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第13課 預言の賜物への確信

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작성자 나도람 작성일09-03-24 22:19 조회3,051회 댓글0건

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第13課 預言の賜物への確信


暗唱聖句
【口語訳】 歴代下 20:20 彼らは朝早く起きてテコアの野に出て行った。その出て行くとき、ヨシャパテは立って言った、「ユダの人々およびエルサレムの民よ、わたしに聞きなさい。あなたがたの神、主を信じなさい。そうすればあなたがたは堅く立つことができる。主の預言者を信じなさい。そうすればあなたがたは成功するでしょう」。
【新共同訳】 歴代下 20:20 翌朝早く、彼らはテコアの荒れ野に向かって出て行った。出て行くとき、ヨシャファトは立って言った。「ユダとエルサレムの住民よ、聞け。あなたたちの神、主に信頼せよ。そうすればあなたたちは確かに生かされる。またその預言者に信頼せよ。そうすれば勝利を得ることができる。」
【新改訳改訂第3版】 Ⅱ歴代 20:20 こうして、彼らは翌朝早く、テコアの荒野へ出陣した。出陣のとき、ヨシャパテは立ち上がって言った。「ユダおよびエルサレムの住民よ。私の言うことを聞きなさい。あなたがたの神、【主】を信じ、忠誠を示しなさい。その預言者を信じ、勝利を得なさい。」
【リビング・バイブル】 Ⅱ歴代 20:20 翌朝はやく、ユダ軍はテコアの荒野へ進軍しました。 途中、王は立ち止まり、大声で指示を与えました。 「諸君、わしの言うことを聞き、神様を信じなさい。 そうすれば、勝利はまちがいない! 預言者のことばを信じなさい。 そうすれば、事はうまくいく。」
<NKJV> 2Ch 20:20 So they rose early in the morning and went out into the Wilderness of Tekoa; and as they went out, Jehoshaphat stood and said, "Hear me, O Judah and you inhabitants of Jerusalem: Believe in the Lord your God, and you shall be established; believe His prophets, and you shall prosper."
<KJV> 2Ch 20:20 And they rose early in the morning, and went forth into the wilderness of Tekoa: and as they went forth, Jehoshaphat stood and said, Hear me, O Judah, and ye inhabitants of Jerusalem; Believe in the LORD your God, so shall ye be established; believe his prophets, so shall ye prosper.
<NIV> 2Ch 20:20 Early in the morning they left for the Desert of Tekoa. As they set out, Jehoshaphat stood and said, "Listen to me, Judah and people of Jerusalem! Have faith in the LORD your God and you will be upheld; have faith in his prophets and you will be successful."
<TEV> 2Ch 20:20 Early the next morning the people went out to the wild country near Tekoa. As they were starting out, Jehoshaphat addressed them with these words: "People of Judah and Jerusalem! Put your trust in the Lord your God, and you will stand your ground. Believe what his prophets tell you, and you will succeed."
J-ばいぶるHEBREW 原書講読画面
2Ch 20:20
[;AqT. rB;d>mil. Wac.YEw: rq,Bob; WmyKiv.Y:w:
ynIW[m'v. rm,aYOw: jp'v'Ahy> dm;[' ~t'aceb.W
hw"hyB; Wnymia]h; ~l;iv'Wry> ybev.yOw> hd'Why>
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xlc w aybin" B !ma !ma w ~yhil{a/ hwhy B !ma ~l;iv'Wry> bvy w hd'Why> [mv rma w jp'v'Ahy> dm[ acy B w [;AqT. rB'd>mi l acy w rq,Bo B ~kv w
<文法解析ノート> 2Ch 20:20
1> w (接続詞) @PcN [51275] <10012>…と…
2> ~kv (動詞Hif継続waw3男複) @vhw3mpN [65] <7925>早起きする,繰り返す
3> B (前置詞+冠詞) @Pp+PaN [15799] <10007>中,(理由,代価,手段,場所,時の)で
4> rq,Bo (普通名詞男単) @ncmsN [214] <1242>朝,翌日,明日
5> w (接続詞) @PcN [51275] <10012>…と…
6> acy (動詞Qal継続waw3男複) @vqw3mpN [1078] <3318>出て行く,出て来る,退場する,前進する,出発する,行進する(Hiphil)行かせる,引き出す,導き出す,解放する(Hophal)連れ出される,引き出される
7> l (前置詞) @PpN [20687] <10011>(方向を示す)に,(所有を表す)の,~に関して
8> rB'd>mi (普通名詞男単合成形) @ncmscN [271] <4057>荒野,
9> [;AqT. (固有名詞) @npN [7] <8620>テコア
10> w (接続詞) @PcN [51275] <10012>…と…
11> B (前置詞) @PpN [15799] <10007>中,(理由,代価,手段,場所,時の)で
12> acy (動詞Qal不定詞合成形接尾辞3男複) @vqcX3mpN [1078] <3318>出て行く,出て来る,退場する,前進する,出発する,行進する(Hiphil)行かせる,引き出す,導き出す,解放する(Hophal)連れ出される,引き出される
13> dm[ (動詞Qal完3男単) @vqp3msN [524] <5975>立っている、耐える
14> jp'v'Ahy> (固有名詞) @npN [86] <3092>ヨシャパテ
15> w (接続詞) @PcN [51275] <10012>…と…
16> rma (動詞Qal継続waw3男単) @vqw3msN [5390] <559>言う,語る,告げる,呼ぶ,答える
17> [mv (動詞Qal命男複接尾辞1両単) @vqvmpX1csN [1174] <8086>聞く
18> hd'Why> (固有名詞) @npN [819] <3063>ユダ
19> w (接続詞) @PcN [51275] <10012>…と…
20> bvy (動詞Qal分詞男複合成形) @vqPmpcN [1088] <3427>座る,とどまる,住む,住まいを持つ(Niphal)住むようになる,(Piel)置く,位置する(Hiphil)座らせる,住まわせる,住ませる,(町々を)人が住むようにする(Hophal)住ませる,住むようになる
21> ~l;iv'Wry> (固有名詞) @npN [643] <3389>エルサレム
22> !ma (動詞Hif命男複) @vhvmpN [112] <539>信じる、信頼する,確かである
23> B (前置詞) @PpN [15799] <10007>中,(理由,代価,手段,場所,時の)で
24> hwhy (固有名詞) @npN [6828] <3068>ヤーゥェ:まことの神の固有名詞 主
25> ~yhil{a/ (普通名詞男複合成形接尾辞2男複) @ncmpcX2mpN [2602] <430>神,神々,
26> w (接続詞) @PcN [51275] <10012>…と…
27> !ma (動詞Nif未2男複) @vni2mpN [112] <539>信じる、信頼する,確かである
28> !ma (動詞Hif命男複) @vhvmpN [112] <539>信じる、信頼する,確かである
29> B (前置詞) @PpN [15799] <10007>中,(理由,代価,手段,場所,時の)で
30> aybin" (普通名詞男複合成形接尾辞3男単) @ncmpcX3msN [317] <5030>預言者
31> w (接続詞) @PcN [51275] <10012>…と…
32> xlc (動詞Hif命男複) @vhvmpN [69] <6743>激しく下る、なし遂げる、栄える

日曜日 聖書の権威
問1
【口語訳】 ルカ 24:13-27
24:13 この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、24:14 このいっさいの出来事について互に語り合っていた。 24:15 語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。 24:16 しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。 24:17 イエスは彼らに言われた、「歩きながら互に語り合っているその話は、なんのことなのか」。彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった。 24:18 そのひとりのクレオパという者が、答えて言った、「あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけが、この都でこのごろ起ったことをご存じないのですか」。 24:19 「それは、どんなことか」と言われると、彼らは言った、「ナザレのイエスのことです。あのかたは、神とすべての民衆との前で、わざにも言葉にも力ある預言者でしたが、 24:20 祭司長たちや役人たちが、死刑に処するために引き渡し、十字架につけたのです。 24:21 わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていました。しかもその上に、この事が起ってから、きょうが三日目なのです。 24:22 ところが、わたしたちの仲間である数人の女が、わたしたちを驚かせました。というのは、彼らが朝早く墓に行きますと、 24:23 イエスのからだが見当らないので、帰ってきましたが、そのとき御使が現れて、『イエスは生きておられる』と告げたと申すのです。 24:24 それで、わたしたちの仲間が数人、墓に行って見ますと、果して女たちが言ったとおりで、イエスは見当りませんでした」。 24:25 そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。 24:26 キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。 24:27 こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。 【新共同訳】 ルカ 24:13-27
24:13 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、 24:14 この一切の出来事について話し合っていた。 24:15 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。 24:16 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。 24:17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。
24:18 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」 24:19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。 24:20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。 24:21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。 24:22 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、 24:23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。 24:24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」 24:25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、 24:26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 24:27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。 【新改訳改訂3】 ルカ 24:13-27
24:13 ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。 24:14 そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。 24:15 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。 24:16 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。 24:17 イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。 24:18 クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」 24:19 イエスが、「どんな事ですか」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。 24:20 それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。 24:21 しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、 24:22 また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、 24:23 イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。 24:24 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」 24:25 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。 24:26 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」 24:27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。 注解   (聖書の達人2聖書注解)
13‐14 〈エルサレムから11キロメートル余り(原文「60スタディオン」.古代オリンピック競技場のコースの長さを基準にしたもので,1スタディオンは約185m)離れたエマオ(「温かい泉」の意味)という村(参照2:4)〉がどこかは不明.ヨセフスの記すエマオ(『ユダヤ戦記』Ⅶ:6:6)はエルサレムから30(異本は「60」)スタディオンの現カロニエで,エルサレム西約6㎞,ヨッパ街道沿いに位置する.ルカの「60スタディオン」を往復の距離と解せるならここがふさわしい(参照33) 15‐16 彼らの「話し合い」は時に熱い議論となった.〈論じ合った〉(原義「一緒に追求した」)のはおもに空の墓のなぞについてであろう.「イエスの復活」はその日以来今に至るまで,人々の議論の的である(参照マタ28:12‐15,使26:23‐29等).復活信仰なき復活論争のただ中に,復活者自身が姿を現し〈近づいて〉来る.その現れ方は普通の旅人のそれと変らない.復活の主は弟子たちと〈ともに道を歩いておられ〉る(エルサレムへの旅モチーフの鍵語「行く」9:51と「いっしょに」24:29の合成語)人生の同伴者である.〈しかし〉彼らにはそれがわからない.復活の主を見る〈目〉は人間的な目ではない 17‐18 〈クレオパという[名前]〉の弟子がクロパ(ヨハ19:25)と同一人だとすれば連れの者は妻マリヤか息子の可能性がある.クレオパの答の冒頭は〈あなただけが〉で,エルサレム中がこの話題で持ち切りなのに知らない人がいたとは,という驚き.〈いながら〉は一時的滞在を表す語で,〈エルサレムに〉過越祭のために一時的に滞在していた人々が大勢いた 19 彼らの暗く悲しい表情(17)が,イエスに対する彼らの愛情の深さを物語るが,イエスは彼らが信仰の目で十字架と復活を見ることを望む.彼らは〈ナザレ人イエス〉(参照4:34.原文では「イエス」の名前が記されるのはここが最後)を〈預言者〉と位置付ける(4:24,7:16,39,9:8,19).〈行ないにもことばにも力のある預言者〉とは「モーセのような預言者」の意味(使7:22,申18:15,18) 20‐21 〈この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ〉は,モーセがイスラエルをエジプトから解放したこととの対比.〈贖〉う(参照1:68,2:38,21:28)は代価を払って救い出すことを意味するが,贖いの代価が十字架上ですでに払われたことは弟子たちにはまだ隠されている.〈事実,そればかりでなく〉は「それどころか更にこれらすべてに加えて」で,望み(参照2:38)が消えただけでなく更に困惑させられる事件が発生したとの意味.〈3日目〉はイエスの復活予告用語で(9:22,18:33),かつ,御使いの復活告知用語(24:7).彼らはその言葉を用いながら,なおも復活を信じられない 22‐24 彼らを困惑させ〈驚かせ〉た(参照2:47)のは〈仲間の女たち〉がもたらした空虚な〈墓〉の報告(22).23節は原文では,女たちが「見た」ものと「見なかった」ものとが対比される(24節も同様).御使いの「生きている方」(5),「よみがえられたのです」(6)との告知は,女たちの口を通して〈イエスは生きておられる〉(23)という信仰告白の言葉となる.墓へ行ったのは女たちだけではない.ペテロ(12)や〈仲間の何人か〉も〈墓に行ってみ〉て確認した(24).彼らが「見た」のは「女たちが言った通りであること」,「見なかった」のは〈イエスさま〉(24)(原文は「だが彼を見付けなかった」で「彼」を強調) 25 イエスは弟子たちの心の愚かさと鈍さが聖書を信じることを妨げているのだと告げる.〈心の〉は〈愚かな〉と〈鈍い〉の両方にかかる.彼らの心は「信じるには」(〈信じない〉の原文はルカ愛好の定冠詞付不定詞)愚鈍すぎた(38).〈預言者たち〉は弟子たちのイエス観「預言者でした」(19)を受ける.イエスは彼らが考えているような預言者の1人なのではなく,預言者たちが預言して〈言った〉メシヤだった.彼らは預言者たちの言葉〈すべてを〉信じることに愚鈍である.〈すべてを信じない〉は全否定の意味ではない.彼らは一部を信じるが一部を疑いあるいは否定する.それ故に誤ったメシヤ観を抱くし,メシヤの受難の意味も解せず復活も信じ得ない 26 イエスは,聖書(27)が告げていたメシヤは受難の〈キリスト〉であること(2:11),受難を経て〈栄光にはいる〉メシヤであることを教える.受難と結び付いた〈必ず……はず〉は9:22,13:33,22:37,24:7にもある.〈苦しみを受け〉るは受難と十字架を指す語(9:22,17:25,22:15,24:46).メシヤの〈栄光〉.参照9:26,21:27 27 〈モーセおよびすべての預言者〉は旧約聖書全体(16:29,31).イエスは〈聖書全体の中〉に〈ご自分について書いてある事がら〉を示し,その意味を〈説き明かされた〉(解釈した,説明した)
【口語訳】 使 10:9-16
10:9 翌日、この三人が旅をつづけて町の近くにきたころ、ペテロは祈をするため屋上にのぼった。時は昼の十二時ごろであった。 10:10 彼は空腹をおぼえて、何か食べたいと思った。そして、人々が食事の用意をしている間に、夢心地になった。 10:11 すると、天が開け、大きな布のような入れ物が、四すみをつるされて、地上に降りて来るのを見た。 10:12 その中には、地上の四つ足や這うもの、また空の鳥など、各種の生きものがはいっていた。 10:13 そして声が彼に聞えてきた、「ペテロよ。立って、それらをほふって食べなさい」。 10:14 ペテロは言った、「主よ、それはできません。わたしは今までに、清くないもの、汚れたものは、何一つ食べたことがありません」。 10:15 すると、声が二度目にかかってきた、「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」。 10:16 こんなことが三度もあってから、その入れ物はすぐ天に引き上げられた。 【新共同訳】 使 10:9-16
10:9 翌日、この三人が旅をしてヤッファの町に近づいたころ、ペトロは祈るため屋上に上がった。昼の十二時ごろである。 10:10 彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。人々が食事の準備をしているうちに、ペトロは我を忘れたようになり、 10:11 天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。 10:12 その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。 10:13 そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」と言う声がした。 10:14 しかし、ペトロは言った。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」 10:15 すると、また声が聞こえてきた。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」 10:16 こういうことが三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた。 【新改訳改訂3】 使 10:9-16
10:9 その翌日、この人たちが旅を続けて、町の近くまで来たころ、ペテロは祈りをするために屋上に上った。昼の十二時ごろであった。 10:10 すると彼は非常に空腹を覚え、食事をしたくなった。ところが、食事の用意がされている間に、彼はうっとりと夢ごこちになった。 10:11 見ると、天が開けており、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来た。 10:12 その中には、地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また、空の鳥などがいた。 10:13 そして、彼に、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい」という声が聞こえた。 10:14 しかしペテロは言った。「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」 10:15 すると、再び声があって、彼にこう言った。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」 10:16 こんなことが三回あって後、その入れ物はすぐ天に引き上げられた。 注解   (聖書の達人2聖書注解)
ペテロ,幻を見る(9‐16) 一方ペテロも,祈りの中で幻を見る.彼もユダヤ教の祈りの習慣を守っている.保守的なユダヤ人キリスト者としてのペテロの姿が強調されている.〈天が開けており〉(11)は,神の啓示と語りかけを予期させる.だが,幻のイメージはペテロに不快感を与えるものだった.〈大きな敷布のような入れ物〉(11)には,律法が食べることを禁じた〈汚れた物〉(14)があったのである(参照レビ11章).主の声が食べよと命じたが,ペテロは拒む.彼はそれを誘惑の声と聞いたのであろう.しかし声は更に促す.〈神がきよめた物を,きよくないと言ってはならない〉(15).古い教えに新しい意味を満たす,神のわざが始まっていた.その時人は,神の御旨に服従し,遅れずについていくこと,ただそれだけが求められているのである
【口語訳】 使 10:44-48
10:44 ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。 10:45 割礼を受けている信者で、ペテロについてきた人たちは、異邦人たちにも聖霊の賜物が注がれたのを見て、驚いた。 10:46 それは、彼らが異言を語って神をさんびしているのを聞いたからである。そこで、ペテロが言い出した、 10:47 「この人たちがわたしたちと同じように聖霊を受けたからには、彼らに水でバプテスマを授けるのを、だれがこばみ得ようか」。 10:48 こう言って、ペテロはその人々に命じて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けさせた。それから、彼らはペテロに願って、なお数日のあいだ滞在してもらった。 【新共同訳】 使 10:44-48
10:44 ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。 10:45 割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。 10:46 異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。そこでペトロは、 10:47 「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」と言った。
10:48 そして、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと、その人たちに命じた。それから、コルネリウスたちは、ペトロになお数日滞在するようにと願った。 【新改訳改訂3】 使 10:44-48
10:44 ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。 10:45 割礼を受けている信者で、ペテロといっしょに来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたので驚いた。 10:46 彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである。そこでペテロはこう言った。 10:47 「この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けたのですから、いったいだれが、水をさし止めて、この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか。」 10:48 そして、イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けるように彼らに命じた。彼らは、ペテロに数日間滞在するように願った。 注解   (聖書の達人2聖書注解)
異邦人への聖霊の注ぎ(44‐48) 説教が終らないうちに聖霊が下る.聞き手の信仰にのみ基づいて,聖霊が注がれたことはペテロの説教(43)の実現である.随行したユダヤ人キリスト者は,異邦人への聖霊の注ぎに驚く.聖霊を受けた彼らに,水の洗礼を差し止める理由は何もないと,ペテロは言う.異邦人洗礼に対する,使徒の権威ある承認である.しかしその決定を導いたのは,聖霊の自由な恵みにほかならない
問2
【口語訳】 使 1:6 さて、弟子たちが一緒に集まったとき、イエスに問うて言った、「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」。
【新共同訳】 使 1:6 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。
【新改訳改訂第3版】 使 1:6 そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」
注解   (聖書の達人2聖書注解)
イエスの救いの使信は,いまだ弟子たちに十分には理解されない.彼らの関心はイスラエルという国の〈再興〉(6)である.
*ダニエル書8:14の聖所・・・
【新共同訳】 ダニ 8:14 彼は続けた。「日が暮れ、夜の明けること二千三百回に及んで、聖所はあるべき状態に戻る。」
月曜日 聖書を調べる
問3
【口語訳】 使 17:11 ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちよりも素直であって、心から教を受けいれ、果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた。
【新共同訳】 使 17:11 ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。
【新改訳改訂第3版】 使 17:11 ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。
注解   (聖書の達人2聖書注解)
テサロニケを退去し,ベレヤに向かう.西へ80㎞の距離である.ここではユダヤ人から好意的に迎えられた.パウロの語る説教に傾聴し,聖書による福音の証明が〈そのとおりかどうか〉(11)毎日調べた.熱心な聖書研究が入信者を増やした.
問4
【口語訳】 箴 2:1-6
2:1 わが子よ、もしあなたが/わたしの言葉を受け、わたしの戒めを、あなたの心におさめ、 2:2 あなたの耳を知恵に傾け、あなたの心を悟りに向け、 2:3 しかも、もし知識を呼び求め、悟りを得ようと、あなたの声をあげ、 2:4 銀を求めるように、これを求め、かくれた宝を尋ねるように、これを尋ねるならば、 2:5 あなたは、主を恐れることを悟り、神を知ることができるようになる。 2:6 これは、主が知恵を与え、知識と悟りとは、み口から出るからである。 【新共同訳】 箴 2:1-6
2:1 わが子よ/わたしの言葉を受け入れ、戒めを大切にして 2:2 知恵に耳を傾け、英知に心を向けるなら 2:3 分別に呼びかけ、英知に向かって声をあげるなら 2:4 銀を求めるようにそれを尋ね/宝物を求めるようにそれを捜すなら 2:5 あなたは主を畏れることを悟り/神を知ることに到達するであろう。 2:6 知恵を授けるのは主。主の口は知識と英知を与える。 【新改訳改訂3】 箴 2:1-6
2:1 わが子よ。もしあなたが、私のことばを受け入れ、私の命令をあなたのうちにたくわえ、 2:2 あなたの耳を知恵に傾け、あなたの心を英知に向けるなら、 2:3 もしあなたが悟りを呼び求め、英知を求めて声をあげ、 2:4 銀のように、これを捜し、隠された宝のように、これを探り出すなら、 2:5 そのとき、あなたは、【主】を恐れることを悟り、神の知識を見いだそう。 2:6 【主】が知恵を与え、御口を通して知識と英知を与えられるからだ。 注解   (聖書の達人2聖書注解)
知恵を求める者(1‐6) 1‐4この章でも〈わが子よ〉と呼びかけているが,その主体が誰であるかは示されていない.神の知恵を求める具体的な1つの方法は,〈ことばを受け入れ〉,命令を自分の内に〈たくわえ〉ることである(1).これは単に教えを聞き流すのでなく,それを暗記し,何度も繰り返し考えることを意味する.つまり,おざなりに求めるのではなく,熱心に求めるのである.そのことは〈銀のように,これを捜し,隠された宝のように,これを探り出すなら〉(4)という比喩によって,一層明確にされている.5そうして初めて,〈主を恐れることを悟り,神の知識を見いだ〉すのである.ここでも主を畏れることと,知識が対句として用いられている.6ここで注意しなければならないことは,人間は熱心に知恵を求めはするが,その知恵を与えて下さるのは主であるということである.主体はどこまでも神である.しかも神は〈御口を通して〉,すなわち,主の言葉を通して知恵を与えられる.なぜなら主の言葉であるイエス・キリストのうちに「知恵と知識との宝がすべて隠されている」(コロ2:3)からである.そして,知恵は神の言葉である聖書を通して我々に示されている
【口語訳】 イザ 34:16 あなたがたは主の書をつまびらかに/たずねて、これを読め。これらのものは一つも欠けることなく、また一つもその連れ合いを欠くものはない。これは主の口がこれを命じ、その霊が彼らを集められたからである。
【新共同訳】 イザ 34:16 主の書に尋ね求め、読んでみよ。これらのものに、ひとつも欠けるものはない。雌も雄も、それぞれ対を見いださぬことはない。それは、主の口が命じ/主の霊が集めたものだからである。
【新改訳改訂第3版】 イザ 34:16 【主】の書物を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。それぞれ自分の連れ合いを欠くものはいない。それは、【主】の口がこれを命じ、主の御霊が、これらを集めたからである。
【口語訳】 マタ 4:4 イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。
【新共同訳】 マタ 4:4 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」
【新改訳改訂第3版】 マタ 4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」
注解   (聖書の達人2聖書注解)
自らの飢えを解決し,飢えている人々を助けるなら,メシヤとしての使命を容易に達成出来るではないかと,味方を装って勧める.しかしイエスは,申8:3の言葉をもってそれを退けた.モーセに率いられエジプトを出たイスラエルの民は,荒野で40年間さまよった.それはエジプトから解放して下さった神を彼らが信頼せず,つぶやいたからである.しかし神は,彼らが思いもしなかったマナを与えて養ったので,彼らは神の真実な顧みを経験し,パンも大切であるが,パンを与えて下さる神を知り,神の言葉によって養われることはもっと重要であることを学んだ.悪魔の提案は,この神への信頼を抜きにしてパンを得ることへの誘いである.「あなたは神の子なのだから,父なる神にパンを祈り求めたらどうか」ではなく,「自分の力で石をパンに変え,神の子としての力を発揮したらどうか」という提案の危険性をイエスは見抜いたのである
【口語訳】 黙 1:3 この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。時が近づいているからである。
【新共同訳】 黙 1:3 この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである。
【新改訳改訂第3版】 黙 1:3 この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。
注解   (聖書の達人2聖書注解)
〈時が近づいているからである〉(3)から,本書の性質が単なる未来のことの予告ではないことがわかる.事実,主イエスが弟子たちに,「主人が不意に帰って来たとき眠っているのを見られないようにしなさい」(マコ13:36)と警告されたように,主の初臨と再臨との間は人間の尺度ではなく神の物指しで測られるべきことは,新約聖書に繰り返されていることである(マタ24:50,ヘブ1:2,Ⅱペテ3:8,Ⅰヨハ2:18等).3節の〈朗読する者〉が単数で,〈聞いて〉〈心に留める〉人々が複数であるから,諸教会で公的に読まれる意図のあったことがうかがえる
参考   (聖書の達人2聖書辞典)
■けいじ 啓示
1.語義と概念.「啓示」(英語でRevelation,ドイツ語でOffenbarung)は,「覆いを取り除く」「明らかにする」「示す」「知らせる」を意味している旧約ヘブル語のglh(創35:7,アモ3:7)や,新約ギリシヤ語のアポカリュプトー(マタ11:25,ガラ1:16)およびファネロオー(ヨハ2:11,ロマ1:19)を初め,同系統の関連語をもとにして生れた宗教的術語である.聖書において,基本的には,超越的存在である神が,救いを与え交わりを樹立することを目的として,自ら人間に向かってその存在と本性を示し,計画と意志を明らかにし,力と栄光を現すことを意味している(ヘブ1:1‐5.参照申29:29,Ⅱコリ4:6,Ⅰテモ1:15). 聖書の開巻冒頭に「初めに,神」(創1:1)とあるように,聖書の宗教は神の主権的先制活動(最初に事を始めるのは常に神であるという信仰)に貫かれている.聖書が語っている啓示ということも同じ特色を示している.ヘブ1:1で「神は……語られました」と言われているように,神は啓示においても主導性を発揮し,人間が発起して神を探し求める以前に,神は人間を訪ね,神自ら人間に御自身を開示された.そのようなわけで,啓示ということは,人間の探求による発見とか,人間の力による洞察の看破とか,人間に内在していることの想起(アナムネーシス)ということとは著しい対照をなしている概念である. ところで,聖書におけるこのような神の側からの啓示の強調の背景には,次の2つの重要な事柄があることを心にとめなければならない.第1に,神は「超越的な存在」であるため,有限な人間の側から神に近づく手段はないという聖書の主張である.聖書によると,神は超越した聖なる方として,近づくことのできない光の中に住まわれ,人間がだれ一人見たことのない,また見ることのできない存在である(Ⅰテモ6:16.参照出33:20,ヨハ1:18).したがって,人間は自分の手で神を探し出すことも,また推量や思索によって神の思いを読み取ることもできない(ヨブ11:7,23:3‐9,イザ55:8‐9).実は,堕罪以前のエデンの園においてさえ,アダムは神の語りかけ,つまり神の啓示によって導かれていたのである(創2:16).第2に,神が人格的な交わりの相手に選んだ人間は,実際には「罪深い存在」であるという点である.罪の根源であるサタンが人間の心,思い,知性をくらませてしまったために(Ⅱコリ4:4,エペ4:18‐19),人間はもはや自力で神に属する事柄を判別することができなくなってしまっている(Ⅰコリ1:21).このような罪による暗黒と悲惨の中に転落してしまった人間にとって,神を知る唯一の可能性は,神の側からの自己伝達,自己開示,自己投与によるほかはないというのが聖書の基本的理解である.この意味において,神の啓示はまさに神の恩恵行為にほかならない(詩147:19‐20). 2.一般啓示.聖書は,全世界,全世代,全民族に与えられている神の啓示について語っている.たとえば,天や大空は神の栄光と威光を語り告げており(詩19:1),創造者なる神の存在,永遠の力,知恵は被造物によって知られるとある(ロマ1:19‐20.参照詩104:24).神はまた,人間の道徳意識や良心を通して,御自身が義なる方であり悪を処罰する方であることを示している(ロマ1:32,2:14‐15).さらに,神は人間の歴史におけるもろもろの摂理的なわざによって人間と対面される(詩94:10,ダニ4:17‐25,使14:15‐17).つまり,人間は意識するにせよしないにせよ,常に以上のような神の光に包まれているのである.歴史の教会はこのような啓示の光を「一般啓示」(General revelation)と呼んできた.そう呼んだ理由は,以上の例から明らかなように,それが時,場所,民族にかかわりなく一般的普遍的に与えられている啓示であること,また,その内容が後にふれる救いのための特殊的,限定的な啓示に比較して一般的なものであるためである.パウロのアレオパゴスにおける説教から分るように,聖書はこの一般啓示が世界の宗教の存在を説明するものと見ている(使17:16‐31). だが,人間の堕落の結果,罪による汚染とその破壊的影響は,造られた自然と世界そのものに及ぶようになった(創3:17‐19).また,人間自身も罪によって「知力は暗くなり」「内なる無知と心の硬化」(参照エペ4:18)が起り,真の神を知ることができなくなり,偶像崇拝の幻想のとりこになってしまった(ロマ1:18,21‐25,Ⅰテサ4:5,Ⅱテサ1:8).その結果人間は自然を見てもそれを正しく解釈することができなくなったのである(たとえばアラムの場合.Ⅰ列20:28).さらに,一般啓示は神についてある程度の認識を与えてくれるが,肝心な救いの唯一の道であるイエス・キリストは示さないという決定的な制約を受けている(マタ11:27,ヨハ14:6,16:3,使4:12).ここに一般啓示の限界がある. 3.救いのための特別啓示.人間は言い逃れができないほどに神の一般啓示の光に取り囲まれているが,「それはちょうど,いなずまのひらめく夜,人が野原の真中を行くようなものである.一瞬ひらめくときには,遠く・広く見はるかすことができる.しかし,たちまちにして視界は消えさって,かれがひと足すすめる前に,夜のやみの中に没してしまうのである.こうして,道をたどる上には全く助けにならないのである」(カルヴァン『キリスト教綱要』2:2:18).さて,このように,そのままでは罪のゆえに暗黒の中に取り残され,やがては滅びるほかない人間の救いのために,神は歴史の中に介入し,特別な啓示を与えられた. まず,イエス・キリストの受肉が明示しているように,神はこの特別啓示を与えるに当って,この世界ならびに人間のレベルにまで下降し,世界の中の多種多様なメディアを用いて御自身と救いの計画とを明らかにされた.人間の言語や歴史上の出来事を初め,くじ(箴16:33,使1:21‐26),ウリム,トンミム(Ⅰサム28:6),深い眠り(ヨブ4:13),夢(民12:6),幻(イザ1:1,エゼ8:2‐3)なども用いられた.また,「主の使い」すなわち神から区別されている(出23:20‐23,イザ63:8‐9)反面,神と同一視されている特殊な存在(創16:13,31:11,32:28),ケルビム(詩80:1),御使い(使7:35,ガラ3:19),火と煙(創15:17,出3:2),嵐(ヨブ38:1)を通して啓示を与えられた.時には「アーモンドの枝」(エレ1:11)や「一かごの夏のくだもの」(アモ8:1‐2)さえも用いられた.大切な点は,神が人間との真の接触を持つために,これらの地上的媒体につきまとう限界や弱さをその主権のもとに制し,それらを用いたという事実である. だが,全体的に見ると,神の特別啓示は次の2つの面から成り立っている.一つは「行為による啓示」であり,もう一つは「ことばによる啓示」である.言い換えれば,「出来事としての啓示」と「知識」もしくは「情報の伝達としての啓示」の2つの面である. 聖書に記録されている神の啓示活動を見ると,まず,神は歴史における行為や出来事を通して御自身と御旨とを啓示している.神は「アブラハム,イサク,ヤコブに……現われた」(出6:3)とあるように,生ける神は人間と人格的に出会い,その実在を啓示された(創35:7).また,出エジプトにまつわる一連の大きなみわざを通してイスラエルに啓示を与えた(出20:2,Ⅱ列17:36).イスラエルは,「主の正しいみわざを知るため」に,過去の歴史を思い起すよう呼びかけられている(ミカ6:5).詩78篇は「主の行なわれた奇しいわざ」(4節)の復唱(recital)の詩である.一方,福音は「神の大きなみわざ」の物語であると見られており(使2:11),マリヤの賛歌においても,神のもろもろの行為が浮彫にされている(ルカ1:46以下).このように,神は歴史における具体的な行為(多くの場合神の救済的行為と密着している)を通して御自身の啓示を与えられた. もう一つの面はことばによる啓示である.聖書の啓示理解において,行為とことば,出来事と解釈とは一体となっている.行為や出来事という面をいくら強調しても,そもそもそれに関する記録がなければ,それを知ることも,それにふれることもできない.また,ことばを通して与えられている解釈は,啓示にとって不可欠な要素である.たとえば,疑いもなくあの出エジプトの出来事は,当時のエジプト人にはイスラエル人の場合とは違ったものとして映ったに違いない.つまり神の啓示とは見られなかったに違いないのである.その決め手は,どのような解釈を手にしていたかである. 実は,神の啓示活動において,イエス・キリストの受肉を除けば,神の語りかけ,つまりことばによる啓示が最も中心的な位置を占めている.聖書の神は「語られる神」であり(アモ3:8),これがイスラエルの神を他の異教の神々から区別している決定的な点でもある.神は啓示において,御自身がどのような方であるか,過去において何をしたか,現在何を行っているか,未来に何をしようとしているかについて,また人間に何を求めているかについて,はっきりと語り,それに関する情報を与えられる.たとえば,神はアブラハムに御自身の計画と,それにおけるアブラハムの位置と役割について告げられた(創12:1以下).イスラエルに対しては,律法と契約とを与えられた(出20‐23章).預言者には御自身の御旨を語られた(アモ3:7).新約時代において,キリストは「父から聞いたことをみな」(ヨハ15:15)弟子たちに知らせた.神はまたパウロに,「奥義」つまり「御子においてあらかじめお立てになったご計画」(エペ1:9以下)を知らせ,ヨハネには「すぐに起こるはずの事」(黙1:1)を告げ示された.これらの啓示がみな,ことばを用いて与えられたことは言うまでもない.以上のように,行為あるいは出来事による啓示と,ことばあるいは情報による啓示は相互に補足し合いながら一体となって聖書の啓示観を構成している. 「定めの時」にこの世に遣わされたイエス・キリスト(ガラ4:4)は,以上のようにして与えられた特別啓示の究極であり,頂点である.「神は……この終わりの時には,御子によって,私たちに語られた」(ヘブ1:2).ことばとわざによって,その教えと歩まれた生涯およびわざによって,イエスは文字通り神を啓示した(ヨハ1:18,14:7‐11).イエスは神の本質の完全な現れであり(Ⅱコリ4:4,コロ1:15,ヘブ1:3),彼の救い主としてのわざは神の救いの計画の完全な啓示であり(Ⅰコリ1:24),救いのために人間が必要とするすべてのことは彼のうちに見出される(コロ2:3). 4.啓示と聖書.神は,御自身の啓示を確実な形で世々の人々に伝え知らせるために,啓示的文書,すなわち聖書を与えることをよしとされた.聖書は,行為とことば,出来事と情報・知識による神の啓示の唯一の記録であり,証言である.聖書は今日神の啓示を得ることのできる唯一不可欠の通路であり,場である.聖書は神の全啓示活動の結晶であると言える. 啓示的文書としての聖書は,自己自身について次の点を明らかにしている.(1)聖書は「霊感」(〈ギ〉セオプニューストス)と呼ばれている聖霊の働きのもとで与えられた(Ⅱテモ3:16).特に,この「霊感」は「神の口から吹き出された」を意味しており,聖書の神的起源を語っていることばである.(2)この「霊感」は,旧約の預言者たちや新約の使徒たちが書き記した最初の原本について言われている(Ⅱペテ1:21).(3)聖書のすべての聖句が同一の重さと価値とを持っているのではないが,使徒たちは聖書のある部分だけではなく,全体を啓示的文書として受け止めていた(ロマ15:4).(4)「霊感」は聖なる文書について言われているので,「霊感」の及んだ範囲は,ただ聖書の思想だけではなく,思想を伝えていることばそのものを含むものである(マタ4:4).(5)聖書は,聖霊と人間のペン,つまり神的要因と人間的要因による一つの有機的な連合活動の実である(Ⅱサム23:2).この点は,キリストの神・人二性に対し類比を持っていると見られる.(6)そのようにして与えられた聖書は,神のことばである(マコ7:13,使28:25).(7)聖書は真実なものであると共に,真理である(詩119:86,ヨハ17:17).(8)神のことばとしての聖書は,神的権威を帯びており,私たちに信仰と服従を要求する(イザ1:2,ヨハ10:35).(9)聖書は,罪人を信仰による救いに導くのに十分な光を持っているので,他のいかなる補足物も必要としない(Ⅱテモ3:15).(10)救いのために知り,信じ,守るべき事柄は,聖書の中にだれにでも理解できるような形で明瞭に示されている(詩119:105).(11)聖書の中心的目的は,人間にキリストを示し,神による救いを得させることである(ヨハ20:31).(12)聖書は,生きていて力があり(ヘブ4:12)(「火」エレ20:9,「岩を砕く金槌」エレ23:29),不毛に終ることがない(イザ55:11).(13)聖書が神のことばであることを究極的に確信させるのは,私たちの心のうちで証言する聖霊御自身である(Ⅰコリ2:14,Ⅱコリ1:22).以上が聖書の自己証言の輪郭である.今日,キリスト教啓示を知る唯一の道はこの聖書以外にはないので,聖書観の問題は啓示観の構成において決定的な重要性を持っている. 〔参考文献〕B・B・ウォーフィールド『聖書の霊感と権威』小峯書店,1973; Berkouwer, G.C., General Revelation, Eerdmans, 1955;Demarest, B., General Revelation, Zondervan,1982; Ramm, B., Special Revelation and theWord of God, Eerdmans, 1961; Henry, C. ed.,Revelation and the Bible, Presbyterian andReformed, 1958; Morris, L., I Believe inRevelation, Hodder and Stoughton, 1976;Packer, J., God Has Spoken, IVF, 1979;Pinnock, C., Biblical Revelation, Moody, 1971. (宇田 進)
火曜日 イエスをさし示す
問5
【口語訳】 ヨハ 5:39 あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。
【新共同訳】 ヨハ 5:39 あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。
【新改訳改訂第3版】 ヨハ 5:39 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。
【口語訳】 詩16:9-10
16:9 このゆえに、わたしの心は楽しみ、わたしの魂は喜ぶ。わたしの身もまた安らかである。16:10 あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、あなたの聖者に墓を見させられないからである。
【新共同訳】 詩16:9-10
16:9 わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。 16:10 あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず
【新改訳改訂第3版】 詩16:9-10
16:9 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。 16:10 まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。
注解   (聖書の達人2聖書注解)
9節.〈心〉〈たましい〉〈身〉によって全人の安全と健全を表している 10節は9節の説明である.ダビデの安全と健全は主との交わりの永遠性にある.パウロはこの箇所を使13:35で引用している.〈よみ〉とは死者の世界・状態を表し,墓がその入口(6:5,49:9,イザ5:14).〈よみ〉〈墓〉は場所よりは性質あるいは状態を表す.この節の〈聖徒〉は3節とは異なる〈ヘ〉ハーシードという語で,12:1と同じく,契約に基づく恵みを主から受けている者のこと,また主に忠誠を尽す者のこと.ここでは復活のことを直接扱ってはいないが,神と共なる生活は死や腐敗や滅びという恐れと不安を取り除き,永遠に至る希望を与えてくれるとの信仰者の確信を述べている
【口語訳】 詩 41:9 わたしの信頼した親しい友、わたしのパンを食べた親しい友さえも/わたしにそむいてくびすをあげた。
【新共同訳】 詩 41:10 わたしの信頼していた仲間/わたしのパンを食べる者が/威張ってわたしを足げにします。
【新改訳改訂第3版】 詩 41:9 私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた。
注解   (聖書の達人2聖書注解)
9節はヨハ13:18に引用されている.〈親しい友〉とは「私の平和の人」という表現で,ダビデの議官をしていたギロ人で,バテ・シェバの祖父アヒトフェルと考えられる(参照Ⅱサム15:12,31,16:23).そうであれば,この詩篇の背景はアブシャロムの謀反の時と言えよう
【新共同訳】 イザ 53:4-6
53:4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。 53:5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。 53:6 わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。 【新共同訳】 イザ 53:4-6
53:4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。 53:5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。 53:6 わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。 【新改訳改訂3】 イザ 53:4-6
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。 53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、【主】は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。 注解   (聖書の達人2聖書注解)
苦難のしもべのそのような苦難は,彼自身に理由があるのではなく,他の人々のためのものであり,身代り的,代償的なものである.自分自身が何か悪事をなし,報いとして災いを受けるというのではなく,刑罰を受けるべき者たちの身代りとなって刑罰を受け,傷つけられ,苦しめられるのである.苦難のしもべは,〈私たち〉(5)に平和を与え,いやしを与えるために,身代りになった.イザヤは自分自身をも含めてこの「私たち」を反復する.注目すべきは,〈主は,私たちのすべての咎を彼に負わせた〉(6)という言葉である.この「苦難のしもべ」である「主のしもべ」は,まさにイエス・キリストの代償死としての十字架の苦難と,それに至るまでの主キリストご自身の生涯を預言していると言い得る
【口語訳】 ミカ 5:3 それゆえ、産婦の産みおとす時まで、主は彼らを渡しおかれる。その後その兄弟

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