いによって義と認められたではありませんか。 2:26 たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。 注解 (聖書の達人2聖書注解)
御言葉を実行すること,すなわち,律法を守り行うこと,特に隣人愛の「最高の律法」を守り行うことについて語ってきたヤコブは,ここで行いと信仰との関係について論じる.行い,特に愛の行いを伴わない信仰は役に立たない死んだものである.本当の信仰は行いと共に働き,行いによって全うされることを,ヤコブはアブラハムとラハブという旧約聖書の人物の信仰の行いによって例証する 14 ヤコブはまず,行いを伴わない信仰は口先だけのもので役に立たないものであると言う.ここで言う信仰とは,単なる知識としての信仰,あるいは言葉や儀式としての信仰である.〈何の役に立ちましょう〉は,最後の審判の時にその人を救うことが出来ないという意味(参照マタ7:21) 15‐16 〈もし,兄弟また姉妹のだれかが〉と教会の中で困っている人を想定した言い方をしているが,1‐2章から,実際に困窮していた者が少なくなかったと思われる.さばきの時に役に立たない信仰のたとえとして語られているが,これには主イエスの教え(マタ25:42‐46)が下敷きになっているのかもしれない 17 ヤコブにとっては行いを伴わない信仰はあり得ない.本当の信仰なら必ず行い,特に愛の行いを生み出す.もし行いを伴わない信仰があるとすれば,それは死んだものである(参照ガラ5:6,エペ2:10) 18 この節は,〈こう言う人〉とは誰で,その言葉をどこまでとするかによって解釈が分れる.口語訳は「ある人には信仰があり,またほかの人には行いがある」と訳し,色々な異なる賜物の場合と同じように信仰を持つ人と行いを持つ人があってよいと考える人の言葉と見る.新改訳はこの人の言葉を節の終りまでとして,ヤコブの賛同者が彼に代って行いのない信仰を持っている人に対して迫っている言葉と見る 19 〈神はおひとりだと信じています〉は,ユダヤ人の信仰告白であるシェマの朗唱への言及であろう(参照申6:4).ここで言う信仰は信条に対する知的賛同だけであって,人格的な信頼や服従の信仰ではない.ヤコブはそのような信仰なら悪霊でも持っていると皮肉を言う(参照マコ5:7) 20 〈むなしい〉は「無益」ないし「役に立たない」の意 21 〈行ないによって義と認められた〉という表現を,ヤコブは24節と25節で繰り返している.この言葉は,しばしばパウロの信仰による義認の教えと対立するものとされる.しかし,ヤコブはパウロとは異なる文脈で,異なる意味で論じていることを忘れてはならない.パウロは,罪人が律法の要求を満たそうとする行いによってではなく,ただイエス・キリストに対する信仰によって神の前に罪のない者と見なされることを信仰義認の教えとして主張しているのである(参照ロマ4章,ガラ3章,エペ2:8‐9).このことの例証としてパウロはアブラハムの信仰を挙げる.しかしヤコブは,すでにキリストを信じている者の信仰が神に受け入れられる生きた信仰であるなら必ず愛の行いを生み出すものであると主張する.このことの例証としてアブラハムの信仰,すなわち彼の行いと共に働いた信仰を取り上げる.この場合,〈義と認められた〉は,その信仰を行いを通して表したアブラハムを神がよしと認められた,という意味である.〈アブラハムは,その子イサクを祭壇にささげたとき〉と創22章の記事に言及するのもそのためである 22 〈彼の信仰は彼の行ないとともに働いた〉は,アブラハムの信仰が彼の行いを助け,自分の子をささげる服従の行いにまで彼を導いた,の意.〈信仰は行ないによって全うされ〉は,彼の信仰がその服従の行いによって成熟したものになった,の意 23 〈アブラハムは神を信じ,その信仰が彼の義とみなされた〉は創15:6の引用.この〈聖書のことば〉はイサクの生れる前にアブラハムが神の約束を信じた信仰について語っているが,約30年後に彼がイサクをささげた行いによってそれが〈実現し〉たとヤコブは主張する.これはイサクについての神の約束(創15:1‐5)が成就したことと見る見方もあるが,むしろ,彼の義と見なされたアブラハムの信仰がこの行いによって完全に表されたと見るほうが文脈に合っている.〈神の友〉はユダヤ教においてアブラハムに与えられていた称号で,彼がその信仰の故に神に喜ばれ,受け入れられたことを示している(参照Ⅱ歴20:7,イザ41:8) 24 〈人は〉とヤコブはここで結論を一般的に述べる.真の信仰は必ず行いを伴うものであるから,行いなしに信仰だけで神に喜ばれ,受け入れられるのではない(参照マタ7:21‐23) 25 〈遊女ラハブ〉はユダヤ教文書の中で多く言及され,異邦人の改宗者の型とされていた.彼女の信仰についてはヘブ11:31でも賞賛されているが,ヤコブは彼女もアブラハムと同じように信仰に伴う具体的な行いによって神に喜ばれ,受け入れられたことを強調する(参照ヨシ2章) 26 信仰と行いとの関係を体と魂との関係にたとえて,ヤコブは今まで述べてきたことを締めくくる.〈たましいを離れたからだ〉は創2:7に基づくと思われるが,それは行いを伴わない信仰と同じように全く命のない死んだものである
【口語訳】 ロマ 3:21-28
3:21 しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。 3:22 それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。 3:23 すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、 3:24 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。 3:25 神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、 3:26 それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。 3:27 すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。 3:28 わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。 【新共同訳】 ロマ 3:21-28
3:21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。 3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。 3:23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。 3:25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。 3:26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。 3:27 では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。 3:28 なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。 【新改訳改訂3】 ロマ 3:21-28
3:21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。 3:22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。 3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。 3:25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。 3:26 それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。 3:27 それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。 3:28 人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。 注解 (聖書の達人2聖書注解)
信仰による義認の教理の本質を解明するこの部分は,本書前半の教理的部分の総論的役割を果す.更に,ルターが指摘したように,「本書だけでなく,聖書全体の中心的位置を占める」ものでもある 21節.〈しかし,今は〉.人間の罪について語ってきたパウロは,ここで,神の恩恵について語り始める.神の救いのみわざによってもたらされた劇的転換が,〈しかし,今は〉の2語によって表現される.「聖書の中で,この,『しかし,今は』(But now)の2つの言葉以上の素晴らしい言葉はない」(ロイド‐ジョウンズ).この〈今〉は,〈神の義が示されました〉と言われる今の時である 〈神の義〉は,福音の本質を解明するこの部分のキーワードである.この義は,〈律法とは別に〉示されたものである.〈律法とは別に〉は,文字通りには「律法なしに」と訳せる.この言葉は,義とされるために,律法の行いは全く役に立たないことを示す.この義は,〈今〉示されたものではあるが,すでに〈律法と預言者によってあかしされ〉たものである.〈律法と預言者〉という表現は,旧約聖書全体を指す言い回しである.旧約聖書全体が,律法とは別に与えられる義,福音において現された神の義をあかししている(ルカ24:27,44) 22節.この神の義が,〈イエス・キリストを信じる信仰による神の義〉と言われる.信仰〈による〉(〈ギ〉ディア)は,信仰「を通して」の意味であって,信仰の価値,功績によるという意味は全くない.信仰は,神の義を受け取る手にすぎない.この信仰は,〈イエス・キリストを信じる信仰〉でなければならない.なぜなら,イエス・キリストこそ神の義だからである.故に神の義は,信仰のみを条件として,すべての人に平等に与えられるものである.神の義は,〈すべての信じる人に与えられ〉るものであって,信仰以外に〈何の差別もありません〉と言われる 23節.〈すべての人は,罪を犯したので,神からの栄誉を受けることができず〉.ユダヤ人も異邦人も共に義を欠いており,従って,神の義であるキリストを必要とすることにおいて差別は全く存在しない.「罪の行為は過去形で示されている.罪の現在的,永続的結果は,神の栄光を欠いていることである」(C・ホッジ).神からの栄誉を受けることの出来ない人間は,何一つ義を行い得ない存在である24節.だから,〈義と認められる〉ことは,〈ただ,神の恵みにより〉与えられる.神の恩恵によるということは,神の一方的な,自由な贈り物として与えられるということであり,〈価なしに〉与えられるのである.私たちが価なしに受けることが出来るのは,神がその価を払っていて下さるからである.神の支払われる価こそ,〈キリスト・イエスによる贖い〉にほかならない.〈贖い〉(〈ギ〉アポリュトゥローシス)は,単なる解放ではなく,身の代金を支払うことによる解放である.キリストは,多くの人のための贖いの代価として自分の生命を与えるために来られた(マタ20:28) 25‐26節.ここで義認のもう1つの根拠が明らかにされる.それはまた,十字架が神に対して持つ意義を示す.すなわち,神の怒りに対する〈なだめ〉である.〈なだめの供え物〉(〈ギ〉ヒラステーリオン)は,人々のあらゆる不敬虔と不正とに対して啓示された「神の怒り」をなだめるためのものである.「あがないの供え物」(口語訳)との訳は,この区別を見失わせる.そのなだめの供え物は,キリスト・イエスの十字架で流された犠牲の血によるものであるが,またそれは,そのなだめの供え物を信じる信仰を手段として与えられるものである.ここで,キリスト・イエスをなだめの供え物として〈公にお示しにな〉った(〈ギ〉プロエセト)方が父なる神ご自身であること,従って,〈なだめの供え物〉は,神が,ご自身に対して,公にお示しになっているものであることに力点が置かれている.その目的は,〈ご自身の義を現わすためです〉と言われる.この義は,5節の場合と同様,神の属性としての義,すなわち神の正義を意味する.神が人間の犯す罪に対してその正義を現されなかったのは,〈神の忍耐をもって見のがして来られたからです〉と説明される.「見逃すこと」「先へ延すこと」は,決して赦すことではない.しかし,そのように「見逃されること」を,神がご自分の正義を全うする熱心を失っているのではないかと罪人は考えがちである故に,罪に対する神の正義,神の怒りが示されなければならなかった だから,〈今の時にご自身の義を現わすため〉(26),キリスト・イエスをなだめの供え物として与えられたのである.ヨハネが,私たちの罪のための「なだめの供え物」として義なるイエス・キリストが立てられたと語るのは,このことにほかならない(Ⅰヨハ2:2) 〈こうして神ご自身が義であり,また,イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです〉.神は,ご自身の義を確立することなしに,罪人を義とすることはあり得ない.罪のない方を罪人として罰することにおいても,罪人の罪を赦して義とすることにおいても,少しも不義の入り込む余地を残すことなく
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