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第03課 希望

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작성자 나도람 작성일09-04-13 14:34 조회4,116회 댓글0건

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第03課 希望

暗唱聖句
【口語訳】 一ペテ 3:15 ただ、心の中でキリストを主とあがめなさい。また、あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしていなさい。
【新共同訳】 一ペト 3:15 心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。
【新改訳改訂第3版】 Ⅰペテ 3:15 むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。
【リビング・バイブル】 Ⅰペテ 3:15 心を動揺させないで、ただ主キリスト様を信じなさい。 もしだれかに、「なぜキリスト様を信じるのか」と尋ねられたら、いつでもその理由を話せるようにしていなさい。 それも、おだやかに、親切な態度で説明すべきです。 <NKJV> 1Pe 3:15 But sanctify the Lord God in your hearts, and always be ready to give a defense to everyone who asks you a reason for the hope that is in you, with meekness and fear;
<KJV> 1Pe 3:15 But sanctify the Lord God in your hearts: and be ready always to give an answer to every man that asketh you a reason of the hope that is in you with meekness and fear: <NIV> 1Pe 3:15 But in your hearts set apart Christ as Lord. Always be prepared to give an answer to everyone who asks you to give the reason for the hope that you have. But do this with gentleness and respect,
<TEV> 1Pe 3:15 But have reverence for Christ in your hearts, and honor him as Lord. Be ready at all times to answer anyone who asks you to explain the hope you have in you,
J-ばいぶるGREEK 原書講読画面
1Pe 3:15
ku,rion de. to.n Cristo.n a`gia,sate evn tai/j kardi,aij u`mw/n( e[toimoi avei. pro.j avpologi,an panti. tw/| aivtou/nti u`ma/j lo,gon peri. th/j evn u`mi/n evlpi,doj(
<文法解析ノート> 1Pe 3:15
@1# ku,rioj ku,rion n-am-s 名)対男単 主
@2# de, de. ch 接)完等 さて、そして、次に、しかし
@3# o` to.n dams 冠)対男 冠詞(この、その)
@4# Cristo,j Cristo.n n-am-s 名)対男単 キリスト
@5# a`gia,zw a`gia,sate vmaa--2p 動)命アオ能2複 聖別する、(あがめられる)
@6# evn evn pd 前)与 中に、間に、で、よって、に、
@7# o` tai/j ddfp 冠)与女 冠詞(この、その)
@8# kardi,a kardi,aij n-df-p 名)与女複 心
@9# su, u`mw/n( npg-2p 代)属2複 あなた
@10# e[toimoj e[toimoi a--nm-p 形)主男複 用意ができて
@11# avei, avei. ab 副) いつも
@12# pro,j pro.j pa 前) のところへ、の近くに、のために、に対して、について
@13# avpologi,a avpologi,an n-af-s 名)対女単 弁明
@14# pa/j panti. a--dm-s 形)与 全部で、すべての、どんな~でも、あらゆる、あらんかぎりの、1つも欠けが無い
@15# o` tw/| ddms+ 冠)与男 冠詞(この、その)
@16# aivte,w aivtou/nti vppadm-s 分)現能与男単 求める、願う
@17# su, u`ma/j npa-2p 代)対2複 あなた
@18# lo,goj lo,gon n-am-s 名)対男単 ことば、理由
@19# peri, peri. pg 前)属 ~のこと
@20# o` th/j dgfs 冠)属女 冠詞(この、その)
@21# evn evn pd 前)与 中に、間に、で、よって、に、
@22# su, u`mi/n npd-2p 代)与2複 あなた
@23# evlpi,j evlpi,doj( n-gf-s 名)属女単 望み、希望

安息日午後 今週のテーマ
参考   (聖書の達人2聖書辞典)
■きぼう 希望 
希望は信仰と愛と共に,いつまでも保持すべき聖霊の賜物としてのキリスト者の特質である(Ⅰコリ13:8,13).希望と訳されている〈ギ〉エルピスは,しばしば「信仰」と置き換えることのできる意味で用いられている(ヘブ10:23,エペ1:12).この語のギリシヤ的用法では,単なる未来への期待や願望を表すものであったが,聖書の用法はそれとは異なる.旧約聖書の中で「主を待ち望む」という場合,救いをもたらす主への信頼を表すイスラエル独自の信仰告白概念であって,神こそが「イスラエルの望み」なのである(詩25:5,62:5,エレ14:8,哀3:25‐26).なぜなら,神が歴史を支配し,選びの約束を実現してくださるからである.新約聖書における希望も,神の約束に根拠を持つ旧約的な希望概念の特質を基本的に受け継いでいる.神は,すでに旧約聖書であかしされた約束の歴史をさらに導く「約束の神」(ヘブ10:23,11:11)であり,それゆえに「望みの神」(ロマ15:13)なのである. キリスト御自身がキリスト者の「望み」である(Ⅰテモ1:1)のは,キリストの復活によって,特有の希望が新たに生れた者に与えられ,聖霊の力によって望みにあふれさせられたからである(ロマ15:13,Ⅰコリ15:19).(1)この希望は救いにかかわるものであり,信仰と愛と同様,本質的な恩恵である(Ⅰコリ13:13,ガラ5:5‐6,Ⅰテサ1:3,5:8,ヘブ6:10‐12).信仰と希望と愛は切り離すことのできないものである.信仰から離れて希望は存在しないし,希望なしに愛の実行は不可能である.(2)この希望の対象は神の国における究極の祝福,すなわち「永遠のいのち」である(テト1:2,3:7,ユダ21節).(3)この希望は「安全で確かな錨の役を果たし」て,現実の生活を安定させる(ヘブ6:18‐19).(4)この希望は,「喜び」「忍耐」「練られた品性」のような道徳的果実を生み出す(ロマ5:2‐5).(5)この希望は,最初に神がアブラハムに救いの約束を与えた時に生じ(ロマ4:18),イスラエルによって抱き続けられ,パウロによって福音の希望として宣べ伝えられたのである(使26:6‐7). また「希望」は,キリストのからだである教会が共有しているものである.テサロニケの人々は,先に世を去った兄弟たちと再び一緒になれるとの希望を持つように励まされた(Ⅰテサ4:13‐18).キリストは,御自分につく者たちが共に栄光を見るようにと祈られた(ヨハ17:24).この究極の完成は,教会に与えられている聖霊によって保証されている(ロマ8:16‐17,エペ1:14).

日曜日 現代の希望
問1
【口語訳】 ルカ 21:25‐26
21:25 また日と月と星とに、しるしが現れるであろう。そして、地上では、諸国民が悩み、海と大波とのとどろきにおじ惑い、 21:26 人々は世界に起ろうとする事を思い、恐怖と不安で気絶するであろう。もろもろの天体が揺り動かされるからである。 【新共同訳】 ルカ 21:25‐26
21:25 「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。 21:26 人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。 【新改訳改訂3】 ルカ 21:25‐26
21:25 そして、日と月と星には、前兆が現れ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、 21:26 人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。
【リビング・バイブル】 ルカ 21 :25‐26
21:25 それから、天に不思議な現象が起こります。 太陽と月と星には不吉な前兆が現われ、地上では荒れ狂う海と高潮のために、諸国民はおじ惑い、大騒ぎとなります。 21:26 人々は、何か、とてつもなく恐ろしいことが起こるのではないかという不安にかられ、意気阻喪します。不動と信じられていた天そのものが揺れ動くのですから、むりもありません。 問2
【口語訳】 ルカ 21:28 これらの事が起りはじめたら、身を起し頭をもたげなさい。あなたがたの救が近づいているのだから」。
【新共同訳】 ルカ 21:28 このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」
【新改訳改訂第3版】 ルカ 21:28 これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです。」
【リビング・バイブル】 ルカ21:28 いま言ったようなことが起こり始めたら、しっかりと立ち、天を見上げなさい。 救いの時が近づいているのです。」
注解   (聖書の達人2聖書注解)
〈これらのこと〉(28)は25‐27節を指す.〈からだを……上に上げ〉(28)るのは堅信と希望のしるし.〈贖い〉(28)は苦しみからの解放と救いの完成.→マタ24:29‐31,マコ13:24‐27

月曜日 この世の希望
参考   (聖書の達人2聖書辞典)
■すくい 救い
 救いと訳されるおもな原語に〈ヘ〉イェーシャ,〈ギ〉ソーテーリアがある.〈ヘ〉イェーシャは,広さ,拡大などの原意を持ち,後に安楽,安全,戦いに勝つなどを意味するようになった.また〈ギ〉ソーテーリアは,治癒,回復,贖い,救済,解放などの意味に用いられている.いずれの語も,人間を不幸にする圧迫,脅威,危険から人間を解放し,健康,自由,真の幸福を与えることを意味している. どのような宗教にも共通して見られることは,その神が信奉者を救出するという概念を持っていることである.旧約聖書の前半部分において救いは,神がそのしもべ個人個人に敵の手から逃れる道を備えたり,束縛からの解放や広大な地での建国などへの助力を与えることを意味し,後半の部分では,道徳的,霊的状態の祝福,国境を越えて拡大する至福の生活などを強調している.新約聖書においては,人の罪への隷属や危険からの救いが,キリストのみに見出されるものとして示されている. このように聖書は救いについてまず人間の経験を出発点とし,具体的状況からの救出を意味する語を用い,さらにその内容が道徳的,霊的救いという神の働きの最も本質的なものへと向かっている.そしてまた神がいかに救いのための基盤を備え,与え,神御自身が救いそのものであるかを明示している.実に救いは聖書理解のかぎとなる主題である.
1.旧約聖書における救い.(1)歴史的出来事と救い.イスラエル人は初め,救いをこの地上的なことに焦点をおいて考えていたようである.その内容を端的に表すものとして,長命と繁栄,物質的祝福,豊かな土地,収穫などがあげられている(申5:16,7:13‐15).これらの救いは律法,戒めを遵守するという倫理的行動に伴って神から与えられるものである(申4:40,5:33). また,イスラエルが民族的危機に直面した時,神は必ず彼らを救うとの確信が旧約聖書の底流となっている.それは,この民の過去の歴史における最も重大な出来事である出エジプトを通して現された神の救いのわざに基づいている.神は出エジプトに際して,イスラエルの民をエジプトにおける隷属状態から贖い出し,解放して救い出したのである(出6:6,14:13,15:1‐18).やがて「救い」は,国民的勝利と同一に見なされ,イスラエルに反抗する敵が打ち破られると,それは神がイスラエルのために直接手を下した結果である,と受け止められるようになった(申20:3‐4).その後のイスラエルの歩みにおいても,この救いの概念は変らず,民のうちに持ち続けられた.戒めを破り,背信し,偶像礼拝を行うなどの罪を犯し,その罰として敵の足下に隷属させられるが,悔い改めて神に立ち返ると,神が遣わされた指導者を通して,あるいは御手のわざによって救い出される.この罪と救いの循環的な繰返しのサイクルの中に,敵に対する勝利としての救いを見出すことができる(士3:7‐15).そして真の神の臨在こそが,彼らの救いの源であることが明らかにされていく. (2)民の罪と救い.初め救いの単位は,民全体か,少なくとも家族ごとであった(創6:18,19:12).家族の一人の罪により,他の者たちまでが救いを失い,共同体全体が苦しみ,さばきを受けた(ヨシ7:24,Ⅱサム21:6).しかし個人の罪の責任の概念も少しずつ把握されていき(申24:16,エレ31:29‐30,エゼ14:14,18:4),罪を犯さない者は一人もいない(Ⅰ列8:46,伝7:20)と表明されるようになった.人が民族の安定と福祉を破壊するような社会的罪,不正・不義などの倫理的罪,祭儀の規定や食事の規定などを破る祭儀的罪,そして背信・偶像礼拝などの霊的罪を犯した時に「救い」を喪失し,神およびその民との交わりを絶たれる.しかしある種の罪は,悔改めと供犠により神のさばきを免れた. 正しき者の危機・苦しみからの救いは,その祈りの中に示されている.義人の救いは神からくる(詩33:18‐19).危険にさらされた時,神だけが救いの確証であり,多くの人々が主の御名を呼び求めて救い出されている(詩107:13,19,ダニ3:28,6:27).人の力を頼みとする高慢と尊大さとが打ち砕かれ,神に対する謙遜と信頼,服従のあるところに救いが実現している. (3)終末的な預言と救い.旧新約聖書の両方に共通していることは,救いがその時点において真実であり,すでに成就しており,その力は人々のうちに働いているが,しかしすべての悩みや苦難がなくなる全的な実現,すなわち最終的完成は未来のこととしていることである.旧約において神の救いは出エジプト,荒野での救助と導き,侵入してきたアッシリヤ軍の打破,バビロン捕囚からの解放などにすでに現されているが,神の民の最終的な贖いは「終りの時」「主の日」まで待つことになる(イザ35:4,45:17,52:10,エゼ34:14). 2.新約聖書における救い.(1)福音書における救い.バプテスマのヨハネは「神の国」の出現が間近いことを告げ,それに先立つ悪しき者への火のさばきと義なる者への聖霊の授与とを約束している(マタ3:2,ルカ3:2‐17).ヨハネの告げる神の国は,神の終末的,王的支配を意味するが,彼はその備えのために,民族的特権への過信に対する警告のメッセージを伝え,悔改めを迫り,その外的しるしとして水のバプテスマを施した. バプテスマのヨハネによって進められた終末的信仰覚醒運動は,イエスによって受け継がれ,「悔い改めなさい.天の御国が近づいたから」(マタ4:17)と宣言された.この宣言は「さばきが近づいた.悔い改めて,さばかれないようにしなさい」という意味である.イエスの教えはこのように未来的な内容を持ち,積極的には神の国に入ることを,消極的にはやがてくるさばきからの救いを示している. 共観福音書では,イエスによる「救い」が病人のいやし(参照マタ9:21‐22欄外注)から進められ,預言の成就としてのメシヤの到来が強調されている(ルカ4:18‐21).またガリラヤ湖の嵐を静めて弟子たちを救い(マタ8:23‐27),おぼれかかったペテロを助けて(マタ14:31),イエスへの信仰を求めている.そして身体的な苦しみと霊的な罪からの救い主として病人をいやし(マコ2:10),罪深い者に罪の赦しと救いの訪れとを告げている(ルカ7:48,19:9).ヨハネの福音書は,イエスが神の御子であることを明らかにする奇蹟(しるし)を7つ取り上げ,イエスこそキリストであり,彼を信じ受け入れる者を「神の子ども」とし,これに永遠のいのちを与え,滅びから「救う」ことを示している(ヨハ1:12,3:36). このように神の終末的,王的支配はイエスと共に到来した.イエスはこの世をさばくためではなく,人々を罪責,律法の束縛,苦難,死,悪魔,滅びから解放し,失われた者を尋ね出して救い,豊かにいのちを与えるために世に来られたのである. (2)使徒たちの教え.イエスの復活と聖霊の降臨の後,使徒たちは「救い」が旧約の預言通り成就したことをその宣教の主題とした.また彼らがイエスの名によって行った奇蹟も,この宣教の主題を確認するものであった(使3:6,4:9‐12,16:18).この曲った時代から救われる条件は,イエスを信じること(使16:31),その名を呼び求めること(使2:21)であった.そしてこの福音は,まずユダヤ人に,次に異邦の民へと伝えられていったのである(使11:19,28:28). 福音の前進に伴い,「救い」と罪の概念はさらに明確にされていった.罪とは神の律法の侵犯であり(Ⅰヨハ3:4),神の正義に対するとが,神の聖に対する汚れ,不信である(ロマ1:24).この罪の結果は,神へのきよい愛の欠如,道徳的性質の腐敗,悪に偏向した堕落と,神の怒り(ロマ1:18)の罪責,肉体的,霊的,永遠的の三重の性格を持つ死の刑罰をもたらした(ロマ6:23,エペ2:1).この罪の力に束縛された人類に,神は御子を遣わし,「すべての人が救われて,真理を知るようになるのを望んでおられる」(Ⅰテモ2:4,Ⅰヨハ4:14).御子イエスは十字架の死と復活により罪の贖いのわざを完成し,「従うすべての人々に対して,とこしえの救いを与える者」となられた(ヘブ5:9).このイエス・キリストの出来事を伝える福音は「信じるすべての人にとって,救いを得させる神の力」であり(ロマ1:16),信じて信仰を告白する者は救われ(ロマ10:9),バプテスマを受けることにより,確かなものとされる(Ⅰペテ3:21).実に救いは,人間のわざによるのではなく,神のあわれみと恵みと聖霊の働きにより与えられるのである(Ⅱテモ1:9,テト3:5).(3)救いの完成を目指して.「救い」は,キリストの贖いのわざによって現実化し,信じ受け入れる者はこの世においてその祝福を先取りすることができるが,この「救い」の最終的完成は歴史の終りの時まで待つべきものとされている(Ⅰペテ1:5).人の「救い」の体験は時間的に見ると,過去,現在,未来の三重の様相を呈しており,それぞれを救いの所有性,進展性,待望性と表現することができる. a.所有性.信仰者は「救い」の相続者とされ(ヘブ1:14),その罪を赦され完全に義なる者とされている(ロマ5:1).そしてキリストの贖いにより神と和解し(Ⅱコリ5:18),すべての悪からきよめられ(Ⅰヨハ1:9),神の子供である確信を聖霊によって与えられている(ロマ8:16).これらは人が信じて救われた時に,神から与えられた恵みの賜物である. b.進展性.神の恵みによって始められた救いのわざを信じ受け入れた者は,聖霊の助けにより,救いの達成に努めなければならない(ピリ2:12).そして,不敬虔と汚れと世的欲望が渦巻く邪悪な時代の中にあって,世の光として輝くことを求められている(ピリ2:16).そのために,たましいを救う力を有し,信仰を養い,神のみこころを示すみことばに親しみ,それに従うことが肝要である(Ⅱテモ3:15,ヤコ1:21).また聖霊の助けにより聖化の実現をはかり(Ⅱコリ7:1),ますます神の御性質にあずかる者となり(Ⅱペテ1:4),愛の奉仕にいそしみ,多くの実を結び,神に栄光を帰す者となるのである(ヨハ15:8,ガラ5:22‐23). c.待望性.信仰者はこの世にあってすでに「救い」の恵みと力にあずかり,その祝福を味わうことができるが,救いのすべてが完全に実現しているわけではない(ヘブ9:28).永遠の祝福,からだの贖い,神のさばき,キリストの再臨など,将来の「この望みによって救われている」(ロマ8:24)のである.信仰者は「救い」を得るように定められているが(Ⅰテサ5:9),終りの時までその救いによって相続するものを待たなければならない(Ⅰペテ1:5).信仰者は,この救いの完成の時が間近になっていることを覚え,信仰の歩みを確かにすることが求められている(ロマ13:11).そして救いが完成する時,信仰者は悪と病気と苦難,死などから全く解放され,生ける真の神を賛美しつつ,御前に親しく仕えるようになるのである.それは神なるキリストの悪魔の勢力に対する真の勝利と共に実現する(黙7:10,21:3‐4).(本辞典「あがない」の項を参照). 〔参考文献〕H・シーセン『組織神学』聖書図書刊行会,1961; 『聖書思想事典』三省堂; TheNew Bible Dictionary, IVF, 1962; Orr, J. ed.,The International Standard Bible Encyclo-paedia, Eerdmans, 1944; The InterpretersDictionary of the Bible, Vol.4, Abingdon,1962.(藤井 力)
*キリストから離れていた時
【新共同訳】 エペ 2:12 また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。 *神から近い者となった
【新共同訳】 エペ2:13 しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。 問3
【口語訳】 ヨハ 5:18 このためにユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと計るようになった。それは、イエスが安息日を破られたばかりではなく、神を自分の父と呼んで、自分を神と等しいものとされたからである。
【新共同訳】 ヨハ 5:18 このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。
【新改訳改訂第3版】 ヨハ 5:18 このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。 【リビング・バイブル】 ヨハ5:18 これを聞いたユダヤ人の指導者たちは、ますます、イエスを殺そうと思うようになりました。 イエスが安息日のおきてを破ったばかりか、事もあろうに、神を「父」と呼んで、自分を神と等しい者とされたからです。
問4
【口語訳】 ヨハ 10:10 盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。
【新共同訳】 ヨハ 10:10 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
【新改訳改訂第3版】 ヨハ 10:10 盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。
【リビング・バイブル】 ヨハ 10:10 強盗は、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするために来ます。 しかしわたしが来たのは、いのちを、あふれるほど豊かに与えるためです。
参考   (聖書の達人2聖書辞典)
■いのち 〈ヘ〉ハッイーム,ネフェシュ,〈ギ〉ゾーエー,ビオス
いのちを表すヘブル語のハッイームは複数形で,もともと活気あふれることを表し,いのちそのものを指すだけでなく,いきいきした生命,健康と幸福とを伴う生命を表す.〈ヘ〉ネフェシュは普通たましいを意味するが,からだと結びついていのちを表す場合が多い(創2:7).新約聖書では〈ギ〉ゾーエーが人を生かしている原動力や生命力を意味し,さらにキリストと結びつけられて霊的生命,そして復活のいのちを表すものとして用いられている.〈ギ〉ビオスは生命の存続や活動を意味し,生命を支える手段などにも用いられている(マコ12:44「生活費」).
聖書は,すべてのいのちは神が与えられた貴重なもので(イザ42:5),神に従属しており(申32:39,詩104:29),人が死ねばそれは神のもとに帰るものである(ヨブ34:14,伝12:7)と言っている.神に起源を持つこのいのちを人は奪ってはならず(創9:5,出20:13),またそのいのちが宿る血を流すことも,食することも禁じられている(レビ17:11‐12).このいのちを養うものは,地上の事物よりも神との交わりにあり(詩36:9,箴14:27,エレ2:13),その恵みはいのちにもまさる,と言われている(詩63:1‐3).人の罪ととがは神との交わりを絶ち,人は死のさばきを受けなければならないが,聖書には神のあわれみによる回復と死後のいのちが約束されている(イザ53章,エゼ37:14).
新約では,永遠のことばであるイエスが永遠からいのちを所有しており(ヨハ1:4),それを父から与えられたすべての人に豊かに与えられる(ヨハ10:10,17:2).それは病人をいやし(マコ2:4),死者をよみがえらせるような,からだの生命を強め,与えるということばかりでなく,道,真理,いのちであるイエスに信仰によって結びつく者はみな,霊的いのち,復活のいのちが与えられるのである(ヨハ3:36,11:26).特に霊的いのちは,良い牧者が羊にするように,その愛のゆえに,自ら進んで「いのちを捨て」(Ⅰヨハ3:16),そして再びいのちを得て(ヨハ10:17),人を生かす御霊となられたイエスによって(Ⅰコリ15:45)その民に与えられているのである.この霊的いのちの完全な成就はキリストの再臨に結びつけられており,いのちそのものであるキリストが現れる時に実現するのである(コロ3:4).
*命の源はキリストにあることを知る
【新共同訳】 ヨハ 14:6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。 【新共同訳】 ヨハ 6:33‐58
6:33 神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」 6:34 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、 6:35 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。 6:36 しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。 6:37 父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。 6:38 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。 6:39 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。 6:40 わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」 6:41 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、 6:42 こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」 6:43 イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。 6:44 わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。 6:45 預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。 6:46 父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。 6:47 はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。 6:48 わたしは命のパンである。 6:49 あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。 6:50 しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。 6:51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」 6:52 それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。 6:53 イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。 6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。 6:55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。 6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。 6:57 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。 6:58 これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」 【新共同訳】 一ヨハ 5:11‐12
5:11 その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。 5:12 御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。 *キリストのおられるところにはどこにでも命がある
【新共同訳】 ヨハ 11:25‐26
11:25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 11:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 *第2のカギは信じること
【新共同訳】 ヨハ1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 【新共同訳】 ヨハ 1:12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 *イエスのうちにある命を自分の者とするのはイエスとの継続的な関係を通して
【新共同訳】 ヨハ 3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 【新共同訳】 ヨハ 3:36 御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」
火曜日 死の彼方の希望
参考   (聖書の達人2聖書辞典)
■し 死 死は,自然に,偶発的に,あるいは自覚的に訪れる生の終末である.その特色は,あらゆる生命現象に1回かぎり起るということ,また何ものもこれから逃れることができないということである.人間は,死を目撃しながら,必ず経験しなければならない死が何であり,また死後どうなるのかについて何も知らされていない.これが死への恐怖をもたらす. 聖書は,すべてのものが死を経験するということを語っている(Ⅱサム14:14,ヘブ9:27).聖書は,この死の現実から逃避することなく,死をしっかりと直視している.ヤコブは死を前に,別れを惜しみ(創49章),残された者は悲嘆に暮れた(創50:1‐3.参照Ⅱサム19:1‐4).また聖書は各自が死を自分のこととして考えなければならないと教えている.人は必ず「死を見」(詩89:48,ルカ2:26,ヨハ8:51),「死を味わう」(マタ16:28,マコ9:1,ヨハ8:52,ヘブ2:9)からである.ヒゼキヤ王は,死を目前にして泣き悲しんだ(Ⅱ列20:2‐3).ヨブは,苦しみの中で死を願い求めている(ヨブ6:9).死は,だれも回避することのできないものである.ダビデも死に際して「世のすべての人の行く道」(Ⅰ列2:2)を行くと告げている.死は必然的なものであるから,生きることを熱心に希求してもかなえられるものではない.生は,はかないものなのである(詩39:4).この世でのいのちは「影」(ヨブ8:9,14:2,詩102:11),「息」(詩90:9)と言われている.結局人間は,だれであれ死に定められているのである(詩49:8‐20,89:47‐48,伝3:19‐22). 1.旧約聖書における「死」.〈ヘ〉マーウェス.人間は,神によって創造されたものであり,本質的にその創造者なる主と性質を異にしている.創2:7によれば,神は人間を土地のちりをもって造り,神のいのちの息を吹き込まれた.人間は,息を吹き込まれたからだ,生けるものとされたからだである.人間はちり,あるいは肉である.この2つのことばは人間のむなしさを表している(イザ31:3,40:6‐8).からだは,もとのちりに帰る(創3:19,伝3:20,12:7).このちりという物質は,神によって息が吹き込まれて初めて生けるたましいを持つようになる.神が息を吹き込まれたということは,人間が神の霊魂,あるいは神的な精神を受けたということを意味しない.霊,あるいは息は,それを与えられた神に帰る(伝12:7).いのちそのものは,神の賜物と考えられた.このことから,人間は地上的な存在として死ぬべき定めを持っている.しかし,旧約聖書において注意すべきことは,死がもとからあった自然なものであるというよりも,死は宣告されたものであるということである.それは,人類の始祖が罪を犯したためである(創2:17,3:19).旧約聖書は,死と生に関連する人間の本質を創2‐3章で述べている.人間は神のかたちに創造され(創1:27),神との交わりのうちに完全ないのちが与えられていた.しかし人間は,善悪を知る木の実を食べてはならないという戒めを破ることによって,不従順と自己に頼るという傲慢の罪を犯した.この原罪が人間に死をもたらしたのである.人間が死ななければならないということは,罪に対する神の罰である(創2:17,3:19).ここに示されていることは,肉体の死であると同時に,神から離反するという意味の死であった(申30:15‐18,イザ38:18‐19).この基本的な考えが,死についての不可解な事実を解明するかぎとなる. 人間は,自分を死から救うことはできない.死が人間に対してその支配力を振う時,人間は,神を呼び求める以外になすすべがない(詩6:5,13:3,116:3‐4).イスラエル人は,ただ神の力のみが「死」と「よみ」の力にまさっていると信じた(詩16:10,49:15).そして,希望の啓示は,イザヤの預言によって明らかにされてくる.そこでは神が「死」に対して完全な勝利を収め,人間を死の支配から救って決定的に解放することが告げられている(イザ25:8).そして,死人の生き返り,永遠のいのちの新しい展望が開かれる(イザ26:19).これは,新約に至ってイエス・キリストによって成就するのである. ただ,旧約聖書では,イスラエル人の信仰は,地上の現実の生活に集中していて,死と死後の世界についてはさほど詳しく述べられていない.旧約聖書では,死と死後の世界は神にゆだねられているのである. 2.新約聖書における「死」.〈ギ〉サナトス.新約聖書は旧約聖書の成就であり,旧約にあったものが,イエス・キリストに向かって集中する.イエス・キリストの生と死に対しては特にそうである.人間は,イエス・キリストを受け入れるまで「死」の支配下にあって,「死」に勝つことはできない.しかし,キリストを受け入れた者は,「死」に打ち勝ち,死はそれまでと全く別の意味を持つようになる.パウロは,死は「罪から来る報酬」であって,自然の現象ではなく,人間の罪の結果であると言っている(ロマ6:23).人間の罪すなわち死は,根源的にアダムの罪に由来する(ロマ5:12,Ⅰコリ15:21).人間は,このゆえに,神の前に死んだ者である(ロマ6:11,エペ2:1,5,コロ3:3).したがって人間にとって,どのようにしてこの死んだ者にいのちが与えられるかということが最大の問題となるのである. 神と人間の関係は,罪の結果,敵対関係となった(ロマ1:18‐21,5:10).人間を破滅に至らせる神との抗争がやんで平和が訪れるためには,なだめの供え物がなければならない(ロマ3:25).それはキリストの十字架の死によって果された.キリストのなだめの供え物としての死が神との平和を確立したのである.人間は,罪人であり,神の御前では死んだ者であるが,イエス・キリストを信じる信仰によって,死からいのちへと移される(Ⅰヨハ3:14). 新約聖書において,キリストは,最後の敵としての死を滅ぼされると言われている(Ⅰコリ15:26).キリストの死によって,人間の死は滅ぼされるのである.第1のアダムがその罪によって全人類に死を来らせたように(ロマ5:12),キリストは,第2のアダム,いのちを与える霊として,その恵みのわざによって死を滅ぼし,永遠のいのちを人類にもたらしたのである(ロマ5:17,Ⅰコリ15:45‐47).キリストにある者に対し,もはや死は力を持たない.死んでよみがえられたキリストの支配のうちにおかれるのである.それゆえ死は,罪の座である肉体の破れであり,人間はもはや自らに頼ることをせず,死人をよみがえらせる神に信頼し(Ⅱコリ1:9),生においてと同様,死においてもイエス・キリストが,信じる者たちの主であると認識することができるのである. しかしながらこれは,私たちキリスト者が肉体の死を体験せずにすむということではない.キリストにある永遠のいのちは,肉体のいのちと死とを越えて将来に向かって開かれているのである.キリスト者にとって死がすべての終りでないということは,キリストが死人の中からよみがえられたからである(Ⅰコリ15:20).キリストは,死者の中から最初に生れた方である(コロ1:18).キリスト者の希望は実にここにあるのである.死人の復活は,種子から新しい植物が生長するようにして起る.人間の肉体の死は,一粒の種が蒔かれるのに似ている.肉体は死んで葬られる.それは,新しいいのちのための死である(Ⅰコリ15:35‐36,53).地上の肉体は,決して神の国に入ることができない(ヨハ3:6,Ⅰコリ6:13).地上のものがすべて死ぬということが,神の国に入るための不可避の前提である.それゆえ復活のからだは,地上の肉体と同じではない.人間は,死んだ時に地上の肉体を脱ぎ捨て,それから復活の時に新しいからだを受けるのである.人間の卑しい朽ちるべき肉体は終り,復活のキリストと同じ霊のからだ,神の子の姿となるのである(Ⅰコリ15:42‐44).そして,キリストと共に神の国を継ぐ者とされ,キリストと共に存在し続けるのである. やがて,新しい天と新しい地を見る時がくる.その時は「以前の天と,以前の地は過ぎ去り……もはや死もなく,悲しみ,叫び,苦しみもない.なぜなら,以前のものが,もはや過ぎ去ったからである」(黙21:1,4).イエス・キリストを信じる者にとって,死ぬことは益であるとさえ言える.終りの時は運命ではなく,神の恵みとして与えられる.この恵みに感謝し,またそこで神の前に立つために,私たちはこの世と妥協せず(ロマ12:2),上にあるものを求め(コロ3:1)つつ,その日を待ち望む者として懸命に生きるのである. 〔参考文献〕The Illustrated Bible Dictionary,Vol.1, IVP, Tyndale, 1980; Bromiley, G.W.ed.,The International Standard Bible Encyclopedia,Vol.1, Eerdmans, 1979; Dictionary of the Bible,Vol.1, T. & T. Clark, 1924.(鋤柄和秋)
問5
【口語訳】 一コリ 15:20‐26
15:20 しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。 15:21 それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。 15:22 アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。 15:23 ただ、各自はそれぞれの順序に従わねばならない。最初はキリスト、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たち、 15:24 それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。 15:25 なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである。 15:26 最後の敵として滅ぼされるのが、死である。 【新共同訳】 一コリ 15:20‐26
15:20 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。 15:21 死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。 15:22 つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。 15:23 ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、 15:24 次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。 15:25 キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。 15:26 最後の敵として、死が滅ぼされます。 【新改訳改訂3】 Ⅰコリ 15:20‐26
15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。 15:21 というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。 15:22 すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。 15:23 しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。 15:24 それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。 15:25 キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。
15:26 最後の敵である死も滅ぼされます。
【リビング・バイブル】 Ⅰコリ 15 :20‐26
15:20 しかし、事実、キリスト様は死人の中から復活しました。 そして、復活が約束されている何千万何百万もの人の、復活第一号となられたのです。 15:21 一人の人〔アダム〕の行為によって、死がこの世に入って来ました。 そして、このもう一人の人〔キリスト〕の行為によって、今や、死人の復活は事実となったのです。 15:22 人はみな、罪深いアダムの子孫として、その血縁のために、死ななければなりません。 罪のあるところには、その結果として、死もあるのです。 しかし、キリスト様と血縁関係にある者はみな、やがて復活します。 15:23 ただし、順番があります。 最初にキリスト様が復活なさいました。 次に、キリスト様が帰って来られる時に、彼に属する全員が復活します。 15:24 そのあとで、終わりが来ます。 その時、キリスト様はあらゆる敵を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。 15:25 王としてキリスト様が支配なさるのは、敵を全滅させる時までだからです。 15:26 その敵の中には、最終の敵である死も入っています。 死もまた、打ち破られ、とどめを刺されなければならないのです。
注解   (聖書の達人2聖書注解)
キリストの復活と信徒の復活(20‐28) 前段(12‐19)の恐るべき想定を打ち切り,パウロはキリストの復活は真実であり,従って信徒の復活も事実であることをここで論じる キリストの復活は孤立した出来事ではなく,初穂としての復活であった.初穂は最初の実りであると共に,その年の実りを代表する.信徒の第1号かつ代表として,キリストは復活されたのである(20).アダムが人類の第1号かつ代表者として死を人類に招来したように,キリストは新しい人間の第1号かつ代表者として,復活の命を信徒に招来するからである(21‐22) しかし,キリストの復活が直ちに信徒の救いの完成をもたらすわけではない.今を救いの完成の時と見なす(参照4:8)のは誤りである.終末までには順序がある.キリストの復活→キリスト再臨の際の信徒の復活→終末という順序である(23‐24).この終末の時にキリストは,悪霊的力をすべて滅ぼして,それまで救い主として世界を支配しておられた支配を完成させ,世界を父の支配に服させるのである(24) 25‐28節はこのキリストの終末の時の働き(24)を説明する.ご自分の復活の時から始まったキリストの支配(ピリ2:9等)は,詩110:1によれば,すべての敵を征服するまでと定められている(25).最後の敵は死であり,これも滅ぼされる(26).なぜなら,詩8:6が預言するように,神はキリストに死を含む万物を従わせられるからである(27).ただしこの万物に神が含まれていないのは当然である(27).むしろ,万物がキリストに従う時,キリストの救い主としての世界支配は完了して,キリストも神に従い,万物は神の支配下に置かれるのである(28).実際は,キリストの支配は父なる神と共同の永遠の支配に移行する(参照エペ5:5) 22節に2度出て来る〈すべての人〉のうち,前のほうは全人類のことだが,後のほうは全信徒のこと.キリストの復活→信徒の復活→終末という3つの順序(23‐24)は,必ずしも長い時代を隔てるわけではない.52‐55節によれば,信徒の復活と再臨時に生きている信徒の栄化と死の征服(参照26)とは,同時的に起る.順序はあるが全体は一連の出来事であると思われる.〈支配〉〈権威〉〈権力〉(24)は,悪い御使いを呼ぶ当時のユダヤの用語
【口語訳】 一コリ 15:50‐55
15:50 兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。 15:51 ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。 15:52 というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。 15:53 なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。 15:54 この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。 15:55 「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。 【新共同訳】 一コリ 15:50‐55
15:50 兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。 15:51 わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。 15:52 最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。
15:53 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。 15:54 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。 15:55 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」 【新改訳改訂3】 Ⅰコリ 15:50‐55
15:50 兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。 15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。 15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。 15:53 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。 15:54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。 15:55 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」 【リビング・バイブル】 Ⅰコリ 15:50‐55
15:50 愛する皆さん。 念を押しておきます。 地上の、血と肉の体は、神の国から閉め出されます。 今の私たちの体は死ぬべきもので、永遠に生きることはできません。 15:51 しかし、ここで驚くべきことを告げましょう。 それは、神様のすばらしい特別の計画です。 私たちは全滅するのではありません。 新しい体をいただくのです。 15:52 終わりのラッパが鳴り渡る時、一瞬のうちに、そうなるのです。 天からラッパの音が響くと、死んでいたすべてのクリスチャンは、たちまち、絶対に死なない、新しい体に復活します。 次に、まだ生き残っている私たちもまた、一瞬にして、新しい体に変わるのです。 15:53 なぜなら、地上の、死ぬべき今の体は、天上の、決して死ぬことのない、永遠に生きる体に変えられなければならないからです。 15:54 この時、「死は勝利にのみ込まれた」という旧約聖書のことばが、現実となるのです。 15:55 -56「死よ。 おまえの勝利はどこにあるのか。
注解   (聖書の達人2聖書注解)
最後に,復活の日が勝利の日であることを示す 永続性のない現在の肉体は,終末に神の国を継ぐことが出来ない(50).この議論は,朽ちない体への復活(42‐49)の必要性を示すと共に,終末に生き残った人が栄光の体に変えられる(52)必要性を基礎付けている 信徒はみな死ぬのではない.終末まで生き残る人もいる.しかし,信徒はみな,終末に栄光の体に変えられる(51).すなわち,死んだ信徒は復活体を得,生き残った信徒は生きたまま変えられる(52).神の計画は信徒が神の国に見合う不朽の体を着るように定めているのである(53)この復活の恵みを賛美して議論を閉じる.復活の日に,死への勝利を歌うイザ25:8の言葉が実現し,イスラエルをかつて脅かした死のとげ(ホセ13:14)は消え去る(54‐55).
【口語訳】 一ペテ 1:3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、
【新共同訳】 一ペト 1:3 わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、
【新改訳改訂第3版】 Ⅰペテ 1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。
【リビング・バイブル】 Ⅰペテ 1:3 主イエス・キリストの父なる神こそ、すべての賞賛を受けるにふさわしい方です。 私たちは、神様の測り知れないあわれみによって、新しく生まれ変わる特権を与えられ、今では神様の家族の一員として、迎えられたのです。 キリスト様が死人の中から復活してくださったおかげで、私たちは永遠のいのちの希望にあふれています。

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