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第08課 安息

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작성자 나도람 작성일09-05-15 10:23 조회3,236회 댓글0건

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第08課 安息


暗唱聖句
【口語訳】 マル 2:27,28
2:27 また彼らに言われた、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。 2:28 それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである」。 【新共同訳】 マル 2:7,28
2:27 そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。 2:28 だから、人の子は安息日の主でもある。」 【新改訳改訂3】 マル 2:27,28
2:27 また言われた。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。 2:28 人の子は安息日にも主です。」 【リビング・バイブル】 マル 2:27,28
2:27 いいですか。 安息日は人間のためにつくられたのであって、人間が安息日のためにつくられたのではありません。 2:28 しかしメシヤ(救い主)のわたしには、安息日に何をしてよいかを決める権威もあるのです。」 【NKJV】 Mar 2:27,28
2:27 And He said to them, "The Sabbath was made for man, and not man for the Sabbath. 2:28 "Therefore the Son of Man is also Lord of the Sabbath." 【TEV】 Mar 2:27,28
2:27 And Jesus concluded, "The Sabbath was made for the good of human beings; they were not made for the Sabbath. 2:28 So the Son of Man is Lord even of the Sabbath." 【KJV】 Mar 2:27,28
2:27 And he said unto them, The sabbath was made for man, and not man for the sabbath: 2:28 Therefore the Son of man is Lord also of the sabbath. 【NIV】 Mar 2:27,28
2:27 Then he said to them, "The Sabbath was made for man, not man for the Sabbath. 2:28 So the Son of Man is Lord even of the Sabbath." J-ばいぶるGREEK 原書講読画面
Mar 2:27
kai. e;legen auvtoi/j( To. sa,bbaton dia. to.n a;nqrwpon evge,neto kai. ouvc o` a;nqrwpoj dia. to. sa,bbaton
<文法解析ノート> Mar 2:27
@1# kai, kai. cc 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば
@2# le,gw e;legen viia--3s 動)直未完能3 告げる、言う、呼ぶ、命ずる
@3# auvto,j auvtoi/j( npdm3p 代)与男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに
@4# o` To. dnns 冠)主中 冠詞(この、その)
@5# sa,bbaton sa,bbaton n-nn-s 名)主中単 安息日
@6# dia, dia. pa 前)対 ~を通って、~の故に、~のために
@7# o` to.n dams 冠)対男 冠詞(この、その)
@8# a;nqrwpoj a;nqrwpon n-am-s 名)対男 人、人間、この人、(文脈上 男・夫 の意)
@9# gi,nomai evge,neto viad--3s 動)直アオ能欠3単 なる、生じる、現れる
@10# kai, kai. cc 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば
@11# ouv ouvc qn 不変)否定 ~ない
@12# o` o` dnms 冠)主男 冠詞(この、その)
@13# a;nqrwpoj a;nqrwpoj n-nm-s 名)主男 人、人間、この人、(文脈上 男・夫 の意)
@14# dia, dia. pa 前)対 ~を通って、~の故に、~のために
@15# o` to. dans 冠)対中 冠詞(この、その)
@16# sa,bbaton sa,bbaton n-an-s 名)対中単 安息日

日曜日 多忙な人々のための神の賜物
参考   (聖書の達人2聖書辞典)
■あんそくにち 安息日
1.名称.〈ヘ〉シャッバース.〈ヘ〉シャーバス「やめる」あるいは「休む」に由来する.ギリシヤ語ではサバトン.週の第7日目.休息と礼拝の日として守るように定められた日.安息日は,金曜日の日没から始まって土曜日の日没で終る. 2.聖書的起源.天地創造の記事(創1:1‐2:3)の中で,6日間の創造のわざを終えた神は「休まれ」,その第7日目を祝福し,この日が「聖である」と宣言された.この創造の記事の中には,直接「安息日」ということばは使われていないが,モーセの十のことば(十戒)の制定に至って,その第4番目に安息日に関する戒めが掲げられ,その根拠として神の創造のわざに言及している(出20:8‐11).したがって,安息日を守ることは,神の創造のわざにおいて,神が「休まれた」という事実と,それを「聖とされた」という事実に深くかかわりをもっていると言える.安息日は神とイスラエルとの間の「しるし」として説明されるのである(出31:17)が,これは,神とイスラエルとの契約に基づくものであると理解してよい.特に,「いこわれた」と強い意味のことばをここで意図的に用いることによって,神は6日間の日常の仕事から全く離れて第7日目に休息されたことを強調したものと思われる. 7日を1週と見なすことについての記録はノアの洪水の記事においても見られる.すなわち,神がノアに洪水が起ることをその7日前に予告し,7日後には実際に洪水が起った(創7:4,10).また,洪水後,水が引いたことを調べるためにノアは鳩を7日ごとに箱舟の外に放った(創8:10,12).ここで安息日そのものの意味は説明されていないが,7日が一つの単位として用いられている(1週7日制についてのバビロニヤ起源説は,占星術に基づいて,太陽と月以外に5つの惑星すなわち火―土を合せて7日と見なす惑星崇拝の習慣から由来していると考える.しかし,この説は19世紀末にはほとんど消滅している). 出エジプト記において,安息日に関する最初の記録は,シンの荒野におけるマナの給食の時に見られる(出16:23).すなわち,マナを毎朝集めることについて,第6日目は特別に翌日の分まで2倍集めることを神はモーセを通してイスラエルに命じられた(出16:5).しかも,その理由として「あすは全き休みの日,主の聖なる安息である」(出16:23)と宣言しておられる.ここで注目されるのは,シンの荒野の出来事はシナイ山でのモーセの十のことばの賦与以前のことであったことである.そして,6日目にマナを集めることを怠った人々に対して主から叱責のことばがあったが,その中で推測できるのは,安息日の戒めに関しては,それよりも以前に何度か主によって繰り返されていたことである.「あなたがたは,いつまでわたしの命令とおしえを守ろうとしないのか」(出16:28).したがって,安息日の起源は,モーセの十のことばよりずっと以前にさかのぼることができる. 安息日に関する戒めは十のことばの第4番目に位置し,対神関係の戒め(第1戒―第3戒)と対人関係の戒め(第5戒―第10戒)とをつなぐ鎖として重要な役目を果している.それは,安息日の戒めには,イスラエルの出エジプトの恵みの経験が特に付記されていることからも推察される(申5:15).神は安息日を祝福のしるしとしてイスラエルに与え,御自分が彼らを聖別する主であることを知らせようとされたのである(出31:13,ネヘ9:14,エゼ20:12).安息日は本来はイスラエル民族に対して定められた制度であることは確かであるが,その原理においては,人間すべてに適用されるものである. 3.安息日の遵守.安息日には,通常の労働から解放されることは事実であるが,それに伴って,休息の仕方について厳格に規定されていて,いくつかの禁止事項が設けられている.たとえば,火をおこすこと(出35:3),薪を集めること(民15:32‐36),食事を用意すること(出16:23‐30)などが禁じられている.安息日を犯す者は殺されなければならないと定められ(出31:14,民15:32‐36),預言者たちも安息日の遵守を終末的約束の実現と関連させて語っている(イザ58:13‐14,エレ17:19‐27,エゼ20:23‐24,22:8,アモ8:5).ホセアは,イスラエルの不誠実のゆえに,安息日を彼らから取り去ろうとした(ホセ2:11).しかし,その中止も永遠に続くものではないとイザヤとエゼキエルは指摘している(イザ66:23,エゼ44:24).バビロン捕囚の期間中には,安息日はユダヤの他の祭に比べて規則正しく守られていたようである.しかし,その後エルサレムに帰還したネヘミヤは,安息日が汚されているのに大いに憤慨している(ネヘ13:15‐22). 中間時代において安息日は規則正しく守られた.その理由は会堂(シナゴーグ)の確立にあった.この時代には,安息日がユダヤ人の意識の中に公的にも私的にも深く根づいていたのである.マカベア時代には,安息日を犯すよりも死を選ぶ人々が現れたほどである(Ⅰマカベア2:32‐38). 新約時代の安息日遵守については,イエスの安息日に対する態度に見ることができる.すなわち,イエスは,この規定の基本的な目的を示すことによって安息日の真の意味を明白にしたのである.「安息日は人間のために設けられたのです.人間が安息日のために造られたのではありません.人の子は安息日にも主です」(マコ2:27‐28).
問1
【口語訳】 創 2:2,3
2:2 神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。
2:3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。 【新共同訳】 創 2:2,3
2:2 第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。
2:3 この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。 【新改訳改訂3】 創 2:2,3
2:2 神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。 2:3 神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。 【リビング・バイブル】 創 2:2,3
2:2 何もかも造り終えると、神様は七日目には仕事を休み、 2:3 この日を祝福して、聖なる日と定めました。 この日に天地創造の働きが完了したからです。 注解   (聖書の達人2聖書注解)
神は天地万物を6日間で造り終え(出20:11),第7日目を創造のみわざの完成記念日として祝福し,聖なるものとされた.神の休みは神のみわざの完成を意味し,みわざの完成は救いの完成を暗示する.安息日制定の根拠として,神の創造のみわざ(出20:11)と同時に神の救いのみわざとしての出エジプト(申5:15)が挙げられているのは,大変示唆に富んでいる.更にヘブ3:7‐4:13では,天国での至福を示す語「神の安息」が第7日目の神の休みに基づいて説明されている(ヘブ4:4).7日目の神の休みは預言的な意味合いを担っており,この意味で第7日目は神による天地万物の創造の大団円と言えよう
問2
【口語訳】 エゼ 20:12 わたしはまた彼らに安息日を与えて、わたしと彼らとの間のしるしとした。これは主なるわたしが彼らを聖別したことを、彼らに知らせるためである。
【新共同訳】 エゼ 20:12 また、わたしは、彼らにわたしの安息日を与えた。これは、わたしと彼らとの間のしるしとなり、わたしが彼らを聖別する主であることを、彼らが知るためであった。
【新改訳改訂第3版】 エゼ 20:12 わたしはまた、彼らにわたしの安息日を与えてわたしと彼らとの間のしるしとし、わたしが彼らを聖別する【主】であることを彼らが知るようにした。
【リビング・バイブル】 エゼ 20:12 わたしは彼らに安息日〔毎週七日目の休息日〕を与えた。 それは彼らとわたしとの間で、彼らを選び分けて、ほんとうに神の国民とするのは、このわたしであることを思い起こさせるしるしだ。 注解   (聖書の達人2聖書注解)
〈安息日〉(12)は主とイスラエルの間の契約のしるし.それは創造のみわざ(出20:11)と救済のみわざ(申5:15)に基づく.前者は創造の第7日すなわちこの歴史的世界全体を,主の祝福の下へと聖別し,後者は,その意義が贖われた民の歴史において回復することを示す.

月曜日  聖なる時間
参考   (聖書の達人2聖書辞典)
■せい 聖 
聖書における「聖」の概念は最も重要で根本的なものであり,聖書の神の本質的性格を表すものである.それゆえ,この概念を単に神の属性の一つと見なすのではなく,かえって,神のすべての属性がこれに関係してくる中心的,本質的性質と見るべきである. 1.旧約聖書における「聖」.旧約聖書において「聖」を表す基本語は,ヘブル語のコーデシュである.語根の原意については,一般に2つの可能性があると言われている.第1は,バビロニヤ語のquddushuからくるもので,「明るい」とか「輝かしい」という意味を持つ.第2の見解は,「分離」を意味するというものである.今日の見解の多くは,基本的には後者の説明の方に傾いているようであり,この方が旧約の用法にもより適合しているように思われる. この語は前述のように,「分離する」とか「切り離す」という意味を有するが,旧約聖書においては,すべての冒涜的事象や行為から分離され,切り離されて,神との関係を持つという意味において用いられている.旧約において,このように俗用から分離され,神との関係において聖とされるものは多岐にわたっている.たとえば,「聖なる場所」(出29:31,レビ6:26),「聖なる装束」(出28:2,レビ16:4),「聖なるそそぎの油」(出30:25),「聖なる器具」(Ⅰ歴22:19),「聖別されたささげ物」(Ⅱ歴35:13),「聖なる都」(ネヘ11:18,イザ48:2),「聖なる山」(詩43:3,イザ57:13),「聖なる宮」(詩138:2)など多数である.また神の民としてのイスラエルは「聖なる国民」(出19:6,申7:6,26:19)と呼ばれている. しかし,旧約においては,神御自身が「聖」であるということが最も重要で根本的なことである.この聖こそ神の栄光であり,イザヤはその栄光が全地に満ちるのを見た(イザ6:3).この聖なる神が,その民イスラエルに対し「あなたがたは聖なる者となりなさい.わたしが聖であるから」(レビ11:45)と命じているのである. 要するに,旧約聖書において「聖」とは,神御自身と,神との関係にあるすべてのものということができよう.どのような事物も人格的存在も,それ自体では聖ではないが,それが神との関係におかれる時に,聖なるものとされるのである.ただし,神の聖性は恒常的かつ永遠であるが,神以外の事物や人格的存在の聖性はきわめて不安定なものであって,神との関係におかれている時だけのものであるということを忘れてはならない. 2.新約聖書における「聖」.新約聖書において「聖」を表すことばとして最も多く用いられているのは,ギリシヤ語のハギオスである.この語の古いギリシヤ語ハゴスは,畏怖の対象を指す.尊敬の意味の場合もあり,また忌み避ける意味もある.形容詞ハグノスの時は,「清浄な」の意味に近い.このハギオスというギリシヤ語は,前述のヘブル語コーデシュを表すために選び出され,新約聖書の中に定着したのである.したがって新約聖書における「聖」の概念は,旧約聖書に負っていると言えよう.すなわち「聖」とは,通俗な日常的なものから引き離されているもの,また神にささげるために聖別されているものを言う.
「聖」という語の用例は,旧約におけると同様に,新約においても多岐にわたっている.たとえば,「聖なる都」(マタ4:5,27:53,黙11:2),「聖なる所」(マタ24:15,使6:13,21:28),「聖なる山」(Ⅱペテ1:18),「律法は聖なるもの」(ロマ7:12),「聖なる宮」(エペ2:21)など多数である.人に用いられる場合の「聖」については,「聖なる預言者たち」(ルカ1:70,使3:21,Ⅱペテ3:2),「聖なる使徒」(エペ3:5),バプテスマのヨハネは「正しい聖なる人」(マコ6:20)と呼ばれている,などがある.しかし最もよく使われている用例は,信徒を「聖徒」と呼ぶ場合である(ロマ16:2,Ⅰコリ1:2,16:1,エペ1:1,ほか多数).旧約において神の民イスラエルが「聖なる国民」と呼ばれたと同じように,新約において霊のイスラエルであるクリスチャンは「聖徒」と呼ばれている.そして旧約でそうであったと同じように,神は「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって,あなたがた自身も,あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい」(Ⅰペテ1:15)と使徒ペテロを通して命じているのである. (1)父なる神の「聖」.新約聖書において,神が聖であることの言及は比較的少ない.しかし,だからといって新約は,父なる神の聖について旧約よりも重要視していないと見るのは早計である.むしろ旧新両約聖書において,それは調和をもって述べられていると見るべきである.すなわち旧約ではすでに神の聖について十分に語られ,新約ではむしろ,キリストと聖霊に関する聖が語られる余地が残されているということである.母マリヤは「力ある方が,私に大きなことをしてくださいました.その御名は聖く」(ルカ1:49)と告白している.キリスト御自身もその祈りの中で「聖なる父」(ヨハ17:11)と呼びかけている.使徒ヨハネは神の黙示を述べる時,「聖なるかな,聖なるかな,聖なるかな.神であられる主」(黙4:8)という聖徒たちの賛美を記して,神が聖であることを描写している. (2)子なるキリストの「聖」.キリストはその誕生前からすでに聖なる方と見なされている.御使いは母マリヤに告げている.「聖霊があなたの上に臨み,いと高き方の力があなたをおおいます.それゆえ,生まれる者は,聖なる者,神の子と呼ばれます」(ルカ1:35).悪霊につかれた男も,「私はあなたがどなたか知っています.神の聖者です」(マコ1:24,ルカ4:34)と叫んでいる.ペテロはその説教の中で,キリストを「このきよい,正しい方」(使3:14)と呼び,信徒はその祈りの中で「聖なるしもべイエス」(使4:30)と呼んでいる.Ⅰヨハ2:20で,「聖なる方からの注ぎの油」と言われる時,聖なる方とは明らかにキリストを指している. またキリストの聖は,その人格に鮮やかに示されている.彼は,「義を愛し,不正を憎まれ」(ヘブ1:9),「罪を犯したことがなく」(Ⅰペテ2:22),人と同じように試みにあったけれども「罪は犯されませんでした」(ヘブ4:15)と言われている.それはキリスト御自身が何よりも聖なる存在であるところからきていると言えよう.ヨハ17:22で,キリストは父なる神と御自分とは一つであると告白しているが,実にその聖において,父なる神と子なるキリストは一つであると言えよう. (3)神の霊の「聖」.神の霊が「聖」であることは,その名称にしばしば〈ギ〉ハギオスが付加されていることによっても明確に物語られている.神の霊が「聖霊」と呼ばれていることに注意すべきである.「聖霊」という名称は,三位一体の神の第3位格としての聖霊が,父なる神と子なるキリストと同じ「聖」を分ち持っている事実を雄弁に物語っている. 神の霊が「聖」であると言われる場合,それがキリストの御霊(ロマ8:9,ピリ1:19,Ⅰペテ1:11)と述べられていることによって,その聖の内容は非常に明確になってくる.すなわち,神の霊の「聖」は,キリストの「聖」と合致するということである.聖霊の働きは,信徒の心の中に生けるキリストを住まわせ,生かすことであり(ヨハ14:17),それにより御子に栄光を帰すことである(ヨハ16:14).ゆえに,信徒の生の中にもたらされる聖霊の実は,キリストの徳以外の何物でもない. (4)信徒の「聖」.新約において最もよく知られている信徒の呼び名は「聖徒」である(ロマ16:2,Ⅰコリ1:2,16:1,Ⅱコリ1:1,13:12,エペ1:1,5:3,ピリ4:21,コロ1:4,27,ピレ7節,黙5:8,8:3,18:20,ほか多数).彼らはキリストにより「新しく造られた者」(Ⅱコリ5:17)であり,「聖なるものとされた人々」(使20:32,26:18,Ⅰコリ6:11,ヘブ10:10)である.また彼らは,「聖なる兄弟」(ヘブ3:1),「聖なる祭司」(Ⅰペテ2:5),「聖霊の宮」(Ⅰコリ6:19)である.そして信徒が聖なるものとされることは,神のみこころであり(Ⅰテサ4:3,ヘブ10:10),その聖の中心的内容はキリストであり(Ⅰコリ1:30,エペ4:13),それを遂行するのが聖霊である(Ⅱテサ2:13,Ⅰペテ1:2).この聖化は,信徒の生がキリストの中にあり,キリストの生が信徒の中にあるという経験である(ガラ2:20).新約において信徒がキリストの中にあるということは,同時に信徒の中にキリストがあることを意味する相補的出来事である.キリストとのこのような霊的結合関係を失う時,人はもはやキリストのものではない(ロマ8:9). 旧約において,本来聖ではないものが,聖なる神との関係において聖なるものとされると言われているのと同じように,新約においても,聖ではあり得ない罪人が,神の愛により,キリストの贖いによって救われ,聖霊の働きにより,聖なるものとして受け入れられるということが述べられている.
問3
【口語訳】 創 2:3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。
【新共同訳】 創 2:3 この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。
【新改訳改訂第3版】 創 2:3 神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。
【リビング・バイブル】 創 2:3 この日を祝福して、聖なる日と定めました。 この日に天地創造の働きが完了したからです。 【口語訳】 イザ 58:13 もし安息日にあなたの足をとどめ、わが聖日にあなたの楽しみをなさず、安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を尊ぶべき日ととなえ、これを尊んで、おのが道を行わず、おのが楽しみを求めず、むなしい言葉を語らないならば、
【新共同訳】 イザ 58:13 安息日に歩き回ることをやめ/わたしの聖なる日にしたい事をするのをやめ/安息日を喜びの日と呼び/主の聖日を尊ぶべき日と呼び/これを尊び、旅をするのをやめ/したいことをし続けず、取り引きを慎むなら
【新改訳改訂第3版】 イザ 58:13 もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を「喜びの日」と呼び、【主】の聖日を「はえある日」と呼び、これを尊んで旅をせず、自分の好むことを求めず、むだ口を慎むなら、
【リビング・バイブル】 イザ 58:13 安息日をきよい心で守り、その日には仕事や趣味に熱中したりせず、喜んで安息日を過ごし、神のきよい日だと喜びを込めて言い、自分のしたいことをせずにむだ口を慎み、わたしをあがめるなら、 問4
【口語訳】 出 31:12,13
31:12 主はまたモーセに言われた、 31:13 「あなたはイスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは必ずわたしの安息日を守らなければならない。これはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしであって、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、知らせるためのものである。 【新共同訳】 出 31:12,13
31:12 主はモーセに言われた。 31:13 あなたは、イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちは、わたしの安息日を守らねばならない。それは、代々にわたってわたしとあなたたちとの間のしるしであり、わたしがあなたたちを聖別する主であることを知るためのものである。 【新改訳改訂3】 出 31:12,13
31:12 【主】はモーセに告げて仰せられた。 31:13 「あなたはイスラエル人に告げて言え。あなたがたは、必ずわたしの安息を守らなければならない。これは、代々にわたり、わたしとあなたがたとの間のしるし、わたしがあなたがたを聖別する【主】であることを、あなたがたが知るためのものなのである。 【リビング・バイブル】 出 31:12‐13
31:12 -13神様はさらに、次の命令も与えました。 「人々に、安息日は休むよう言いなさい。 安息日は、おまえとわたしの間の契約を永遠に思い出させるものである。 わたしが神であり、おまえたちを聖なる国民とする者であることを、安息日は思い出させてくれる。 注解   (聖書の達人2聖書注解)
聖所に関する指示の最後に,安息日の戒めが繰り返される(→20:8‐11注解).聖所と安息日の関係は,礼拝と安息日の関係にほかならない.また,聖所の建設という大事業が始まろうという時にこの戒めに言及されたのは,たとい聖所の仕事であっても仕事は仕事であり,6日の間働き,7日目はみな仕事を休まなければならないことを示すためである.

火曜日  安息日の喜び
問5
【口語訳】 申 5:12‐15
5:12 安息日を守ってこれを聖とし、あなたの神、主があなたに命じられたようにせよ。 5:13 六日のあいだ働いて、あなたのすべてのわざをしなければならない。 5:14 七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたも、あなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、牛、ろば、もろもろの家畜も、あなたの門のうちにおる他国の人も同じである。こうしてあなたのしもべ、はしためを、あなたと同じように休ませなければならない。 5:15 あなたはかつてエジプトの地で奴隷であったが、あなたの神、主が強い手と、伸ばした腕とをもって、そこからあなたを導き出されたことを覚えなければならない。それゆえ、あなたの神、主は安息日を守ることを命じられるのである。 【新共同訳】 申 5:12‐15
5:12 安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。 5:13 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、 5:14 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。 5:15 あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。 【新改訳改訂3】 申 5:12‐15
5:12 安息日を守って、これを聖なる日とせよ。あなたの神、【主】が命じられたとおりに。 5:13 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。 5:14 しかし七日目は、あなたの神、【主】の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。──あなたも、あなたの息子、娘も、あなたの男奴隷や女奴隷も、あなたの牛、ろばも、あなたのどんな家畜も、またあなたの町囲みのうちにいる在留異国人も──そうすれば、あなたの男奴隷も、女奴隷も、あなたと同じように休むことができる。 5:15 あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、【主】が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、【主】は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。 【リビング・バイブル】 申 5:12‐15
5:12 安息日を特別の日として守りなさい。 これは命令だ。 5:13 仕事はみな六日のうちにすませなさい。
5:14 七日目は神の休みの日だから、その日は一日、人も家畜も仕事をしてはならない。 外国人でも、いっしょに住んでいる限り、この法律を守る義務がある。 すべての人が休むのだ。 5:15 安息日を守るのは、エジプトで奴隷にされていたあなたがたを、主であるわたしがすばらしい奇蹟を起こして救い出したことを、忘れないためだ。 注解   (聖書の達人2聖書注解)
〈どんな仕事もしてはならない〉(14).安息日の聖別については,創造における神の安息の事実に基づいて語る出20章とは異なり,エジプトの奴隷状態からの救出に根拠を置いている.この十戒に限らず,約束の地での定住生活において,かつて奴隷であったことを覚えて,特に在留異国人に対し配慮せよとの命令は随所に見られる.それにもまして,安息日の意義を,自分たちがエジプトの奴隷状態から主の力強い御腕によって〈連れ出されたことを〉(15)覚えるためとしている点に注目すべきであろう
【口語訳】 出 20:8‐11
20:8 安息日を覚えて、これを聖とせよ。 20:9 六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。
20:10 七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。 20:11 主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。
【新共同訳】 出 20:8‐11
20:8 安息日を心に留め、これを聖別せよ。 20:9 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、 20:10 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。 20:11 六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。 【新改訳改訂3】 出 20:8‐11
20:8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。 20:9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。 20:10 しかし七日目は、あなたの神、【主】の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。──あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も── 20:11 それは【主】が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、【主】は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。 【リビング・バイブル】 出 20:8‐11
20:8 安息日を特別の日として守りなさい。 20:9 仕事はみな六日のうちにすませなさい。 20:10 七日目は神の休息の日だから、その日は一日、人も家畜も仕事をしてはならない。 外国人も、あなたといっしょに住んでいる限り、この法律を守る義務がある。 20:11 わたしが六日の間に天と地と海と、その中のいっさいのものを造り、七日目に休んだからだ。 わたしは安息日を祝福し、特別な日と定めた。 注解   (聖書の達人2聖書注解)
⑤第5戒(12).ここからヤハウェの民の共同体内の基礎的な法へと移る.神に関する法が唯一のヤハウェに関する法で始まったように,共同体内の法は,まず人とその父母との関係に関する戒めから始まる.社会の関係は親子関係から始まるからである.ヤハウェが命の主であるが,人は親を通してヤハウェの命にあずかる.ここから人間関係のすべてが始まる.〈敬え〉.用いられる言葉は,「栄光を現す」「重んじる」等の意味を持つ.人は,神を命の主である故に重んじるように,父母を人の命の源泉である故に重んじるのである.親子の関係は自然の関係,血の関係であるが,それに宗教的意味付けを与えたのが第5戒である.父母は,命の与え手であるヤハウェを代表する者である故に重んじられる.自然の情愛を超えたものが求められている.父と共に母が並列されていることに特に注意する必要がある.父制社会であるイスラエルにおいて,母が父と共に重んじられているのである.第5戒には,約束が付け加えられている.父母を軽んじる者に死罪を科することを定めた21:17との関係を見るべきであろう.ヤハウェの代表である父母を重んじることは,ヤハウェの賜る地で命が長らえる原因となる
*イエスは私たちを再創造
【口語訳】 二コリ 5:17 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。
【新共同訳】 二コリ 5:17 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。
【新改訳改訂第3版】 Ⅱコリ 5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
【口語訳】 ガラ 6:15 割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。
【新共同訳】 ガラ 6:15 割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。
【新改訳改訂第3版】 ガラ 6:15 割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。
*永遠の命の希望
【口語訳】 二ペテ 3:13 しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。
【新共同訳】 二ペト 3:13 しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。
【新改訳改訂第3版】 Ⅱペテ 3:13 しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。
参考   (聖書の達人2聖書辞典)
■どれい 奴隷
1.古代近東における奴隷.旧約聖書の奴隷についての言及を理解するために,これを古代近東の奴隷制の一環として,比較しながら検討すると,類似点と相違点がよく分る.これらの文献は,シュメール,バビロニヤ,アッシリヤ,ヒッタイトなどの法典,バビロニヤ,アッシリヤの個人や宮廷の文書類,ウガリット文書などである.聖書の奴隷に関する法は,出21章,レビ25章,申15章に見られる.これ以外の多くの書にも,奴隷への言及がある.「奴隷」のほかに「しもべ」「はしため」とも訳され,ヘブル語では男奴隷は一般に〈ヘ〉エベドゥ,女奴隷は〈ヘ〉アーマー,あるいはシフハーが使われている.古代近東の諸国の用語と比較して,旧約聖書の特色としてあげられるのは,「ヘブル人の」という語を加えて,同胞の奴隷と外国人の奴隷を区別した点である(出21:2等). 2.奴隷になる経路.(1)戦争によるもの.奴隷を表すシュメールの最も古い用語は,「外国の男」「外国の女」であった.これは,戦争の捕虜が奴隷の供給源であったことを示している.イスラエルにおいても同様であった(民31:7‐41,申20:10‐15,Ⅱ歴28:8‐15等).古代近東の法典には戦争捕虜の扱い(身の代金等)が定められているが,旧約聖書では申21:10‐14などがその一例であり,戦争捕虜の女性を妻とした場合,彼女を自由人として扱うべきことを定めたものである. (2)売買による外国人奴隷.古代近東において外国人奴隷の売買は,各国共盛んに行っていた.聖書における例は,創17:12,Ⅰ歴2:34‐35等がある.出21:16,申24:7は,人をさらって売ることを死刑をもって禁じている.これは同胞であるヘブル人を外国に売る事例を想定したものであろう.これにはヨセフが兄弟たちによって商人に売られたような例がある(創37:28).また申23:15‐16では,ヘブル人で外国に奴隷となっていた者が逃げ帰ってきた場合のことが規定されているのであろう. (3)親が子を奴隷として売る.貧困を理由に親が子を奴隷として売ることは古代近東ではまれではなかった.この点に関しては,出21:7‐11とネヘ5:1‐5が重要である.出21章の方は「女奴隷」ということばが用いられているが,これは将来,売られた先の家の妻,そばめ,あるいは息子の嫁等になるという条件で売られたのであるから,やや特殊な例である.彼女はもはやその家から奴隷として売られることはないからである.ネヘ5章で,人々が子供を奴隷として売ったというのは,実は借金のかたとして子供を取り上げられたのであって,自発的に売ったとは言えない.したがってイスラエルでは自分の子供を自発的に奴隷に売ることはほとんどなかったと見てよい. (4)自分を奴隷として売る.貧困等の理由で自分を奴隷として売ることは,古代近東では広く行われていたが,これについての規定があるのは旧約聖書だけである(出21:2‐6,レビ25:39‐55,申15:16‐17).イスラエルの社会では,奴隷は7年目には解放されることになっていた.出21章と申15章の規定は,奴隷がその家にとどまることを希望している場合のことを規定したものである.それは主人との結びつきが好ましいものであるか,結婚してその家の一員となった場合である.レビ25章は,同胞が貧しくなって,同胞のところに身売りする例と,イスラエル社会内にいる豊かな外国人のところに身売りする例の両方が扱われているが,いずれも,イスラエル人はヨベルの年の規定による保護が与えられている.また,イスラエルは「神の奴隷」であるから,人の奴隷としてはならないという原則が教えられている(レビ25:42,55). (5)破産による身売り.古代近東の法は,借金等が支払い不能になった者あるいはその家を,貸主が奴隷また所有物にする権利を認めている.イスラエルの律法は同胞から利子をとることを禁じている(出22:25,レビ25:35‐37,申23:19‐20.参照詩15:5,箴28:8,エゼ18:8‐17,22:12).しかし,イスラエルの社会には,いろいろな形の破産者がいたことは実例から明らかである.Ⅰサム22:2によると,アドラムの洞穴に避難したダビデのもとに集まった者のうちに「困窮している者,負債のある者」がいたとある.Ⅱ列4:1によると夫を失ったやもめが,貸主から息子を奴隷に売るように脅されていると,エリシャに訴えている.ネヘ5:1‐5は捕囚期後のユダにおける似たような状態を反映している.その他イザ50:1,アモ2:6もこれを反映している.出22:3は,盗人が賠償能力がない場合,彼自身が奴隷に売られることを規定している.出21:2‐4,申15:12は,支払い不能になった同胞に対する特別な扱い方を教えたものである. 3.奴隷の地位.(1)奴隷のしるし.法的には奴隷は財産であった.したがって売買,貸与,交換,相続ができた.自由人と異なって,父姓を持たず,系図もなかった.多くの場合,奴隷は焼印等のしるしをつけられた.イスラエルでは,奴隷に印を押すことを明言した箇所はないが,主の名が手に記される(イザ44:5),額のしるし(エゼ9:4)等の表現は所有権を示し,もともと奴隷に印を押すという習慣からきた表現である. (2)女奴隷.女奴隷は通常の労働力として用いられるだけでなく,奴隷の子供を増す手段としても用いられた.最上の場合は,主人の子供の母親となり(ハガルの場合),最悪の場合は娼婦として扱われる.ヨブ31:10の表現はこれらの習慣を反映したものであろう. (3)自由人と奴隷との結婚.バビロニヤでは奴隷が自由人の女と結婚する例はよく見られた.イスラエルではそういった例は知られていない.Ⅰ歴2:34‐35はこの例に当るように見えるが,ヤルハはシェシャンの娘と結婚する前に解放されて養子となっていたものと思われる.レビ19:20は具体的にどのような事例に当てはまるのか明瞭でない. (4)家で生れた奴隷.金で買われた奴隷より,家で生れた奴隷の方が優遇された.創15:2‐4においてアブラハムは,家で生れた奴隷であるエリエゼルを彼の相続人にせざるを得ないと考えている. (5)逃亡奴隷.古代近東では逃亡奴隷を助けたりかくまったりすることは盗まれた品物を持つことと同じようにきびしく禁じられていた.ピレモンへの手紙は新約時代においても事情が同じであったことを示している.旧約の律法で奴隷を扱った箇所(出21章,レビ25章,申15章)には,逃亡奴隷に関する規定は見られない.それは,イスラエルでは奴隷に対する扱いが穏やかであったために逃亡する者が少なかったためであろう.しかし逃亡奴隷の具体例としてはいくつかあげることができる(創16章,Ⅰサム25:10,Ⅰ列2:39‐40). (6)奴隷の扱い.奴隷は動産であるから,物として扱われるが,しかし古代近東の法や社会の習慣は,必ずしもそれに徹底しているわけではなく,彼らを人間として扱うという面も多くあった.旧約律法で奴隷の身分が明白に現れる例として,牛に突かれて殺された場合の賠償の規定がある(出21:32).あるいはレビ19:20では,男が女奴隷を犯した場合,罰は罪過のためのいけにえの雄羊をささげるだけで赦されるとある.古代近東の法も旧約の法も奴隷を単なる財産として扱う面もあるが,古代近東において,奴隷が人間的に扱われるかどうかは,主人のあわれみの情にのみよっているのに対し,イスラエルの法においては,主人の側の奴隷に対する権利を制限するという特色がある.奴隷を打ってその場で死なせた者は,主人であっても復讐を免れない(出21:20).奴隷を打って目や歯を損なった場合,代償としてその奴隷を自由にしなければならなかった(出21:26‐27).イスラエルでは奴隷は主人と共に働く家族の一員と見なされた.奴隷は主人と共に神礼拝に加わり,安息日の休みが与えられた(創17:13,27,出12:44,20:10,23:12,レビ22:11,申5:14,12:12,18,16:11,14).神は男女の奴隷にもその霊を注がれるのである(ヨエ2:29). 4.奴隷の財産.古代近東においては,奴隷が財産を蓄えることが認められていた.したがって古代近東の国々の法典には,その奴隷の死後の財産の配分のことが決められている.自由人である妻と共に働いて財産を形成した場合,死後,主人は奴隷の分だけを自分のものとし,半分は奴隷の妻に与えた.イスラエルでも,奴隷は自分のために財を蓄えることができた.レビ25:49によるとイスラエルの中にいる外国人に身を売って奴隷となった者が,働いて金を蓄え,自分で自分の買い戻しをすることができることを示している.サウルの父キシュの奴隷は金を持っていた(Ⅰサム9:8).サウルの奴隷ツィバには15人の息子と20人のしもべがいた(Ⅱサム9:10).しかし奴隷の財産は主人のものであるから,「ツィバの家に住む者はみな,(ツィバの主人)メフィボシェテのしもべとなった」(Ⅱサム9:12)のである. 5.奴隷の解放.奴隷が自由を得るためには,買い戻しを含めて種々の事例があり,イスラエルでは5通りの方法があった.(1)ヘブル人である奴隷とその妻,ヘブル人である女奴隷は6年の束縛の後に解放された(出21:2‐4,申15:12).(2)ヘブル人が自分自身を自発的に同胞に,あるいは他国人に奴隷として売った場合は,ヨベルの年に解放される(レビ25:39‐43,47‐55).(3)ヘブル人の女で,主人との結婚,あるいはその息子との結婚を条件に父によって売られた場合,彼女が適齢期になってもなお主人がその条件を満たさない時には,彼女は自由にされる(出21:7‐11).(4)主人に打たれて生涯にわたる障害を受けた時は自由にされる(出21:26‐27).(5)逃げ帰ってきた奴隷(ヘブル人で,他国人の主人のもとから)は保護される権利がある(申23:15‐16).エレミヤはイスラエルにおいて7年目の解放が行われていないことを責めている(エレ34:8‐16).ヨベルの年の解放の規定は古代近東には例がない.これはヘブル人を永久に奴隷にすることを不可能にする律法であって,奴隷に関するおきての中では最も重要なものである.申23:15‐16の逃亡奴隷についての規定が理想的すぎるという批判があるが,古代近東においても,奴隷が売買されているうちに自分の国に売られた場合,彼は解放されるという規定がある.これは,同胞を外国に売らないという一般的な傾向があったことと合せ考える時,イスラエルの規定が空想的だと言えないことが分る. 6.王の奴隷.戦争による捕虜の大部分は王,すなわち国家の奴隷となった.民31:32‐47,ヨシ9:23‐27,エズ8:20,エゼ44:7‐9などが関連のある箇所である.申20:10‐14,21:10,士5:30も同様である.イスラエルが,国家として,多くの奴隷を用いたのはダビデ王国以後である.特にⅠ列9:21「奴隷の苦役に徴用」,Ⅰ列9:27,Ⅱ歴8:18,9:10の「ソロモンのしもべたち」は,国家的奴隷制度を示している.この制度はユダ王国の終りまで続いた.バビロンからの帰還者の中に「ソロモンのしもべたちの子孫」が数えられていることからも分る(エズ2:55‐58,ネヘ7:57‐60,11:3).また,これらの奴隷は神殿奴隷として用いられた(民31:25‐47,ヨシ9:21‐27,エズ2:43‐54,8:20,ネヘ7:46‐56). 7.新約聖書と奴隷.新約時代の教会には多くの奴隷がいた.ピレモンへの手紙は奴隷についてのパウロの考えを最もよく示している.その他奴隷に関するパウロの言及は,Ⅰコリ7:21‐24,ガラ3:28,エペ6:5‐9,コロ3:11,4:1等にある.

水曜日 安息日の休みの模範を示す
問6
【口語訳】 イザ 58:12‐14
58:12 あなたの子らは久しく荒れすたれたる所を興し、あなたは代々やぶれた基を立て、人はあなたを『破れを繕う者』と呼び、『市街を繕って住むべき所となす者』と/呼ぶようになる。 58:13 もし安息日にあなたの足をとどめ、わが聖日にあなたの楽しみをなさず、安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を尊ぶべき日ととなえ、これを尊んで、おのが道を行わず、おのが楽しみを求めず、むなしい言葉を語らないならば、
58:14 その時あなたは主によって喜びを得、わたしは、あなたに地の高い所を乗り通らせ、あなたの先祖ヤコブの嗣業をもって、あなたを養う」。これは主の口から語られたものである。 【新共同訳】 イザ 58:12‐14
58:12 人々はあなたの古い廃虚を築き直し/あなたは代々の礎を据え直す。人はあなたを「城壁の破れを直す者」と呼び/「道を直して、人を再び住まわせる者」と呼ぶ。 58:13 安息日に歩き回ることをやめ/わたしの聖なる日にしたい事をするのをやめ/安息日を喜びの日と呼び/主の聖日を尊ぶべき日と呼び/これを尊び、旅をするのをやめ/したいことをし続けず、取り引きを慎むなら 58:14 そのとき、あなたは主を喜びとする。わたしはあなたに地の聖なる高台を支配させ/父祖ヤコブの嗣業を享受させる。主の口がこう宣言される。 【新改訳改訂3】 イザ 58:12‐14
58:12 あなたのうちのある者は、昔の廃墟を建て直し、あなたは古代の礎を築き直し、「破れを繕う者、市街を住めるように回復する者」と呼ばれよう。 58:13 もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を「喜びの日」と呼び、【主】の聖日を「はえある日」と呼び、これを尊んで旅をせず、自分の好むことを求めず、むだ口を慎むなら、 58:14 そのとき、あなたは【主】をあなたの喜びとしよう。「わたしはあなたに地の高い所を踏み行かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地であなたを養う」と【主】の御口が語られたからである。 【リビング・バイブル】 イザ 58:12‐14
58:12 息子たちは、長いあいだ人の住んでいなかった町々の廃墟を建て直し、「城壁と町を造り直す恩人」と呼ばれます。 58:13 安息日をきよい心で守り、その日には仕事や趣味に熱中したりせず、喜んで安息日を過ごし、神のきよい日だと喜びを込めて言い、自分のしたいことをせずにむだ口を慎み、わたしをあがめるなら、 58:14 わたしはおまえの喜びとなる。 しかもわたしは、おまえが地の高い所を駆け巡り、おまえの父ヤコブに約束しておいた祝福をあますところなく受け継ぐように、まちがいなく取り計らう。 神様が、このようにお語りになりました。 注解   (聖書の達人2聖書注解)
(13‐14)は,この章の結語とも言い得る.神が真に喜ばれる生き方は,律法に形式的に束縛されることでもなければ,律法を無視して自由勝手に思うがままに振舞うことでもない.それは,もっと躍動感に満ちた「主を喜びとする」生き方である.彼らは,そのような生き方を身につけ,エルサレムのある約束の地,カナンの地,パレスチナの地に安住することが出来ると,神は約束しておられる
問7
【口語訳】 マル 2:23‐3:6
2:23 ある安息日に、イエスは麦畑の中をとおって行かれた。そのとき弟子たちが、歩きながら穂をつみはじめた。 2:24 すると、パリサイ人たちがイエスに言った、「いったい、彼らはなぜ、安息日にしてはならぬことをするのですか」。 2:25 そこで彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが食物がなくて飢えたとき、ダビデが何をしたか、まだ読んだことがないのか。 2:26 すなわち、大祭司アビアタルの時、神の家にはいって、祭司たちのほか食べてはならぬ供えのパンを、自分も食べ、また供の者たちにも与えたではないか」。 2:27 また彼らに言われた、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。 2:28 それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである」。 3:1 イエスがまた会堂にはいられると、そこに片手のなえた人がいた。 3:2 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にその人をいやされるかどうかをうかがっていた。 3:3 すると、イエスは片手のなえたその人に、「立って、中へ出てきなさい」と言い、 3:4 人々にむかって、「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」と言われた。彼らは黙っていた。 3:5 イエスは怒りを含んで彼らを見まわし、その心のかたくななのを嘆いて、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。そこで手を伸ばすと、その手は元どおりになった。 3:6 パリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちと、なんとかしてイエスを殺そうと相談しはじめた。 【新共同訳】 マル 2:23‐3:6
2:23 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。 2:24 ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。 2:25 イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。 2:26 アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」 2:27 そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。 2:28 だから、人の子は安息日の主でもある。」3:1 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。 3:2 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。 3:3 イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。 3:4 そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。 3:5 そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。 3:6 ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。 【新改訳改訂3】 マル 2:23‐3:6
2:23 あ

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