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第01課 イエスとヨハネの手紙

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작성자 나도람 작성일09-07-01 19:00 조회2,903회 댓글0건

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第01課 イエスとヨハネの手紙

暗唱聖句
【口語訳】 一ヨハ 4:14 わたしたちは、父が御子を世の救主としておつかわしになったのを見て、そのあかしをするのである。
【新共同訳】 一ヨハ 4:14 わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。
【新改訳改訂第3版】 Ⅰヨハ 4:14 私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。
【リビング・バイブル】 Ⅰヨハ 4:14 さらに私たちは、神様がひとり息子を世の救い主として遣わされたのを、この目で見、それを、いま全世界に伝えています。
<NKJV> 1Jo 4:14 And we have seen and testify that the Father has sent the Son as Savior of the world.
<KJV> 1Jo 4:14 And we have seen and do testify that the Father sent the Son to be the Saviour of the world. <NIV> 1Jo 4:14 And we have seen and testify that the Father has sent his Son to be the Savior of the world.
<TEV> 1Jo 4:14 And we have seen and tell others that the Father sent his Son to be the Savior of the world.
J-ばいぶるGREEK 原書講読画面
1Jo 4:14kai. h`mei/j teqea,meqa kai. marturou/men o[ti o` path.r avpe,stalken to.n ui`o.n swth/ra tou/ ko,smouÅ
<文法解析ノート> 1Jo 4:14
@1# kai, kai. cc 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば
@2# evgw, h`mei/j npn-1p 代)主1複 私、わたし
@3# qea,omai teqea,meqa virn--1p 動)直完了能欠1複 見せる
@4# kai, kai. cc 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば
@5# marture,w marturou/men vipa--1p 動)直現能1複 証言する
@6# o[ti o[ti cc 接)等 ~と、なぜなら
@7# o` o` dnms 冠)主男 冠詞(この、その)
@8# path,r path.r n-nm-s 名)主男単 父
@9# avposte,llw avpe,stalken vira--3s 動)直完了能3単 遣わす、送り出す
@10# o` to.n dams 冠)対男 冠詞(この、その)
@11# ui`o,j ui`o.n n-am-s 名)対男 息子、子、子孫
@12# swth,r swth/ra n-am-s 名)対男単 救い主
@13# o` tou/ dgms 冠)属男 冠詞(この、その)
@14# ko,smoj ko,smou) n-gm-s 名)属男単 世

安息日午後
*ソロモンの言葉
【口語訳】 伝 1:9 先にあったことは、また後にもある、先になされた事は、また後にもなされる。日の下には新しいものはない。
【新共同訳】 コヘ 1:9 かつてあったことは、これからもあり/かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。
【新改訳改訂第3版】 伝 1:9 昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。

日曜日 だれからだれへ――著者と受取人
参考   (聖書の達人2聖書辞典)
■ヨハネのてがみだいいち,だいに,だいさん ~手紙第一,第二,第三 
新約聖書には,ヨハネの名を冠する文書が5つ見出される.ヨハネの福音書,ヨハネの手紙第一,第二,第三,ヨハネの黙示録がそれである.これらの著者はいずれも使徒ヨハネであることが,内的・外的の両面の証拠から知られている.特に,福音書と3つの手紙は,内容,文体,使用されている用語などについてきわめて大きな類似点を持っており,3つの手紙が福音書を前提としていることが十分に想定される.これらの手紙の執筆の年代および場所を特定することは難しいが,紀元80年代の終りあるいは90年代の初めにエペソで書かれ,小アジヤの教会に送られたと見る説が順当であり有力である.
1.ヨハネの手紙第一. (1)著者. (2)背景. (3)目的. (4)中心思想.
2.ヨハネの手紙第二. (1)著者. (2)受取人. (3)中心主題.
3.ヨハネの手紙第三. (1)著者と受取人. (2)内容.
1.ヨハネの手紙第一.
(1)著者.手紙の場合には,差出人の名前が記され,受取人が特定されると共に,あいさつが述べられるのが普通である(エペ1:1‐2等).本書にはそれがなく,ただ著者が福音の事実の目撃者,また証言者の一人であることが断定的に述べられている(1:1‐4).著者は明らかに,肉体をとって来られたイエスに接し,イエスとの深い交わりを経験した人物であったと考えられる.古代教父のイレナエウスは,『異端反駁論』の中でⅠヨハ2:18‐19を引用し,それを主の弟子であるヨハネがその手紙であかししたことであると言っている.もう一人の教父テルトゥリアヌスも『マルキオン反駁論』の中でⅠヨハ4:1‐3の要点を記し,その作者を使徒ヨハネに帰している.このほかにもいくつかの例があげられるが,これらの外的証拠と,著者自身が自分をキリストの証人であると位置づける主張(1:1‐4,4:14)とを重ね合せる時,著者はイエスの使徒の一人であるヨハネであったと結論するのが最も無理のないところである.さらに第4福音書と本書を比較対照する時,そこには共通の用語が数多く見出される.たとえば,ことば,真理,光,愛,いのち,知る,とどまる,など.また,光とやみ,いのちと死,神とこの世の対立あるいは対比の手法が双方に共通して見られる.これらの語はキリスト教信仰と思想の内容を豊富に語り出すためのかぎとなるものであり,これらが共通して用いられている事実は,本書が第4福音書と同じく,ゼベダイの子,使徒ヨハネによって書かれたことの内的証拠を明確に提供している.文章表現の簡潔さも両者に共通の特徴である. (2)背景.本書が書かれるに至った事情を究めるためには,当時キリスト教会を取り巻き,あるいは教会の中に忍び込んでいた異端の危険を指摘し警告を与えるというヨハネの意図を把握する必要がある.「にせ預言者がたくさん世に出て来た」(4:1)と言われるのは,当時のギリシヤ思想から生れたグノーシス主義の萌芽を指してのことである.これは東洋の神秘主義と霊肉二元論を骨格とするギリシヤ思想が合体して一定の形を成したものであり,グノーシス(知識)を持つことによる救済を説いたものである.偽預言者たちは,イエスがキリストであることを否定する(2:22)だけでなく,イエスの歴史的受肉を否定する(4:2‐3)誤りを犯した.この誤りに陥った者は信徒の交わりから出て行くこととなった(2:18‐19).これは特に「仮現説」と呼ばれる異端を指しており,この説によれば,キリストは人間であるように見えるにすぎないとされ,肉のからだをとった事実が否定された.イエス・キリストを啓示されているままに知る知識こそは真の知識である.この本筋からそれる時に,彼らの生活は倫理性を欠くものとなった.このような背景に照らして,ヨハネは真理を知ることの重要性を訴え,「私の子どもたち」(2:1)と呼びかけて,誤った教えに走り罪を犯すことがないようにと勧める.「愛する者たち」(2:7,3:2,4:1等),「子どもたち」(2:12等),「兄弟たち」(3:13)との呼びかけは,ヨハネと当時の信徒たちの間の親密な関係をあかししている.また,「父たちよ」「若い者たちよ」「小さい者たちよ」との呼びかけが,2章の中で整然と2度繰り返されている事実は,愛の使徒と呼ばれたヨハネの行き届いた配慮と熱情を裏書きしている. (3)目的.ヨハネの福音書が「イエスが神の子キリストであることを,あなたがたが信じるため,また,あなたがたが信じて,イエスの御名によっていのちを得るため」(ヨハ20:31)に書かれたのに対し,本書はこのキリスト信仰に固く立って,その信仰にふさわしい生活を確立することを勧めるために書かれたと見てよい.福音の生み出す救いの事実は,救われた者の生き方によって世にあかしされる.神がまず私たちを愛し,罪の赦しのために御子を遣わされたことに基づいて,私たちの互いの愛が実現されるとのヨハネの論理は,そのまま福音の倫理でもある(4章,特に11,19節).愛は福音の戒めであり,キリストの命令でもある(4:21).ヨハネはキリスト信徒を罪から守り(2:1),反キリストの教えと惑わしとから引き離し(2:18‐29),救われた者としてのあかしを立てるよう勧めることを目的として,この手紙を書いた.福音書に比べると,分量的にはわずかであるが(福音書の約13パーセント),この手紙が訴え,勧め,励ますところは無限の奥行を持っている.ヨハネは精魂を傾けてこの手紙を書いたが,それは「あなたがたが永遠のいのちを持っていることを,あなたがたによくわからせるため」であった(5:13).したがって本書は手紙の形式をとってはいるものの,全体としては,心のこもった説教であると言うことができる. (4)中心思想.第1に,本書において信仰がいかにとらえられているかを見よう.信仰は真理に基づくものであり,その真理とは神の御子イエス・キリストが肉体をとって現れ,その血によってすべての罪から私たちをきよめるとの福音の真理である.信仰は常に愛と結ばれたものであり,神を愛し兄弟を愛することにおいて,その信仰が真の信仰であることが確認される.第2に,「神は愛である」(4:8,16)との本書の大命題に目をとめよう.この命題は神が御自身のうちに持っておられる性質としての愛を指すよりは,贖罪の行為においてあらわに示された働きとしての愛を第一義的に指している.神は罪のためのなだめの供え物として,ひとり子を世に遣わされた.ヨハネにおいて,神の愛は,歴史の中に贖罪の事実として現された愛であり,「ここに愛がある」と言い得る愛である(4:9‐10).この愛は,あらわに示されると共に,実際に一人一人に与えられる愛である(3:1).「神がまず私たちを愛してくださった」(4:19)とあるように,罪の赦しによる救いは全く神からのものである.この愛の大きさは,「神がこれほどまでに私たちを愛してくださった」(4:11)とのヨハネの表現において明らかであるが,3:1では「私たちが神の子どもと呼ばれるために……御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう」とのことばによってより強くあかしされている.「どんなにすばらしい」とは,もともと「どこの国の」という意味であり,これまでに聞いたことも経験したこともない,人間の常識と予想と期待をはるかに越えた愛を指す.それは,キリストが私たちのために御自分のいのちをお捨てになったとの贖罪の事実によって,初めて私たちに分ってくるような愛にほかならない(3:16).第3に,私たちの愛の行為,愛の生活の全体が,神の示された愛への感謝の応答であることを見よう.「神が私たちを愛してくださった━━だから私たちも愛すべきである」との基本構造は,表現上の多少の違いこそあれ,数箇所に明白に示されている(3:16,4:7,11,19).神を愛することと兄弟を愛することとは一結びにされており,兄弟を愛することは神を愛していることの明白な証拠である(4:20‐21).第4に,キリストの贖罪のわざについて本書の語るところを見よう.原始キリスト教会の宣教の中心には,イエス・キリストの受肉,生,死,復活,高挙の一連の出来事の提示があるが,本書にはキリストの受難,死,復活のまとまった記述はなく,「十字架」の語も見えない.本書におけるヨハネの強調は,キリストの「現われ」すなわち歴史的受肉に置かれている(1:2,3:5,8,4:2,5:20).御子キリストは「なだめの供え物」として御父によって遣わされた救い主である(2:2,4:10,14).さらにキリストが現れたのは「罪を取り除くためであった」ことが確認され,続いて,キリストの無罪性があかしされている(3:5).これらの記述は,ヨハネの神学が旧約聖書に基礎を置いていることを実証すると共に,罪の赦しにおける神の怒りの問題をくっきりと浮び上がらせる役割を果している.キリストの死は神の怒りをなだめる供え物,すなわち,贖いの供え物である.旧約時代の動物の犠牲は罪の赦しのために重要な役割を果したが,イエス・キリストは御自身を全き犠牲としてささげることによって,自らが旧約の成就となられた.「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハ1:29)とバプテスマのヨハネによってあかしされたイエスは,十字架の上で血を流し,その血の代価をもって罪人を贖い出してくださったのである.イザ53章の主のしもべの預言は,このイエス・キリストのわざにおいて全き成就を見た.本書には「成就」の語こそ用いられていないが,ヨハ19章に繰り返して現れる「聖書の成就」の解釈原理は,本書の全体を貫く底流を成している.本書が第4福音書を前提としていることは,この点からも裏づけられる.
2.ヨハネの手紙第二.
(1)著者.第一の手紙では著者が名前を明かさず,イエスの事実の目撃者として自分を紹介したが,第二の手紙でも著者は自分を「長老」と呼ぶだけで,依然として名前を名乗ることをしない.この長老をだれとするかについては,古くから議論の分れるところである.本書がきわめて短いこともあって,教父たちによって引用される機会が少なく,引用される場合にも第一の手紙からの引用と考えていたふしがあり,外的証拠に乏しいと言わざるを得ない.ただ,キプリアヌスが10節を引用し,これを使徒ヨハネのものとしているのは注目される.内的証拠としては,本書と第4福音書ならびに第一,第三の手紙との類似点があげられる.共通の用語あるいは似通った文体が数多く見出されるところから,本書が使徒ヨハネによって書かれたとするのは妥当な結論である.ペテロが自分を「使徒」(Ⅰペテ1:1)と呼ぶと共に,「長老のひとり」(5:1)と呼んでいる明白な例からしても,この結論は無理のないところである. (2)受取人.「選ばれた夫人とその子どもたち」(1節)とあるが,その夫人がだれであるかは全く分らない.名前は知られていないが多くの人々に愛され,教会のためによい働きをしていた人物と考えられる.それは巡回教師を自分の家に迎え入れた(10節)と記されるところから証明される.そのように熱心な信仰のゆえに,子供たちも信徒たちに愛されていたのであろう.この夫人を特定の人物とは見ず,比喩的に教会を指すとする解釈も可能である. (3)中心主題.使徒ヨハネはすでに第一の手紙の中で,異端あるいは邪説に対するきびしい警告を与えていた.しかし真の信徒を惑わそうとする者が後を絶たない状況を見て,もう一度彼らを戒めることが必要と判断して書き送ったのが本書である.本書は,発信人,受信人,あいさつを記す点においては明らかに手紙の形式を踏んでいるものの,内容からすれば,第一の手紙と同様,牧会上のすぐれた指導書として位置づけるのが順当である.第二の手紙は,第一の手紙を念を押す形で簡略化し,その要点を記したものと言うことができよう.第1の要点は異端に対する警告である.本書は先の手紙が送られてからほどなくして書かれたと考えられるが,そのわずかな時の経過の中でグノーシス主義の異端がより広くより深く教会の中に浸透していたと見える.「だれでも行き過ぎをして,キリストの教えのうちにとどまらない者は,神を持っていません」(9節)ときびしく断言されているように,「行き過ぎ」は福音の正統的理解と告白からの逸脱であり,神のさばきを招くこととなる.第一の手紙の場合と同様に,この異端の教えはキリストの歴史的受肉を否定するものであった(7節).神が人となってこの世に来られたとの驚くべき恵みの福音を否定する者は,自分自身が福音の真理から離れるだけでなく,人を惑わす者であり,反キリストであると断定される.しかも,そのような者が「大ぜい」世に出てきた事実を著者ヨハネは憂え,キリストの教えを持って来ない者,すなわち異端の説を広めようとする巡回教師の誘いに乗らぬよう,断固とした態度をとることを求めた(10‐11節).パウロは「旅人をもてなしなさい」と勧め(ロマ12:13),特に福音の働き人に対してとるべき態度を教えたが,ヨハネはキリストとキリストの福音に反する教師とかかわって悪い行動を共にすることを戒めた.両者の主張は1つであり,福音を広めることにあずかることこそ神に喜ばれることである(ピリ1:5).第2の要点は互いに愛し合う生活である(5‐6節).ことばとして現れる順序からすると,第1の要点と第2の要点は逆のように見えるが,実はそうではない.異端の説が大勢の反キリストによって広められ,戸口の所に迫っているからこそ,相互の愛を固く保って異端の巧妙な攻撃に対し防備をせよというのがヨハネの心である.福音の真理を広めることにおいても守ることにおいても,キリストの群の愛の交わりの果す役割と力は大きい.
3.ヨハネの手紙第三.
(1)著者と受取人.本書は,新約聖書の中で最も短い文書の一つであり,個人にあてられているという点で,前の第二の手紙と共通性を持っている.第二の手紙は1人の女性に,第三の手紙は1人の男性に送られている.受取人のガイオはその名前が当時一般的なものであったこともあって,特定することは困難であるが,ある教会の指導的立場にある信徒であったと考えられる.長老であったとの伝説もある.著者が使徒ヨハネであることは,外的証拠よりは内的証拠から知られる.「私は教会に対して少しばかり書き送ったのです」(9節)と言及されるのが第二の手紙のことであると考えられるので(1人の夫人あてとなってはいるが,当時の教会あての牧会指導要領として位置づけることは十分可能),第二の著者をヨハネとすれば,第三の著者も当然同一人物ということになる.巡回教師の存在に言及していること,あるいは文体,用語の類似からしても,ヨハネの著作であることはほとんど疑えない.第二の手紙についても言えることであるが,ヨハネが自分を「使徒」と呼ばず,「長老」と呼んでいる理由は,そう呼ぶことによって,当時の信徒たちとのより親密な関係を強調しようとしたためであったと思われる.第二,第三の手紙が共に個人にあてられている事実との対応もあるが,長老の呼び名は,今や円熟,老練の域に達したヨハネの姿を言い表すのに最も適したものであったろう. (2)内容.本書の中で際立っているのは,ガイオへの賞賛(5‐6節)と,デオテレペスへの非難(9‐10節)である.ガイオへの賞賛は冒頭のあいさつと祈りの部分にすでに現れていることであるが(1‐4節),その賞賛の対象となったのは,彼の「真実な行ない」(5節)であった.これは特に,ヨハネが派遣したと想定される巡回教師へのねんごろな態度を指している.6節に指摘される「神にふさわしいしかた」は,最大級の賛辞と言ってよい.巡回教師に対する多面にわたる配慮と援助のわざは,まさに「りっぱなこと」である.ガイオと対置されるデオテレペスは,教会の中で「かしらになりたがっている」(9節)ことにおいて非難を受けている.これは,ヨハネの使徒権,ひいては主イエス・キリストの権威の否定に連なる態度を指してのことであると考えられる.具体的には,使徒ヨハネの派遣した巡回教師たちを受け入れず,さらに,その教師たちを受け入れようとする信徒を教会から追い出すという暴挙を指している(10節).これこそ,「悪」そのものである(11節).福音を広めることにあずかること,すなわち,真理のために福音の宣教者の「同労者」となること(8節)こそ「善」である(11節)とヨハネは言いきっている.1世紀の終りにすでにこのような問題が教会の中にあったことをありのままに伝えるものとして,本書はあらゆる時代のすべての教会にとって,警告の書であり指導の書でもある.本書が第二の手紙と並んで新約正典の中に入れられていることの意義は,この点からも大きいと言うべきである. ヨハネは3通の手紙を書き送ることにより,ただひたすらに,信徒の成長を願い,キリストの教えとキリスト御自身にとどまることを求めたのであった.
■使徒ヨハネ.
福音書において,ヨハネはゼベダイの子で,おそらく同じゼベダイの子ヤコブの弟であったと思われる.ルカの福音書と使徒の働きを除いて,ヨハネの名はいつもヤコブの後にあげられている.ルカはペテロ,ヨハネ,ヤコブの順序で3人の名を並べているが,原始教会においてヨハネがペテロと結び合されていたためと思われる(ルカ8:51,9:28,使1:13).ヨハネの母はサロメであったことが,マコ15:40,16:1およびマタ27:56から推測される.なぜなら,両者の記事に見られる3人の女性が,それぞれ同一人物であるとすれば,第3にあげられている「サロメ」が「ゼベダイの子らの母」と合致するからである.またサロメは,イエスの母マリヤの姉妹と見なされる.それは,ヨハ19:25に出てくる4人の女性のうち2人はマルコとマタイの記事に出てくる2人のマリヤと同じで,残りの2人が「イエスの母と母の姉妹」とあるからである.そうであるとしたら,ヨハネはイエスといとこということになる.父ゼベダイが舟を所有し,雇い人を使っていたところから(マコ1:20),わりあいに裕福な暮しをしていたように思われる.サロメも自分の財産をもってイエスの伝道を助けた女たちの一人であった(マコ15:41,ルカ8:3).バプテスマのヨハネがイエスを指して「見よ,神の小羊」と証言したのに導かれて,アンデレと一緒にイエスについて行ったのはこのヨハネであったとされている(ヨハ1:35‐37).後に彼らが父と漁師の仕事を捨ててイエスに従うようになってから(マコ1:19‐20),この兄弟はイエスから「ボアネルゲ,すなわち,雷の子」という名をつけられた(マコ3:17).イエスを拒んだサマリヤ人を焼き滅ぼそうと提案したことや(ルカ9:54),イエスの栄光の座の隣につけてほしいと願ったり(マコ10:37)しているところを見ると,激しい気性の持主だったのであろう.イエスの地上の宣教生涯における3度の重要な場面で,ヨハネ,ヤコブ,ペテロの3人だけが同行を許されている(マコ5:37,9:2,14:33).またルカによると,最後の過越の食事を用意するためにイエスが遣わした2人の弟子は,ペテロとヨハネであった(ルカ22:8).ヨハネの名は第4福音書には出ておらず,「ゼベダイの子たち」と言われるのみである(ヨハ21:2).しかし,「イエスが愛された弟子」とは実はヨハネ自身ではないかとされており,そうだとするとヨハネは,最後の晩餐でイエスの右の席に着き,十字架上のイエスから母マリヤを託され,イエスが復活された朝にペテロと一緒に墓に駆けつけ,復活のキリストがテベリヤ湖畔に現れた時にそこにいたことになる(ヨハ13:23,19:26‐27,20:2,21:20).また,この弟子が第4福音書の実質上の著者であったことを示す証言がある(ヨハ21:24).使徒の働きにおいてヨハネは,ペテロと共に大胆に伝道した(使4:13).また,ある期間エルサレム教会で指導的な役割を担っていたらしく,ピリポの伝道でサマリヤの人々が入信した時,エルサレム教会の使徒団を代表してヨハネとペテロが遣わされた(使8:14).パウロがエルサレム教会を訪れた時,ヨハネはエルサレム教会の「柱」として重んじられていた(ガラ2:9).ヨハネが黙示録の幻を見た人物であるとすると,彼は晩年パトモスという島に追放された(黙1:9).伝承によると,それまでエペソにいたと言われている.後代の伝承には,使徒ヨハネは,おそらく兄弟ヤコブがヘロデに殺された時(使12:2)に殉教した,というものがある.9世紀の年代記作者G・ハマルトロスは,シーデのピリポ(450年頃)の物語の中に記されていることを伝えている.それによると,2世紀半ばのヒエラポリスの監督パピアスは,『主のことばの注解』第2巻に,「ゼベダイの子たちは2人とも,主の預言の成就として非業の死に見舞われた」(参照マコ10:39)と述べている.この証言を受け入れる者もいるが,多くの者はシーデのピリポの証言は信用性に欠けると見なしている.なぜなら,エウセビオスがヨハネの早期殉教に何ら言及しておらず,もしゼベダイの子たちが2人共,同時期に殉教したのであれば,使徒の働きがそれに言及しないのは不自然だからである.これに対して,エペソの監督ポリュクラテスによると,「主の御胸によりそっていた」ヨハネは,「証人また教師」の務めを果してから「エペソで眠りについた」と言われる.イレナエウスによると,ヨハネが福音書を「出した」のも,異端を論破し「真理の敵」であるケリントスと同じ屋根の下にいることを拒んだのも,「トラヤヌス帝(98―117年在位)の治世まで」住んでいたのも,エペソにおいてであった.ヒエロニムスも,ヨハネが非常な高齢までエペソにとどまっていたという伝承を繰り返し,集会で語る時には「幼子たちよ,互いに愛し合いなさい」と言うのが口ぐせであったと伝えている.この使徒ヨハネが晩年をエペソで過したという伝承はすべて2世紀末以後の教父たちによる証言であって,2世紀前半のエペソを中心にしたアジヤ州の教父たちの文書,特にイグナティオスやポリュカルポスの手紙に使徒ヨハネへの言及が全くないのはどうしてか,という疑問も出ている.しかしこれは2世紀の初めと終りとで,ヨハネに対する評価や影響力に相違があったためかもしれない.エウセビオスの伝えるところによると,イレナエウスが幼い時ポリュカルポスから聞いたことを述べている中には,ヨハネについても述べられている(『教会史』5:20:4‐6).いずれにしても,2世紀前半の教父文書に言及がないというだけでエペソにいたという伝承を退けてしまうことには無理があろう.
問1
【口語訳】 一ヨハ 1 :1-3
1:1 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について―― 1:2 このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである―― 1:3 すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。 【新共同訳】 一ヨハ 1:1-3
1:1 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。―― 1:2 この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。―― 1:3 わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。 【新改訳改訂3】 Ⅰヨハ 1:1-3
1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、 1:2 ──このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。── 1:3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。 【リビング・バイブル】 Ⅰヨハ 1:1-3
1:1 私は、この世界が造られる前から存在しておられたキリスト様を、この目で見、そのことばをこの耳で聞き、その体にこの手でさわりました。 キリスト様は、神様のいのちのことばです。 1:2 このいのちである方を、神様は私たちに紹介してくださいました。 私たちは、確かにこの方を見ました。 私が伝えたいのは、永遠のいのちである、このキリスト様のことです。 この方は初め、父なる神と共におられましたが、やがて、私たちの前に姿を現わされました。 1:3 もう一度言いますが、私たちは実際に見聞きしたことを、伝えているのです。それは、あなたがたも私たち同様、父なる神やそのひとり息子イエス・キリストと交際できる者とされ、喜びにあふれるためです。 注解   (聖書の達人2聖書注解)
著者ヨハネはこの序文において,誰をあかしし,何を伝えたいのかを示し,この手紙が何であるかを明らかにする.ギリシヤ語原文では3節まで主文の動詞が出て来ないために,文としてはやや難解だが,伝えたい要点は明白で,この手紙を読む者が〈交わり〉(3)を持つようになるためである
 この序文は,ヨハネの福音書の序文(1:1‐18)に類似し,共に〈ことば〉(1:1,ヨハ1:1,14)について記している.しかし厳密に言えば,福音書では受肉された〈ことば〉に中心点が置かれ,この手紙ではその〈ことば〉の〈いのち〉(1,2)が強調されている 〈いのちのことば〉(1)なるキリストの紹介から始まる.まず〈初めからあったもの〉(1)すなわち天地万物が創造される以前から存在されたお方であること.この〈あったもの〉という語はギリシヤ語の未完了形なので,初めから今に至るまで継続していることを表している.キリストはそのような永遠的な存在者であるが,その方は〈私たちが聞いたもの,目で見たもの,じっと見,また手でさわったもの〉(1)と表現されているように,具体的な歴史的存在者として姿を現された.〈聞いたもの,目で見たもの〉の2つの動詞には完了形が使われており,見聞きしたことは過去のことであるが,その記憶は現在もなおありありと残っているという,目撃者としての生々しい表現を示す.2節に2度出て来る〈現わ(さ)れ〉がいずれも,1つの事件が過去のある時期に起ったことを意味する不定過去形であるのも,やはり,〈いのちのことば〉なるキリストの歴史的出現を強調しているのであろう.〈永遠のいのち〉(2)そのものが,目に見える形でこの世に現れた,その方こそが主イエス・キリストであることを明らかにするのである ここでは,このお方をあかしし,伝える目的について記す.それは,直接キリストに会ったことのない読者である〈あなたがたも〉,〈私たちの交わり〉すなわち〈御父および御子イエス・キリストとの交わり〉に入ってもらいたいためである(3).〈交わり〉(〈ギ〉コイノーニア)は,もともと財産を共有する者同士に用いられる言葉であるが,ここでは命の共有を意味する.それはまず神との交わりにおいてなされる.永遠なる存在者である神は本来超越の神であるが,御子キリストを通して,私たちとの人格的な交わりを開かれた.その神との垂直的な交わりを軸にして〈私たちの交わり〉が生れ,命を共有するのである
【口語訳】 一ヨハ 2:1 わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。
【新共同訳】 一ヨハ 2:1 わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。
【新改訳改訂第3版】 Ⅰヨハ 2:1 私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。
【リビング・バイブル】 Ⅰヨハ 2:1 私の幼い子供たちよ。 私がこう言うのも、あなたがたに、いつも罪から離れていてほしいからです。 しかし、もし罪を犯したとしても、父なる神の前で弁護してくださる方がおられます。 その方は、イエス・キリストです。 キリスト様は、すべての点で正しく、完全に神様のお心にかなった方です。 注解   (聖書の達人2聖書注解)
罪を告白すれば罪は赦され,またきよめられるが,本来的にキリスト者は〈罪を犯さないようになる〉べきである(1,参照ヨハ8:11).キリスト者と罪とは本質的に相いれない.しかし現実には,キリスト者といえども罪を犯すことがあり得る.真摯にキリスト者としての生活を続けようとする者であればあるほど,罪の問題に悩むことになる.そのことを知るヨハネは〈私の子どもたち〉と愛情を込めて優しく呼びかけ,〈もしだれかが罪を犯したなら〉と救いの手を差し伸べる.1節で2度用いられている「罪を犯す」という語はいずれも不定過去形で,罪を犯すことはあっても,習慣的あるいは継続的ではなく,「たまたま罪を犯してしまった」というニュアンス.罪を犯してしまった時でも,幸いなことに〈御父の御前で弁護してくださる方〉がおられると教える(1) それは決して神の義を曲げるものではない.〈義なるイエス・キリスト〉(1)が自ら〈私たちの罪のための,--私たちの罪だけでなく全世界のための,--なだめの供え物〉(2)となって下さって,神の義を全うされたのである.だからこそキリストは弁護者としての資格を有し,その弁護は効力を発揮する
【口語訳】 一ヨハ 2:18 子供たちよ。今は終りの時である。あなたがたがかねて反キリストが来ると聞いていたように、今や多くの反キリストが現れてきた。それによって今が終りの時であることを知る。
【新共同訳】 一ヨハ 2:18 子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。
【新改訳改訂第3版】 Ⅰヨハ 2:18 小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。
【リビング・バイブル】 Ⅰヨハ 2:18 愛する子供たちよ。 この世の終わりが近づいています。 すでに耳にしていたとおり、今や多くの反キリスト〔キリスト様に敵対する者〕が姿を現わしました。 このことからも、終末の近いことは確かです。 注解   (聖書の達人2聖書注解)
18節でヨハネは〈今は終わりの時です〉と言う.なぜなら,キリストが予告し(マタ24:4‐5,ルカ21:8),パウロも言っているように(Ⅱテサ2:3),反キリストの出現というしるしが顕著だからである 〈反キリスト〉(18)という言葉は,ヨハネの手紙にだけ出て来るが(2:18d,22,4:3,Ⅱヨハ7節),それは単にキリストに敵対する者という以上に,「キリストに取って代る者」(ウェストコット),「キリストを装って,キリストの働きを滅ぼしている」(D・D・ホイードン)者でさえある
【口語訳】 一ヨハ 4:4 子たちよ。あなたがたは神から出た者であって、彼らにうち勝ったのである。あなたがたのうちにいますのは、世にある者よりも大いなる者なのである。
【新共同訳】 一ヨハ 4:4 子たちよ、あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました。なぜなら、あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。
【新改訳改訂第3版】 Ⅰヨハ 4:4 子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。
【リビング・バイブル】 Ⅰヨハ 4:4 愛する友よ。 あなたがたは神様の側につく者として、キリスト様に敵対する者と戦い、すでに勝利を収めてきました。 それは、心のうちに、この不正な世に巣くう、どんなに悪い教師よりも、はるかに強い方がおられたからです。 注解   (聖書の達人2聖書注解)
イエス・キリストが肉体をとって来られたことを告白する者は神から生れた者であり,〈神から出た者〉であるから神の〈子どもたち〉なのである(4).そして神の子供とされた者は〈彼らに〉(4)すなわち偽預言者たちに対してすでに勝利を得ている者なのである.その理由は〈あなたがたのうちにおられる方〉が反キリストの背後にいる〈あの者よりも力があるから〉である(4)
【口語訳】 二ヨハ 1:1 長老のわたしから、真実に愛している選ばれた婦人とその子たちへ。あなたがたを愛しているのは、わたしだけではなく、真理を知っている者はみなそうである。
【新共同訳】 二ヨハ 1:1 長老のわたしから、選ばれた婦人とその子たちへ。わたしは、あなたがたを真に愛しています。わたしばかりでなく、真理を知っている人はすべて、あなたがたを愛しています。
【新改訳改訂第3版】 Ⅱヨハ 1:1 長老から、選ばれた夫人とその子どもたちへ。私はあなたがたをほんとうに愛しています。私だけでなく、真理を知っている人々がみな、そうです。
【リビング・バイブル】 Ⅱヨハ 1:1 教会の長老ヨハネから、神様を信じ、神様のものとなりきっている、愛する夫人キュリアと、その子供たちへ。 私は、あなたがたを心から愛しています。 そして、あなたがたは、教会員にも心から慕われています。 注解   (聖書の達人2聖書注解)
第1の手紙にはあいさつらしいものはなかったが,本書と第3の手紙は明らかに手紙の体裁をとっていて,あいさつから始まる.この短いあいさつの中にも「真理の使徒」また「愛の使徒」とも呼ばれるヨハネの面目が躍如しているのがうかがえる まず差出人について,〈長老から〉(1)と記してあるだけで,名前は書かれていない.これは受信者にとって名は記すまでもなく,よく知られ親しまれている人物であることを表している.それがヨハネであることについては緒論1.を参照 受信者の〈選ばれた夫人とその子どもたち〉(1)については諸説がある.〈選ばれた夫人〉は〈ギ〉エクレクテー・キュリア.〈ギ〉キュリアは「主」(〈ギ〉キュリオス)の女性形で,婦人の敬称.そこでこの〈夫人〉を文字通り一夫人と見る説もあるが,夫人の名が記されていないので,エレクタがその名,またはキュリアがその名ではないかとする説もある.しかし内容から見れば,やはり教会に宛てた手紙として読むのが自然なようである 1節は原文で見ると〈子どもたちへ〉で切れているのではなく,関係代名詞〈ギ〉フースで次とつながっている.従って「私と,そして私だけでなく真理を知っている人々みなが本当に愛しているところの教会員のみなさん」というような意味になろう ヨハネはこの手紙でも〈真理〉(〈ギ〉アレーセイア)を強調するが,ここには定冠詞〈ギ〉テーンが付いており,いわゆるギリシヤ的な哲学的原理とは異なる特定の真理,すなわちイエスが「わたしが真理です」と言われたように(ヨハ14:6),受肉のイエスにおいて現された神の真理を指しているのである
【口語訳】 二ヨハ 1:12 あなたがたに書きおくることはたくさんあるが、紙と墨とで書くことはすまい。むしろ、あなたがたのところに行き、直接はなし合って、共に喜びに満ちあふれたいものである。
【新共同訳】 二ヨハ 1:12 あなたがたに書くことはまだいろいろありますが、紙とインクで書こうとは思いません。わたしたちの喜びが満ちあふれるように、あなたがたのところに行って親しく話し合いたいものです。
【新改訳改訂第3版】 Ⅱヨハ 1:12 あなたがたに書くべきことがたくさんありますが、紙と墨でしたくはありません。あなたがたのところに行って、顔を合わせて語りたいと思います。私たちの喜びが全きものとなるためにです。
【リビング・バイブル】 Ⅱヨハ 1:12 忠告したいことは、まだまだありますが、この手紙には書きますまい。 一日も早くそちらへ行って、直接これらのことについて語り合い、共に楽しい時を過ごしたいからです。 注解    (聖書の達人2聖書注解)
ヨハネには〈書くべきことがたくさん〉あるが,手紙ではとかく一方通行になりやすいので,近いうちに〈顔を合わせて〉語り合いたいと希望を述べてこの手紙を終る(12).〈顔を合わせて〉(〈ギ〉ストマ・プロス・ストマ)は「口から口へ(話す)」の意で,ヘブル語的語法を用いて会話でのやりとりを表している.そうすることによって〈私たちの喜びが全きものとなる〉(12)のであり,口語訳で見るならば「共に喜びに満ちあふれ」るようになるのである(参照Ⅰヨハ1:3‐4)
【口語訳】 三ヨハ 1:1 長老のわたしから、真実に愛している親愛なるガイオへ。
【新共同訳】 三ヨハ 1:1 長老のわたしから、愛するガイオへ。わたしは、あなたを真に愛しています。
【新改訳改訂第3版】 Ⅲヨハ 1:1 長老から、愛するガイオへ。私はあなたをほんとうに愛しています。
【リビング・バイブル】 Ⅲヨハ 1:1 長老ヨハネから、愛するガイオへ。 【口語訳】 三ヨハ 1:13-14
1:13 あなたに書きおくりたいことはたくさんあるが、墨と筆とで書くことはすまい。 1:14 すぐにでもあなたに会って、直接はなし合いたいものである。 【新共同訳】 三ヨハ 1:13-14
1:13 あなたに書くことはまだいろいろありますが、インクとペンで書こうとは思いません。 1:14 それよりも、近いうちにお目にかかって親しく話し合いたいものです。 【新改訳改訂3】 Ⅲヨハ 1 :13-14
1:13 あなたに書き送りたいことがたくさんありましたが、筆と墨でしたくはありません。 1:14 間もなくあなたに会いたいと思います。そして顔を合わせて話し合いましょう。 【リビング・バイブル】 Ⅲヨハ 1:13-14
1:13 言いたいことは山ほどありますが、今回は、これだけにします。 1:14 まもなくそちらで、あなたに会い、思う存分語り合うつもりですから。 注解   (聖書の達人2聖書注解)
 第2の手紙では「紙と墨で」(12),ここでは〈筆と墨で〉(13)という違いはあるが,共に手紙を書くという修辞的な言い回しで意味に大差はない.要するに,書きたいことは〈たくさん〉(13)あるが,手紙よりも,ともかく〈顔を合わせて話し合い〉(14)たいという希望を,ヨハネはここでも述べる.複雑な教会の問題,ことに人間関係のトラブルを解決するためには,手紙ではかえって誤解を招きかねないので,直接会って解決を計りたいと願ってのことであろう

月曜日 何を――手紙の内容
問2
【口語訳】 二ヨハ
1:1 長老のわたしから、真実に愛している選ばれた婦人とその子たちへ。あなたがたを愛しているのは、わたしだけではなく、真理を知っている者はみなそうである。 1:2 それは、わたしたちのうちにあり、また永遠に共にあるべき真理によるのである。 1:3 父なる神および父の御子イエス・キリストから、恵みとあわれみと平安とが、真理と愛のうちにあって、わたしたちと共にあるように。 1:4 あなたの子供たちのうちで、わたしたちが父から受けた戒めどおりに、真理のうちを歩いている者があるのを見て、わたしは非常に喜んでいる。 1:5 婦人よ。ここにお願いしたいことがある。それは、新しい戒めを書くわけではなく、初めから持っていた戒めなのであるが、わたしたちは、みんな互に愛し合おうではないか。 1:6 父の戒めどおりに歩くことが、すなわち、愛であり、あなたがたが初めから聞いてきたとおりに愛のうちを歩くことが、すなわち、戒めなのである。 1:7 なぜなら、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白しないで人を惑わす者が、多く世にはいってきたからである。そういう者は、惑わす者であり、反キリストである。 1:8 よく注意して、わたしたちの働いて得た成果を失うことがなく、豊かな報いを受けられるようにしなさい。 1:9 すべてキリストの教をとおり過ごして、それにとどまらない者は、神を持っていないのである。その教にとどまっている者は、父を持ち、また御子をも持つ。 1:10 この教を持たずにあなたがたのところに来る者があれば、その人を家に入れることも、あいさつすることもしてはいけない。 1:11 そのような人にあいさつする者は、その悪い行いにあずかることになるからである。 1:12 あなたがたに書きおくることはたくさんあるが、紙と墨とで書くことはすまい。むしろ、あなたがたのところに行き、直接はなし合って、共に喜びに満ちあふれたいものである。 1:13 選ばれたあなたの姉妹の子供たちが、あなたによろしく。
【新共同訳】 二ヨハ
◆挨拶 1:1 長老のわたしから、選ばれた婦人とその子たちへ。わたしは、あなたがたを真に愛しています。わたしばかりでなく、真理を知っている人はすべて、あなたがたを愛しています。 1:2 それは、いつもわたしたちの内にある真理によることで、真理は永遠にわたしたちと共にあります。 1:3 父である神と、その父の御子イエス・キリストからの恵みと憐れみと平和は、真理と愛のうちにわたしたちと共にあります。 ◆真理と愛 1:4 あなたの子供たちの中に、わたしたちが御父から受けた掟どおりに、真理に歩んでいる人がいるのを知って、大変うれしく思いました。 1:5 さて、婦人よ、あなたにお願いしたいことがあります。わたしが書くのは新しい掟ではなく、初めからわたしたちが持っていた掟、つまり互いに愛し合うということです。 1:6 愛とは、御父の掟に従って歩むことであり、この掟とは、あなたがたが初めから聞いていたように、愛に歩むことです。 1:7 このように書くのは、人を惑わす者が大勢世に出て来たからです。彼らは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしません。こういう者は人を惑わす者、反キリストです。 1:8 気をつけて、わたしたちが努力して得たものを失うことなく、豊かな報いを受けるようにしなさい。 1:9 だれであろうと、キリストの教えを越えて、これにとどまらない者は、神に結ばれていません。その教えにとどまっている人にこそ、御父も御子もおられます。 1:10 この教えを携えずにあなたがたのところに来る者は、家に入れてはなりません。挨拶してもなりません。 1:11 そのような者に挨拶する人は、その悪い行いに加わるのです。 ◆結びの言葉 1:12 あなたがたに書くことはまだいろいろありますが、紙とインクで書こうとは思いません。わたしたちの喜びが満ちあふれるように、あなたがたのところに行って親しく話し合いたいものです。 1:13 あなたの姉妹、選ばれた婦人の子供たちが、あなたによろしくと言っています。
【新改訳改訂第3版】 Ⅱヨハ
1:1 長老から、選ばれた夫人とその子どもたちへ。私はあなたがたをほんとうに愛しています。私だけでなく、真理を知っている人々がみな、そうです。 1:2 このことは、私たちのうちに宿る真理によることです。そして真理はいつまでも私たちとともにあります。 1:3 真理と愛のうちに、父なる神と御父の御子イエス・キリストからの恵みとあわれみと平安は、私たちとともにあります。 1:4 あなたの子どもたちの中に、御父から私たちが受けた命令のとおりに真理のうちを歩んでいる人たちがあるのを知って、私は非常に喜んでいます。 1:5 そこで夫人よ。お願いしたいことがあります。それは私が新しい命令を書くのではなく、初めから私たちが持っていたものなのですが、私たちが互いに愛し合うということです。 1:6 愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。 1:7 なぜお願いするかと言えば、人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。 1:8 よく気をつけて、私たちの労苦の実をだいなしにすることなく、豊かな報いを受けるようになりなさい。 1:9 だれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません。その教えのうちにとどまっている者は、御父をも御子をも持っています。 1:10 あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。 1:11 そういう人にあいさつすれば、その悪い行いをともにすることになります。 1:12 あなたがたに書くべきことがたくさんありますが、紙と墨でしたくはありません。あなたがたのところに行って、顔を合わせて語りたいと思います。私たちの喜びが全きものとなるためにです。 1:13 選ばれたあなたの姉妹の子どもたちが、あなたによろしくと言っています。
【リビング・バイブル】 二ヨハ
1:1 教会の長老ヨハネから、神様を信じ、神様のものとなりきっている、愛する夫人キュリアと、その子供たちへ。 私は、あなたがたを心から愛しています。 そして、あなたがたは、教会員にも心から慕われています。 1:2 私たちの心のうちには、いつも真理が宿っているので、 1:3 父なる神とそのひとり息子イエス・キリストが、真実と愛と、測り知れないあわれみと平安とを注いで、私たちを祝福してくださるのです。 1:4 こちらにいるあなたの子供たちの中に、真理に従って歩み、神様の命令どおりに正しく生活している者がいるのを見て、非常にうれしく思っています。 1:5 そこで、キュリアよ。 もう一度、思い起こしてほしいことがあります。 それは、当初から与えられていた、「クリスチャンは互いに愛し合いなさい」という、神様の戒めです。 1:6 もし私たちがほんとうに神様を愛しているなら、その命令には喜んで従うはずです。 神様は最初から、互いに愛し合うように、と命じておられるのです。 1:7 偽教師があちこちに出現していますから、くれぐれも注意しなさい。 あの連中は、イエス・キリストが、私たちと同じ肉体を持った人間として世に来られたことを、信じないのです。 彼らは、真理にそむく者であり、キリスト様に敵対する者です。 1:8 彼らと同じ道をたどって、賞を得るためのこれまでの労苦が、水のあわとならないよう、くれぐれも注意しなさい。 あなたがたには、ぜひとも、主から十分な報いを受けてもらいたいのです。 1:9 キリスト様の教えからはずれて、それを守ろうとしない者は、神様をないがしろにしているのです。 しかし、キリスト様の教えに忠実な者は、真の意味で、父なる神とそのひ

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